Short










聖チキチータの冒険














サバンナの女王




 うつらうつらしていると、鼻先を蝿が飛び回ります。こいつは、便利な目覚まし時計です。まわりは、織りをなすような若草色。首を伸ばしてやっと、丈の低い草の上に出るくらいです。見晴らしが利きません。いつも、土手の近くで休むのです。そこを登って、草原を見下ろし、前足を組んで無窮の青空に包まれます。点々と続くバオバブは、まるで空を躍る雲に呼応するかのようです。地平線上のどこかでは、ライオンの家族が憩うているでしょう。ハイエナの住む薮も、はるか遠くに見えます。これが、チキチータの世界なのです。

 この辺の草はまだ青々として、インパラにも、しま馬にも齧られていません。 昼過ぎには、彼らはやって来るでしょう。チキチータは、チーターには珍しく一 人っ子です。母の名はパンヤと言います。
 これは、たいへん畏れ多い名です。かつてキリマンジャロの麓に君臨し、獣、 鳥、虫までをも含めたすべての動物を平和裡に治めた伝説の王と一字違いなので す。ライオン仲間でもこれを尊んで、忌み名としているくらいです。つね日頃、 ライオンと仲の悪いチーターがこんな名を付けたら、あの嫉妬深い雌ライオン達 が放って置く筈がありません。八つ裂きにされ、喰い殺されるに決まっています。 ライオン、ハイエナ、チーター、豹は、縄張りの取り合いで、将来の競争相手を 減らす為に、よその子を見つけようものなら、情け容赦なく噛み殺してしまいま す。それでもパンヤは、今までそんな難儀に合った試しはありません。それはラ イオン達も、パンヤをチーターの女王として認めているからです。
 パンヤは、狩りの名人です。サバンナ一の俊足、トムソンガゼルを追って、湖 を何周も走れます。草原に潜み、しま馬の群を一頭で追い立てた事もあります。 そればかりではありません。彼女はチーターで唯一、水牛狩りの出来る選手なの です。水牛狩りは、ライオンにのみ許された技です。それも、三頭以上が必要で す。一頭が足に喰らい付き、一頭が喉笛にぶら下がり、もう一頭が背中に駆け登 ります。こいつが要で、脊髄に牙を刺して動きを止めるのです。様子を見たパン ヤは、これなら自分ひとりで出来るとチャレンジしました。獲物の少ない乾期の 事です。飢えたパンヤに、そいつはヌーほどの大きさに見えました。傷付いた水 牛が、群から離れて一頭でいたのです。持ち前の俊足を活かして一気に駆け登り、 背中の窪みに牙をお見舞いします。しかし、届きません。チーターの牙では、脊 髄を断つには到らないのです。パンヤは背骨をひと噛みし、改めて牙を見舞いま した。この二度噛みは、リカオン等、イヌ科の技です。動きの止まった水牛の首 筋をえぐって、とどめを刺すのは容易です。黒山のような獲物に、ハイエナやラ イオン達が寄って来ました。しかし、誰も横取りしません。ハイエナやライオン 達も狩人です。水牛のような大物喰いが、多少の威嚇で引き下がる訳がないと弁 えています。パンヤ親子は存分に腹を見たし、残りをサバンナの顔役に与えまし た。これはあくまでも、お裾分けなのです。
 そんなこんなで、サバンナでパンヤを知らない者はいません。ライオン達が憩 う木陰も、平気で横切って行きます。雌ライオン達は眼顔でこう言います。
「その名に恥じぬ生き方をなさい」
 パンヤもこう返します。
「あの技は、母さん達が教えてくれたものよ」
 技を伝授したのはライオンで、単身それを実行したのはパンヤなのです。彼ら は狩人として、勇者として、お互いを尊敬し、その面子を立て、領分を守ってい ました。
 パンヤは、チーターにしては高齢の方です。人間に喩えるなら、三十代の半ば です。今回のお産はチキチータひとりだったし、もうこれで子育ては終わりにし ようと思いました。子種を遺しては、流れ去ってゆく雄チーターの身勝手さには、 良い加減、飽きが来ていました。繁殖期ともなれば、多くの雄チーターが縄張り を横切ります。こちらの気持ち等はお構いなしに、勝手に喧嘩を始めて、花婿を 決めてしまうのです。その双方とも、パンヤより狩りが下手で、牙も小さいとい うのですから、話になりません。雄チーターに背中を貸すのは、もう沢山です。 いつかネコ族の聖地、キリマンジャロ詣でがしたいと願うパンヤです。それだけ に、最後の一子と見込んだチキチータには、惜しみない愛情を注ぐのでした。
 仔猫の頃は、母親の懐で遊んでいるようなものです。敵が来れば、母親が合図 するまで、じっと岩陰に隠れて身動きひとつせずに居ます。半年もして、手足が 伸びて来ると、母親の留守に遠出をしたりします。サバンナは、チーターの子供 を退屈させるような世界ではありません。
 チキチータが散歩していると、前方を鎧で固めたような生き物が歩いていまし た。遠慮なく近付くと、うかつにもチキチータは足音を立てたのでしょう。そい つは鞠のように丸まってしまいました。何という不思議な生き物でしょう。転がっ て石になるなんて。チキチータはかつて隠れ家で、虫が小さく丸くなるのを見た 事があります。しかし、獣でそれをやるとは、思いもよりませんでした。こいつ は石なのか、獣なのか、チキチータは前足で転がし回しました。そいつは急に、 手足をほどいて、元の姿に戻りました。その様子がまた、あの間抜けな虫にそっ くりです。しかも、言う事が失礼です。
「なあんだ、チーターの子供じゃないか。びっくりして損した」
 チキチータは眼を丸くするばかりです。
「お前ごときに食べられる俺様じゃないよ。この鱗は硬く、チーターごときの牙 は届かないんだ。それどころか、下手をすると怪我をするよ」
「おじさんは凄いんだね。全身で獲物に喰らい付くんだね」
 チキチータには、そのとがった鱗が、牙のように見えたのです。
「ははは、俺様は殺生はしない。俺が頂くのはシロアリさ。俺がいなきゃ、こい つらはバオバブまで喰い荒らす。言わば俺様は、サバンナの白蟻駆除カンパニー なのさ」
「へえー、シロアリって、どうやって食べるの」
 センザンコウは、やおら後足で立ち上がりました。
「この舌でね」
 その舌の長い事。それと、前足の爪の鋭い事。まるで、化け物です。失礼と知 りながら、チキチータは思わず背を向けて逃げ出してしまいました。

 サバンナには、土手や岩山が多くあります。土手や岩山は、動きません。その 動かない筈の岩が、のっしのっしと動いているではありませんか。これは、珍し がり屋のチキチータの眼を惹かずにはいませんでした。近付くと、その岩には、 頭と手足とが付いています。
「君は岩なの、獣なの」
 ライオン以外には無遠慮なチキチータは尋ねます。相手が黙っているので、な おも喰い下がります。
「あっちの岩場でマントヒヒの腰掛けになっていた事はないかい? 君の腹の下 に、兎が巣を作っていた事はないかい?」
 ずっと知らぬ顔を決め込んでいたのですが、あんまりうるさく付きまとわれる ので、そいつは口を開きました。
「私はサバンナの生き証人になるんだよ」
 なんだか、偉い人のようです。チキチータは眼を丸くして、思わず、頭を地に 伏せました。
「かつて、北の大地で、十戒を垂れた人がいる。同じ地方で、十字架に掛かった 人がいる。間もなく、新たな予言者が生まれるだろう。私はそれを、後世に語り 継ぐんだよ」
 十戒、十字架、それはキリマンジャロと関係があるのでしょうか。
「この背中には宇宙の縮図が書かれてあるよ」
 チキチータはそこに爪を立てて、つらつらと眺めて見ました。サバンナは判り ます。ライオンの群が描かれてありますから。でも、北に伸びるくねくねの線や、 東の三角などは、さっぱり合点がゆきません。ゾウガメは、チキチータが獣には 珍しく、向学心が旺盛なのを喜びました。そして、旅の途中だが、いつでも教え を乞いに来て良いと許しました。そう言いながら、ゾウガメはいつまでも縄張り の中に停まり、チキチータはいつでも気の向いた時に会いに行く事が出来ました。 何しろ、相手は足が遅く、チキチータは足が速かったもので。

 一年たつと、チキチータは母親と同じくらいに成長しました。でも、手足は細 く、要領は得ず、頭の中はまったく変わりません。母の俊足には及びませんが、 ライオンやハイエナを恐れずに済みます。兎や仔鹿などは見つけ次第たいらげ、 ハゲタカが飛び立つ前に取り押さえる事もできます。周辺では、腕白の乱暴者で 通っていました。でも、好奇心が強く、人懐っこい性格は変わりません。ただ、 体が大きくなったので、乱暴なように見られるだけです。おまけに、やはり、生 まれが肉食獣ですから。

 縄張りの巡回は、母から与えられた仕事のひとつです。パンヤのみならず、チ キチータまでが、尿付けや遠吠えや見回りをするのです。ほかのチーター親子が 来れば、引き返すように注意します。難しいのは、縄張りが重なる、ほかのネコ 族の扱いです。
 倒木を囲んで草が茂っています。通りかかると、その影が揺れ動きました。チ キチータの眼に、それはすぐに正体を明らかにしました。何と、豹の赤ちゃんで す。豹の赤ちゃんは珍しいのです。ふだんは樹の上で暮らす豹ですが、子育ては さすがに地上でします。隠れ身や、不意打ちや、サバンナの忍者というべき豹は、 子供も絶対に人眼に付かない所に隠します。チキチータはそれを見つけてしまっ たのです。珍しがり屋で、面倒見の良いチキチータは、この新しい友達に遠慮な く近付きました。すると、どこから降って湧いたのでしょうか。獰猛な母親ヒョ ウが牙を剥いて唸っているではありませんか。天使から悪魔への、早変わりです。
「チーターと豹とは体格も互角、牙も互角。どちらが強いか試して見ようじゃな いか」
 冗談じゃありません。チーターと豹なら、豹の方がひと回り大きいのです。牙 もそうです。同じタイプの獣なら、体格がすべてを決定します。その悪魔のよう な瞳が光るなり、チキチータは踵を返して逃げ去りました。母ヒョウの牙は、あ やうくチキチータの尻尾を喰いちぎるところでした。チキチータは踵返しと、胴 ひねりの技で、瞬時に逃げたのです。同じ事はネコ科の豹もできます。しかし、 チキチータに分があったのは、いつも犬のように出している爪で、大地を蹴った 事です。それと、何よりも、判断の早いのが救いでした。ふだんのパンヤの振る 舞いや、草食獣の母親の死にもの狂いの抵抗から、獣の母親がどれほど交際嫌い で、近付く者に容赦しないかという事は、よく知っていましたから。
 この頃は遠出をしても、パンヤからお叱りを喰う事はありません。ですから、 二日、三日の旅に出る事もあります。サバンナを西へまっすぐ歩いたチキチータ は、大きな河に足を止められました。足元からすぐ、崖となって大地がえぐられ ています。遥か遠くを、ヌーの大群が渡っています。それを狙って、ワニ達がす るすると泳いでいきます。すべてが珍しい光景です。チキチータは時を忘れて、 崖っ縁を行ったり来たりしました。
 ある木陰でひと休みしました。そこでは、河岸はひと際高く、山のように盛り 上がっています。遠くの風景に見とれて、疲れた心を慰めるにはお誂え向きです。 ふと、チキチータは、崖の向こうに生命の鼓動を感じました。近寄ると、何と、 そこには寄る辺ない友達がいました。ライオンの赤ちゃんです。さすがはライオ ン、赤ちゃんの頃からこんなに遠出をして、見聞を広めているのです。百獣の王 にふさわしい振る舞いです。
「君は偉いね、こんなに幼い時から、ここまで遠出をするんだね」
 相手は眼をくりくりさせて、チキチータを見つめるばかりです。何も言いませ ん。そう、まだ幼いから、喋べれないのです。
「僕もここを降りようとは思わなかったよ。水は怖いし、帰れなくなるかも知れ ないからね」
 ライオンの赤ちゃんは、必死で崖にしがみ付いています。その二本の前脚が震 えています。どうやら、好きでここに居る訳ではなさそうです。チキチータは心 得て、身を乗り出し、その首筋をそっと噛んで、引き上げてやりました。帰る所 はなさそうです。チキチータのあとを、小さい手足で懸命に走ります。ずっと付 いて来るので、チキチータは歩みを遅くしたり、追い付くのを待ったり、背中に 載せてやったりしました。
 パンヤは、チキチータに伴われた友人を暖かく向かえました。ローマの建国者 ロムルスは狼に育てられました。補乳類はみんな友達になれるのです。ましてや 近縁のチーターとライオン、こんなに幼く、しかも息子が連れて来たとあれば、 分け隔てのしようがありません。ライオンの赤ちゃんの、あどけない仕草は、パ ンヤの母性本能をくすぐり、胸を膨らませました。ふたりはその子に、テリーと いう名前を付け、親子兄弟も同然に育てました。
 ある朝の事です。岩陰から起き出したパンヤ親子は、そこに恐ろしい物を見つ けました。巨大な雌ライオンが、岩穴を覗いているのです。ライオンはチーター の二倍以上、いかにパンヤと言えども、ふたりの子を守り切れません。ライオン がチーターを、こんな形で襲うなんて、意想外の事です。
 警戒を強めるパンヤとチキチータですが、そのライオンは攻撃する素振りを見 せません。それどころか、悲しげに唸り、いつまでも泣いているのです。
「失礼ですが、どうかなさいましたか」
 パンヤが口を切りました。警戒は解いていません。
「その子だよ、その子を助けてくれたのは、あんた達なんだね」
「テリーがどうかしましたか」
 その名を聞くと、ライオンはたまらず吠え、おいおい泣き出しました。今では テリーは、チキチータの家族です。今もチキチータの陰に隠れ、その侵入者に怯 えています。しかし、ライオンの赤ちゃんは、ライオンから生まれるものです。 もしかしたらテリーは、この雌ライオンの子供なのかも知れません。
「良い名を貰っているんだねえ」
 雌ライオンは訳を話しました。ライオンは厳しい掟の下に暮らしています。群 を形成するのは、雌ライオンとその姉妹、子供達です。雄ライオンは流れて来て、 そこにリーダーとして君臨します。新たな流れ者が、今までのリーダーを打ち負 かした場合、旧主は殺され、その幼な児は遠くに捨てられます。獅子は我が子を 千尋の谷に突き落として鍛えるとは、この事実を間違って解釈したものです。彼 女は今までの夫を失い、愛する子供をも失ったのです。しかも、老齢の身、もう 新しい子供は授からないかも知れません。それが、同じ境遇のパンヤをいたく同 情させました。
「ようござんす、この子はあたしにお任せ下さい」
「頼んだよ」
 老齢の雌ライオンは、振り返り、振り返りしながら、岩場を去りました。肝心 のテリーは、事情を何ひとつ呑み込めていません。いつか、亡き父の仇を討ち、 群を取り返す事ができるのでしょうか。それとも、流れ流れて、遠くで武勲を上 げるのでしょうか。いずれにしても、ライオンの厳しさを、肝に命じるパンヤで す。単なる狩人ではない、群の統率者としての帝王教育を施さねばならないので す。この子は立派に育てますよと、夕陽に溶ける孤影に誓うパンヤなのです。












忍びよる影




 チキチータの縄張りに、人間がちらほらする事もあります。遠出をすると、な おさらよく見かけます。チキチータは人間が嫌いです。不気味で、奇妙で、何を 考えているのか、得体が知れません。人間という奴は、二本足で立っているのに、 前に倒れもせず、後ろに倒れもせずに居られる、不思議な生き物です。あれはきっ と、頭を空中で釘付けしているに違いありません。おまけに、あの厳しい眼差し。 動物はみんな、黒眼がちの、つぶらな瞳をしているものです。肉食動物でもそう です。人間だけは、左右に白眼を作って、まるで毒蛇のように世界を睨み付けて います。おまけに一本の毛もない、砂漠のようなつるつるの肌。こんな特徴の違 いは、数え上げれば切りがありません。まるで、宇宙人です。だから、哀れな飼 い牛を追って、人が縄張りを通り過ぎても、君子危うきに近付かずで、チキチー タは放って置くのです。
 近くに住んでいるのは、ワシリー族です。陀鳥の羽根を黄色く染めて、それを 背中から肩、手首にまで付けています。人間にしては、見栄えがする方です。先 祖代々の飾りだそうで、祖父から孫へと、成人式の日に隔世に伝えられるそうで す。その羽根飾りを付けた若者は、勇んで花嫁探しの旅に出て、あっという間に 三人くらいの子を設けてしまいます。今もチキチータの前に、ひょうきんな顔を 表しているのは、ワシリー族の変わり者タンゴです。彼は大人になっても、花嫁 を娶らず、夢ばかり追っているのです。
「よお、チキチータじゃないか。元気そうで何より」
 こちらはずっと、うさん臭い眼で見ているというのに、向こうは馴れ馴れしさ 全開です。背後には、何人か仲間もいます。
「もう大人じゃないか。もうちょっと小さければさらうのに」
「チキチータをさらうだって、飛んでもない。こいつはサバンナの女王パンヤの 最後の一粒種さ」
 そうです、人間はチーターの子をさらって、狩りの手助けをさせる事もあるの です。用心するに越した事はありません。
「今日はボンゴ族から、十二の妹をくれてやった代わりに、シマウマの片脚を貰っ たんだ。そら、分けてやるよ」
 タンゴは生肉のかけらを投げて寄こしました。チキチータは匂いを嗅いだだけ で、食べません。人間のする事はみな、警戒すべきなのです。ただ、その後ろ姿 をいつまでも見送っていました。

 太ったマントヒヒを狙って、岩山めぐりをしていた時の事です。岩陰を覗くと、 そこにタンゴが座っているではありませんか。瞑想に耽っていたようです。しか し、チキチータの姿を認めると、いつもの陽気なタンゴに戻りました。
「チキチータ、俺を喰おうってのかい。そうでないなら、ここにおいでよ。話を しよう」
「ビィッ」
 チキチータは警戒音を発しました。猫の場合、それは「ミー」ですが、チータ ーの場合、それは「ビー」なのです。
「おっ、ビーと言ったね。じゃあ、こいつは行けるかい。アッ」
 タンゴは何度も何度も、繰り返し、それをせがみます。実際、タンゴは親の代 から、チーターの調教を手掛けていたのです。動物の訓練に必要とされる、根気 と愛情にはこと欠かないのです。あんまり繰り返すので、チキチータはタンゴが 哀れになり、言ってやりました。それは親に甘える時、機嫌が良い時に発する、 「ア」です。
「おお、ア、と言ったね。じゃあ、お次は、ウ、だ」
 これも何度も繰り返します。チキチータは、自分がおちょくられているような 気がしたんですが、根負けして、半分は釣られて、声を発しました。威嚇の「ウ」 です。
「じゃあ、お次は、エ、と行こう」
 タンゴは、その不細工な唇を何度も横に押し広げます。あんまり見良い顔では ないので、その顔をやめさせる為に、チキチータは無理をしました。兄弟とじゃ れるのに、遊び飽きた時に発する「エ」です。
「じゃあ、お次は、オ、だ」
 タンゴはリカオンのような座り方をして、高々と喉を上げて、遠吠えをします。 それは、イヌ科動物には造作のない事ですが、ネコ科動物には馴染みがありませ ん。特に、チーターには縁のないものです。しかし、ライオンのそれを真似て、 チキチータも見事に唸って見せました。ついでに、牙を剥き出しにしたので、タ ンゴはのけぞってしまいます。しかし、大喜びです。
「こいつはすごいぞ。ア、イ、ウ、エ、オだ。あとは子音の勉強をするだけだ。 お前は人間の言葉が喋べれる。動物の心を理解する人間は多いが、その逆は少な い。お前さんは、この大陸に象牙や黄金を取りに来る、大文明圏に打って出る価 値があるぞ」
 イ、ではなく、ビー、だったんですが、タンゴは大喜びです。それから、タン ゴとチキチータの、一対一の修業が始まりました。タンゴに取っては、稼業の猛 獣使いの変奏です。チキチータに取っては、好奇心を満たしてくれる相手です。 相手は、見た事もない大海原や、白蟻の巣よりも大きい大帝国について話すので す。タンゴは身振り手振りで話し、地面に絵まで描いてくれるので、いつしかそ れをチキチータは理解するようになったのです。

 チキチータが帰ると、パンヤが牙を剥いて唸ります。どうしたのでしょう。怖 くて、近寄れません。何か、悪い事でもしたでしょうか。仕方がないので、チキ チータは二、三日、縄張りの見回りをしていました。
 ひとりでは、なかなか獲物が取れません。パンヤは、大物のアンテロープを仕 留めたようです。これは朗報です。パンヤは何て狩りが上手いんでしょう。チキ チータは我が事のように喜んで駆け付けました。しかし、パンヤはチキチータを 寄せ付けません。血まみれの顔で、さらに牙を剥いて、本気で怒っているのです。 下手をすると、アンテロープのように餌食にされかねません。弟のテリーは、好 きなだけ存分に貪っているのです。そうです、巣立ちの時が来たのです。弟が出 来た分だけ、チキチータは早く巣立つ事が求められるのです。まだ手足も細く、 狩りも未熟なんですが、そんな事は言い訳になりません。パンヤは、獣の本能の まま巣立ちを強いるのです。幼い弟も出来て、教える立場にもなって、楽しい毎 日ともお別れです。いま空腹を満たすには、パンヤを倒してアンテロープを奪わ ねばなりません。それは無理です。新しい母子の団欒に背を向けて、生まれ故郷 を後にするチキチータです。その長い尻尾が、馴れ親しんだ故郷をしのび、涙を 振り撒いていました。
 ふと、思い出したのはタンゴです。タンゴは餌をくれる。空腹の前に、野性動 物の誇りも何もありません。おまけに、タンゴは危険のない相手だと判っている のですから。チキチータは尾を振り、前足を踊らせて、ワシリー族の集落へと向 かいました。
 それは土作りの、玉ねぎのような土蔵の並んだ集落です。そこらに柵があって、 牛や豚は勝手に出られないようになっています。それでも、サバンナの大地と変 わらない、広々とした牧場です。草のない広場は、社交場とダンスホールとを兼 ね、いつも踏み固められて人間臭さがぷんぷんとします。だから嫌なのですが、 今日はタンゴに会いに来たのです。
 チキチータはのんびり尻尾を振って、あちこちの家を覗いて回ります。この辺 の人は、野性のチーターを見ても驚きません。飼っているくらいですから。ライ オンはともかく、チーターは害のない獣と心得ているのです。それどころか、暇 を持て余したサバンナの住人は、周辺に住む野性動物の顔と名前を聞き知って、 覚えています。今も乳呑み児を抱えた母親が、
「チキチタ」等と声を掛けるのです。でも、チキチータが探しているのはタンゴ なのです。
 人の話は判ります。のっぽの二人が槍に持たれながら、世間話をしています。 象の群が来て野菜畑を壊されたそうです。象はサバンナの暴走族で、どうにもな りません。髪の白い老人が車座になって、白人の残した剣の切れ味を試していま す。へたに触ると指さえ落としてしまいそうです。この辺のは、槍の穂先さえ、 象牙を研ぎ出したものですから。そんな話は見れば判ります。でも、タンゴはど こに居るのでしょうか。大きな土蔵から、かまびすしい話し声が聞こえます。女 の集会所のようです。チキチータは戸口に立ち、耳を澄ましてみました。
 タンゴは良い男だ。でも、変わり者で取っ付きにくい。背が高くて、頭も良く て、良い男だが女に振り向かない。そして、とうとう海へ行ってしまった。白人 と仲良くして、海へ行ってしまった。あの人はもう死んだ。
 タンゴはもうここには居ないのです。死んだというのは、嫁入り前の娘にとっ て意味のない存在という事でしょうが、ここに居ないのは確かです。海は、ここ にはかけらさえ在りません。パンヤに聞けば、雲にお聞きと答え、雲に聞けば、 太陽に聞けと答えました。太陽は、何も答えません。ゾウガメが言うには、亀の 甲羅の外にあるのが海で、自分はそこから陸に上がって何万年もたつから忘れた との事です。
 仕方がありません。チキチータは人の匂いにも馴れたので、村を散策しました。 ここの村人には、タンゴと同じような寛容さがあります。こちらが牙を剥いたり しない限り、槍を向けるような真似はしないのです。誰かが餌を投げてくれます。 バナナもくれます。口に入るだけの物は詰め込んで、村を去るチキチータです。 狩りの腕を磨くしか、生きる道はなさそうです。

 なんとなく、足の向くのは西の方角です。かつて、ヌーの渡りが見られた大河 に差し掛かりました。その高台の崖の所で、テリーを拾ったのです。チキチータ は、別れた家族を思い出しました。
「テリー、僕は君を恨んじゃいない。たとえ短い間でも、僕たちは強い絆で結ば れたんだ。君は全幅の信頼を寄せて僕を見上げ、その命まで僕に預けた。その信 頼に応えるには、席を譲るしかなかったけど」
 そして、思い出すのはパンヤの事です。
「母さん、あなたは僕にすべてを伝えた。もう少しそばに居たかったけど、それ は意味のない事でしょう。女王として、何者も恐れずにサバンナを歩く姿は、本 当に堂々としていた」
 かけすの羽ばたきさえ、樹の枝から蛇が落ちるのさえ、どうかすると兎のダッ シュにさえ、びくっとさせられるチキチータです。このサバンナで怖い者のない 母の存在は、本当に頼もしいものです。
 今は乾季ではないので、渡りはありません。満々たる水を湛え、どこまでも流 れる大河を見やるチキチータです。たまに水を飲みにやって来る小鹿やウォータ ーバックを仕留めるのは造作のない事です。水辺は、肉食獣にとっては喰いっぱ ぐれのない場所です。
 川の上を、水の流れに沿って雲が船団を作ります。まるで、地にも空にも水の 流れがあるかのようです。そいつは貿易風によって西へと流されます。雲に導か れるまま、どこまでもサバンナを歩くチキチータです。
 チキチータの行く手を、大きな蟻塚が阻んでいました。おまけに周辺は、ジャ ングルも払われて、青々としています。タンゴの教えた蟻塚でしょうか。あちら は石で出来ていますが、こちらは土と木で出来ています。おまけに、赤く塗りた くられています。木で作られた柵と言い、周辺の丸い土蔵と言い、土着民の手に なるものだという事が判ります。そう、古代アフリカに栄えたキンシャサ王国で す。
 国王キンツバ三世には、百人の妾と、百二十人の正妻がいるという噂です。反 乱を企てた長男の大腿骨を鼻に刺し、逃亡を企てた次男の前歯を耳たぶに刺して、 威容を誇っています。刃向かった兵士は釜茹でにするか、庭で飼っている鰐の餌 食です。ここは、ヨーロッパとの金の取引で財を築き、その後、キリスト教の伝 導師が伝えた耕作によって領土を広げた王国なのです。村の男たちは横一列になっ て、歌を歌いながら麦踏みをしています。伝導師は、大地の恵みは神の恵みと教 え、ここの村人を教化しました。男たちは肩を組み、マカレナの聖母を称えなが ら、野良仕事に精を出すのです。
 ここでは、人の肉がたらふく喰えました。まわりのライオンも、ハイエナも、 人肉に味をしめています。
「何と言っても人肉よ。とくに成年男子の腿ロースは最高よ」
 顔を真っ赤にしたライオンがこう言います。
「あたしは、脂の乗った女の尻が良いわあ。あれだったら、一日に二本頂けてよ」
 乳飲み児を抱えたハイエナが、嬉しそうに言います。しかし、チキチータはこ こに長くは停まりませんでした。生地の周辺には、ワシリー族など、勇猛な種族 がいたので、人肉には馴染めないのです。おまけに母パンヤも、人を狙う事の怖 さについて、強く伝授していました。
「奴らを丸裸だと思って、甘く見るんじゃないよ。槍や弓といった、魔法の道具 を持っている。おまけにその団結の強さと、執念深さと言ったら。村を追われた 寡婦の産み落とした乳飲み児がいたんだよ。はっきり言って捨て児さ。そいつを 流れ者のライオンが頂いた。すると、隣村が一族郎党引き連れて、酋長の孫を暴 き出せと、そのライオンをどこまでも追い回し、とうとう腹を裂いて遺骨を取り 出したのさ。人のくれる餌を、ただの餌だと思ってありがたく頂くと、とんでも ない目に合うよ」
 そうです、人には親子の情のみならず、怨恨や政争が付きまとっていて、今日 はただの肉の塊でも、明日には聖骸や仏舎利に化けている事が少なくないのです。 そういう事を知らないで、楽に手に入る獲物だと喜んで貪っていると、神の敵、 人類の敵と名指されてしまうのです。蛇なんかはその、哀れな例です。うまい餌 には罠がある、これは野性動物に伝わる有名なことわざです。その教えに従い、 チキチータは王国を離れました。何より、母より伝えられた、狩りの腕が鈍るの を恐れたのです。
 河の下流には、またまた大草原が広がっていました。サバンナよりずっと肥沃 で、密度も濃く草が茂っています。チーターもここでは、草に隠れて虎のようで す。持ち前の俊足を活かせません。しかし、水場や獣道など、ポイントに陣取れ ば狩りは容易なのです。ここには、親離れしたチーターやライオンが多く居まし た。チキチータよりやや年上の、お姉さんチーターもちらほら見かけました。
 同性のチーターなら、顔を合わしても、「やあ、景気はどうだい」と言う程度 です。ここは草丈が高すぎて、縄張りを構えるには向かないのです。でも、異性 のチーターには、胸にぐっと来る感情があります。郷愁をそそられるし、子を宿 せば、大地と一体化したような安心が得られます。何よりも雌チーターは、胸を 張り、尻を突き出し、ウェストはキュッとくびれて、魅力的なのです。
 一人前になれば、雌の尻を追うのが普通です。しかし、チキチータは独立する のが早過ぎたようです。おまけに、ゾウガメやタンゴのせいで、世界に眼を開か れています。もっと勉強がしたい、今は女よりも勉強だと、人の親が聞いたら泣 いて喜びそうな事を平気で言います。この辺りには、グラマーなタニアや、捷毛 の長いスヴェトラーナ等、すてきな女性がいるのですが、奇麗だなと思っても、 今いち興味の湧かないチキチータなのです。
 チキチータはさらに下流に進みます。河幅は広く、水は豊かになっています。 もう充分、水平線が見えています。これが海なのだろうか。しかし、あの波とい う奴や、帆を上げた船という奴を見ません。流れは続きます。この道に間違いは ないのだからと、海を目指して進むチキチータです。
 やがて川沿いの道は、集落に閉ざされました。半端な集落ではありません。地 平線を埋め尽くすほどのものです。先へ行くほど、土蔵が密集しています。しか も、人通りの激しい事。男も女も、水瓶や果物や木箱を頭に載せて運んでいます。 みんな忙しそうです。この地に特有な、大地に腰を降ろして風に歌うような、の んびりした所がありません。面喰らったチキチータは、もと来た道を引き返して しまいました。
 しかし、ここが海への道なのです。この先に、海への扉が開かれているのです。 チキチータはまた来て、土蔵から土蔵へ、物陰から物陰へと、歩みを進めました。 緑のそよ風とは違う、爽やかな、香ぐわしい風が、鼻をくすぐります。家々の向 こうに聳えるのは、何と、青い壁です。
 人間は土をこねたり、葉をすり潰したりして、赤や黄色の単一の色を作り出す のが好きです。集落や牧場の回りも好んで、柵や壁で囲います。あれを作ったの は人間に違いありません。牛の糞と泥を練り固めて、あの壁を作ったのです。そ こに、何らかの方法で青空から絞り出した塗料を塗りたくったのです。あの向こ うに海があるに違いありません。海は、荒れ狂う、恐ろしいものだと聞いていま す。その海の脅威を逃れる為に、人はあの青い壁を設けたのです。今は人通りが 多すぎて、近付けません。夜を徹して壁を乗り越えようと、再び引き返すチキチ ータです。
 近くの野原で腹ごしらえをしたので、チキチータが集落に近付いたのは夜明け 近くでした。この時代の人は純情で、夜更かしなんかしないので、町は静まり返っ ています。真っ暗な夜道をひたひた進むチキチータは、いつしか青い壁を越えて いました。湿り気を帯びた、砂漠のような砂地。眼の前には、伝え聞く鯨よりも 大きな怪物が三匹、のたうち回っています。立ち上がっては、横たわり、大地に 頬ずりして、白い泡を出し、唾やよだれを流して舐め回すのです。雄ライオンの 縄張り争いや、アフリカ象の一騎打ちなど、下手に近付けば巻き込まれる、激し い争いを何度も見て来たチキチータです。しかし、この怪物の組んずほぐれずの 争いには、呆れるものがあります。近くに居るのは三匹か四匹ですが、見渡せば 無数に折り重なっているようなのです。どれもが生きて、戦っています。肌の表 面は、群青とも墨染めとも付かず、色もあるか無きかのようです。振り返ったチ キチータは、胸の震える思いがしました。タンゴから聞き知った、石造りの要塞 がそこに聳えていたのです。さらに、帆を畳んだ船が横付けされています。潮風 が、チキチータの頬をなぶり、船を揺らします。こんな早朝から帆桁で働いてい るのは、噂に聞く白い人間という奴です。あれは脂肪ばっかりで、旨そうじゃな いなあ、チキチータは思いました。
 東の大地から陽が昇り、西に横たわる海に光が刺しました。たちまち、水平線 の果てまで、海は真っ青に染まり、穏やかな様相を見せました。仰ぎ見る白人は、 光を受けて克明に見ると、さっきよりずっと手強そうです。ヒヒのようないかつ い顔、金色に光る顎髭は、ライオンを思わせます。頭が混乱したチキチータは、 ダッシュで来た道を帰りました。砂浜も、要塞も、集落も、チキチータの尻を拝 む事さえ許されませんでした。
 ここは港町ポルトビルです。バナナや芋の積み出し港で、取引先のローマ帝国 が町の一端に出張所を築いています。ここが野獣や象牙の積み出し港でなかった のは幸いでした。檻に入れられた動物や、身のついた象牙を満載した車が通るの を見れば、チキチータは人間について良い印象を持たず、怒りとともに踵を返し たでしょう。事実、そういった所では、人間に対する反乱軍が、ライオンや象に よって組織されているのです。しかし、ここは専ら植物を扱う港町でした。獣の 扱いに馴れた専門家は、そうあちこちに派遣できなかったのです。それはチキチ ータにとって幸いしました。野原で腹を満たし、混乱した頭を整理して、あの青 い壁は水平線だったのだと理解すると、チキチータの眼はまた、港町の方に注が れる事になったのです。












港町ポルトビル




 人間というのは、本人が思っている以上に人なつっこい生き物であると、動物 の世界では思われています。チキチータが集落に寄ると、女は嬌声を上げ、男は 微笑み、子供たちは尻尾を掴もうと後を追います。ちょっとしたお祭り騒ぎです。 ライオンはともかく、サバンナでチーターを怖がる人はいません。キリンは足の 長い友人、象は耳の大きい友人、チーターは足が速くて美しい友人なのです。む しろ、無駄に騒がれるのを嫌って、集落を避けているのは動物の方です。
 ここ、ポルトビルでは反応が違いました。彼らは本当にアフリカ人なのかと思 うくらい、大違いでした。
 早朝、洗濯物を抱えた女は、チキチータを見るなり、悲鳴を上げ、腰を抜かし ました。ワシリー族なら、ライオンに恫喝されたって、こんなに驚きません。異 変を知って駆け付けた人々の眼、眼。まるで、惨劇を目前にしているかのような 眼です。その眼で、チキチータは、この辺の住民は野性動物を見た事がないんだ と悟りました。男たちは槍を取りに、家へ引き返します。しかし、その家には、 槍がないのです。あれが来たら厄介だと、踵を返そうとしたチキチータは、去り 時を逃しました。いつまでたっても、槍が来ないのです。その代わり、男たちが 手に手に抱えて来たのは、魚網でした。沿岸の人は、くりぬき舟に乗り、漁もし ます。その道具を持って来たのです。しかし、チーターは俊足。そんな網ごとき で捕まる訳がありません。恐怖で血相を変えた男たちが網を広げるのも、そして 近付くのも、スローモーションのように見えました。それが、柔らかい檻のよう なものだという事は、すぐに判ります。チキチータは横に逃げ、くぐって逃げ、 網に爪を立てて寄せ手の顔に登り、その頭の上に尻をついて、鞠になって逃げま した。小路に入ったところ、上から奇声とともに投網が落とされました。これが 最初の一手だったら、チキチータはがんじ絡めに絡め取られたかも知れません。 しかし、網の何たるかを知った今では、俊足のチキチータには、それは余りに失 礼な攻撃でした。落ち着き払ったチキチータのすぐ横で、そいつは、だらしなく 地べたに這いつくばりました。
 チキチータが走れば、人は木箱を落とし、洗濯物を落とし、水瓶を落とすので す。女は叫んで逃げ惑い、母は子を匿って家を閉ざします。男たちは右往左往す るばかりで、誰ひとり正面から立ちはだかろうとしません。走りながら、皆で策 を練っているのです。殺すか、捕まえるかさえ、決まらないのです。しまいに群 衆は、外圧に頼りました。道を開けた群衆の奥から、ローマ兵が現れました。猛 獣きたる、人喰いライオンあらわるとの報せに、人は砦の異人を呼びにやったの です。革の鎧をまとい、白銀の剣と楯をがちゃつかせたローマ兵に驚いたのは、 チキチータの方です。あれは白昼の亡霊か、アフリカに侵略する死神かと、眼に 入れるのもおぞましいとばかりに、すたこらさっさと逃げ去りました。
 町は大混乱です。しかし、ポルトビルの人は、チキチータが誰ひとり傷付けず、 けっこう頭の良い動物だという事を理解しました。ここに出入りするキンシャサ の商人は、それは多分チキチータで、サバンナの女王パンヤの息子だと教えまし た。
 チキチータはどうして、ここを通して貰えないのかと、随分悩みました。あの、 ライオン頭のローマ人が居座っているのに、どうしてチーターではいけないんで しょうか。金髪、髭もじゃの白人は、本当にライオンによく似ています。でも、 本当のライオンがここを通して貰える訳もありません。そうか、ローマ人は二本 足で立っているから、滞在を許されているんだなと、チキチータは思いました。
 ある時、この港から、珍しく駝鳥が出荷されました。冠の飾りに使う為、駝鳥 の羽根はよく取引されます。見せ物にする為、生きた駝鳥が出荷されたのです。 栄光あるローマ軍兵士の兜飾りに使う駝鳥は、水夫にも、ローマの監督官にも大 切に扱われました。その細長い首に頬ずりする姿は、あたかも、ローマ帝国の栄 光に浴するが如きでした。物陰からその姿を垣間見たチキチータは、確信を深め ました。そうか、やはり二本足で歩かねばならなんだなと。
 その日から、チキチータの猛特訓が始まりました。お座りの姿勢から、両手を 上げてチンチンの姿勢になり、そろっ、そろっと、腰を上げてゆくのです。チキ チータは人間ではありません。直立するだけでも、至難の技です。じっと立って いるだけで、背中が波打って、バランスを取るのにひと苦労です。走っている方 が楽なくらいです。しかし、生来器用なチキチータです。その状態から、一歩、 さらに二歩と、踏み出しました。これは楽しい、踊るような歩き方です。踵が疲 れるのが、ちょっと難点ですが。しかし、歩きながら、前足で頭を掻くのも自由 です。目の前の蝿を追い払いながら、チキチータはなぜ人間が後足で立って歩く のかを理解しました。前足が自由に使えるのです。こんな便利な事はありません。 チキチータは、短い後足ががくがく震え、踵が疲れ切ってしまうのも忘れて、自 由な前足をぺろぺろと舐め回しました。
 犬は、簡単な訓練でチンチンの姿勢をします。猫も、水銀で頭を犯されると、 二本足で立って歩きます。ライオンや虎といった猛獣でさえ、サーカスで芸を披 露した後は、一列に並んで、チンチンの姿勢で客席に愛嬌を振り撒きます。発声 練習に比べれば、これは容易な、根気のいらない作業です。チキチータはものの 五日で、二足歩行をものにしました。ただし、20mも歩くと、足に感覚がなくなっ て、前足を着いてしまいます。でも、これで良いのです。村人の見ている前でだ け、二足歩行をして、人がいなくなったら、四つ足に切り替えれば良いのです。 自慢の俊足は、四つ足でないと話になりませんから。
 それは、朝から晴れた日の事です。もとより、この辺では、ほかの天気が見当 たらないのですが。気持ち良く風が吹いて、これから町も賑わいを見せようとい う時です。この時なら、チキチータは自分が受け入れられると思いました。
 道が眩しいし、思わぬ事に坂があるので、壁に手を着いてしまいます。立ち止 まっても、休んでも良いのです。二本足で立って歩く姿を、人に見て貰うだけで すから。人に受け入れられるのが目的ですから。
 若い娘が、籠を持って家を出ます。何か、内職の材料を仕入れに行くのです。 彼女は振り向いて、二本足で立つ美しい野獣の姿を見ました。その顔は、笑顔に 輝いたのです。
「チキチータ!」
 お下げを振り回して、彼女は家に戻ります。再び登場した時は、太ったおばさ んと、小さい弟、妹たちを引き連れていました。
「チキチータ!」
 海鳴りのような、太いアルトは、おばさんの声です。このおばさんだったら、 チキチータはおろか、鰐でも締め殺してしまいそうです。たいがいの動物だった ら、この貫禄に、飛んで逃げてしまいます。チキチータにとって幸いしたのは、 人語を解する事、自分が歓迎されているのを理解できた事です。
 ちび助たちに囲まれたチキチータは、招待され、すぐに食卓に通されました。 この家の人は、森を出たチキチータを最初に招待する栄誉に預かったのです。
 土間で、いろりを囲んでの食事です。子沢山だと、石を並べただけのいろりも、 灰の中から金銀宝石を噴き出しそうに豪勢に見えます。最初に出されたのは、芋 で作った団子です。しかし、チキチータは誇り高き猫科の生き物です。犬なら喰 らい付きそうな団子も、チキチータの眼には石と同じようにしか見えません。察 して、おばさんはスープを出しました。中に山羊の肉があります。
 子供たちの眼が輝きます。みんな、肉が目当てなのです。しかし、主賓はチキ チータです。物心つかぬ幼な子さえ、自分を押さえてチキチータの顔を見守りま す。多勢に囲まれての食事は始めてです。ものを食べるのが、こんなに心苦しい とは思いませんでした。しかし、みんな好意の眼です。好意で出された料理です。 チキチータはこの時には、お座りの姿勢をしていました。だから、何ひとつ風変 わりな動物ではありませんでした。ただ単に、家族の中に獣が一匹まざっている というに過ぎなかったのです。でも、ここまでは歩いて来たのです。人なつっこ い、伝説の、特別な動物です。チキチータは遠慮なく、顎を近付け、鍋から山羊 の肉を奪いました。熱いので、しばらく、口に下げて湯気のたつままにします。 ここで離せば、子供たちに奪われるという、野性の配慮です。みなも、手を出し ません。冷めたようなので、頬張り、何度も顎の上を転がします。まだ熱いので す。熱いのと、噛み砕くのとで、何度も顎の上で肉を転がします。それは、見応 えのある食事風景でした。野性の動物が、間近で、乳児が手を伸ばすその先で、 肉を頬張るのです。やがてチキチータは、肉をぺちゃんこに粉砕し、喉に通しま した。喉が鳴り、胃に落ちる所まで、家族全員の眼が注がれていたのです。そし て再び、チキチータの人なつっこい笑顔。みんなは歓声を上げました。
 もう山羊の肉はないので、野菜の具を勧められます。団子にも再度挑戦してく れと、幼い手が勧めます。みんな手掴みで、チキチータの鼻先まで持って来るの です。断り切れません。野菜を頂きました。団子も頂きました。野菜には、肉汁 が染み込んでいて美味です。しかし団子は、眼をつぶって呑み込むのです。たま に駝鳥が、石を呑むのを見かけます。あれと同じ調子なのです。お腹も空いてい ました。その甲斐あって、ぜんぶ食べ終わった時には、家族は手を叩き、歓声を 上げ、みんなして抱き合い、チキチータに頬ずりしたのです。もう、家族も同然 です。ずっとここに世話になる事も許されたでしょう。しかし、チキチータは、 立ち上がって、暇を告げたのです。家族全員が見送りに出ました。ここの娘の名 は、ティナと言いました。最初に彼女がチキチータについて出た時、土蔵を出て 往来でチキチータとふたりっきりになった時、チキチータは、
「ティナ」
 と言い残しました。家族みんながチキチータの名を連呼し、またおいでと歓声 を上げている中で、彼女ひとりは眼を丸くして立ちすくんでいました。その夜、 彼女は、亡くなった叔父さんがチーターに化けて、帽子を被って会いに来る夢を 見ました。

 それからもチキチータはこの港町を訪れ、朝昼晩と、それぞれ別の家で食事を 頂きました。チキチータは野獣なので、貴賤を問わず、招かれればどんな家の招 待にも預かりました。金持ちの家に招かれ、大理石の食堂に通され、山海の珍味 を盛り沢山に供されても、腹がいっぱいになれば帰ります。土蔵や藁小屋に通さ れ、子供の手から鍋の一部を分けられても、肉の匂いさえすれば頂きます。もと より礼儀は知らないので、神殿の広間でも催せばウンチをして平気ですし、奴隷 の子や野蛮人の子に頭を撫でられても、機嫌良く舌舐めずりしています。わけ隔 てのないチキチータは、かえって、ポルトビルの人気者となったのです。
 最初に訪問したティナの家でのエピソードは、もう町中に知れ渡っていました。 みな、自分の家でチキチータがこんな芸をしたとか、こんな不始末をしたとかい うのを得意げに話します。みなはチキチータが人に危害を加えないのは知ってい ますが、ある人は断言して、うちの子の手に噛みついたと請け負い、それを自慢 げに言いふらすのです。チキチータと餌の取り合いをして赤ん坊が泣き出したと いうのも、自慢の種になります。当然のごとく、最初に訪れたティナの家での話 は、神話伝説の類にまで高められていました。そんな話には、尾鰭が付けられま す。おばさんは郊外まで出掛けて行って、チキチータと勝負して勝って、その頭 を抱えて、むりやり引っ張って来たんだろう、等と言われています。ティナに最 後に言い残した言葉や、夢に出てきた事まで、ティナはごく親しい友人にしか打 ち明けなかったのに、今では町中の人がそれを知っています。そんな訳で、町に やって来たチキチータと、お出掛けのティナとを同時に視界に納めた若者は、大 声を上げてこう言うのです。
「やあ、あれこそは、サバンナの女王パンヤの息子にして、ティナの足長おじさ ん」
 若者がこう言うと、ティナが駆け寄って来て、その背中をばしばし叩くという、 楽しい光景が展開されるのです。背が高くてハンサムな若者がそれをやると、ティ ナはどこまでも追っ掛けてそれをやります。それほどでもない若者だと、膨れっ 面を見せるだけで終わります。もとより、爺さんやおじさん連中は、そんな風に してティナをからかったりしません。みなから白い眼で見られるだけだと、判っ ていますから。
 チキチータが片言ながら、人語を解するという事は、町中の人が知っていまし た。しかし、チキチータは決して自分からぺらぺら話しませんし、食べれば帰る ので、それを確かめる術もありません。どうかして長居をすると、その機会も訪 れます。子供がチキチータの背中を撫でて、それが心地よくて、眼を細めるほど だと、チキチータも食後の腹ごなしを兼ねて居座ります。すみに猫などを飼って いると、チキチータも珍しさから、前足でちょっかいを出して、遊んでしまいま す。猫の様子を観察する事もあります。犬と友達になって、一緒に夕涼みをして いる事もあります。そんな時、人はあれこれ話しかけるのです。
 この町では、言語が入り乱れています。土着のスワヒリ語、外来のラテン語に 加えて、船乗り達はアラビア語、ゲルマン語、ノルマン語を操る事もあります。 てんで勝手に話しかけるので、チキチータは発音は出来るものの、なかなか言語 の習得には到りません。帰るとか、ごちそうさんが言える程度です。それも、聞 きたい人にはそう聞こえるという程度です。
 チキチータが言葉を操ると知ると、年寄り達は、自分の家の出自や、町の歴史 を聞かせたがりました。そんな中でよく耳に着いたのは、ローマという言葉です。 自分の先祖はローマから来たとか、孫がローマで働いているとか言うと、人は胸 を張り、自慢げになるのです。チキチータはそのローマにこそ、世界の中心があ るのだと思うようになりました。そのローマはまた、海の向こうにあります。も ともと、海に出るのが目的でした。しかし、海はだだっ広いばかりで何もないと いう事は、ゾウガメから聞かされています。
「だから、わしは陸を選んだんじゃよ。変化の多い、豊饒なる陸にね」
 物知りゾウガメの声が、耳にこだまします。扉を開くには、海に出なければな りません。今まではその先が判らなかったのです。しかし、チキチータはもう知っ ています。海の向こうには、ローマがあるのです。
 なかなか、船が来ません。何ケ月か前に見た、あの一隻だけです。ここは港町 です。帝国への積み出し港です。これは、町の住民にも好ましからぬ事態でした。 バナナや芋は、どんどん運ばれて来ます。しかし、それは出荷されず、高く積み 上げたまま腐るのを待つばかりです。匂いにつられて、象やキリンの一群が倉庫 を壊します。ヒヒの軍団が屋根から屋根へと飛んで来て、収穫を漁ります。町の 上空は、いつもジャングル鴉や南洋かもめが群をなして旋回している状態です。 新しく作物を持って来た人も、賃金が貰えません。それで、壷や衣類を買おうと 思っていたのに。充てが外れて、立ち去る事も出来ません。船がないのです。町 の人も、商人も、そしてチキチータも、船の到来を待ち望みました。

 遠くからやって来た船は、日輪よりも輝かしく見えました。金銀の装飾が陽に 映えて、眩く輝いています。白い帆は風を孕んで、海に降り立った天空の神のよ うです。こんな立派な船は見た事がありません。皆が出迎えました。その中に、 チキチータもいました。もう良い加減、この町にも飽きて、どこかへ連れて行っ て貰おうと思っているのです。
 船は沖合で、帆を畳みました。どうしたのでしょう。港に着けないのでしょう か。皆の見守る中、そいつは土手っ腹に空いた無数の穴から、やおら櫂を突き出 しました。長短、様々の櫂が五十本。そいつは規則正しく、半円を描き、見るみ る港に近付いたではありませんか。湾に入るや、片側の櫂を上げ、残りの櫂だけ で見事に横付けましす。大型船、帝国自慢の三段櫂船です。櫂が三層に分かれて いて、低層の櫂は短く、上層の櫂は長く、しかし、訓練された奴隷の腕によって 規則正しく動いて、海上を自由に航行する船です。
 チキチータは、こんな物を見るのは初めてです。言葉を学び、努力して二足歩 行を身に付けて良かったと、心底から思いました。野性を捨て、海にまで来なけ れば、三段櫂船なんて拝めなかったんです。もとより、ポルトビルの住民も、こ んな船を拝むのは初めてです。誰ひとり、こんな船は知らなかったのです。
 遅れを取り戻す為に、軍艦が寄こされたのです。ジブラルタル沖合で海賊が出 没するので、その討伐も兼ねています。しかし、奴隷身分である漕ぎ手の中には、 アフリカ出身の者も多く居ます。船が着いた早々、どぼん、と港に大きな水柱が 立ちます。それが、三つ、四つと続きます。脱走です。船上の兵士らは大慌てで すが、こんなに景気の良い話はありません。出稼ぎに出た息子や兄弟が、その中 に居るかも知れないのです。また、欠員があれば補充が必要です。たとえ奴隷身 分でも、都見たさでうずうずしている若い連中には、またとない機会です。脱走 は、ここでは歓迎さるべきお祭り騒ぎなのです。
 それはチキチータとて同じです。彼はこの町で最も権勢を誇る、大きな屋敷を 訪れました。希望を述べると、多くの人が口を揃えて、ここを訪ねろと教えたの です。
 大理石の広間に通されたチキチータは、そこで小卓に向かい、主人の横に座り ました。この頃チキチータはすでに、町の人の好意で衣裳を羽織らされていまし た。ローマ風のトーガです。肘掛け椅子に深くもたれたチキチータは、毛並の美 しさと、立派な衣裳も相俟って、この家の主人よりも偉そうに見えます。何やら、 高貴な身分に見えるのです。貴族でなければ、神です。
「旦那、あっしは海が見たかったんでさ。海の向こうに行きたいんでさ。この町 に来たのも、そいつが目当てでね」
 野性動物からこんな風に言われて、断れる人間はいません。商人にして、いつ しかこの町の代表になっている主人は、必ず話を付けると請け負いました。チキ チータに、少し暇ができました。
 ティナが、チキチータの為に花輪を編んでくれました。この町で親しくなった 人が、ほぼ全員なのですが、干し肉や土産を持たせてくれました。これが最後と なると、皆はチキチータを囲んで、どっと質問責めにします。その経歴は、もう 語り飽きたほどです。今度は逆に、みなが町の歴史を語ります。ローマ人が来て 砦を築いたこと。金貨と交換に、若者が働きに出たこと。小麦、動物、植物と、 取引の対象が広がったことなどです。ローマの精髄は、金貨に記されています。
 カエサルやアウグストゥスを刻んだ金貨は、いかにも立派で、皇帝の雅量と、 帝国の広大さを知らしめるに充分です。しかし、アフリカは、まだ威も力も発揮 してはいません。みなはチキチータこそが、アフリカの精髄であると思い、慈し むのです。滞在中から珍しかった動物ですが、この地を代表してローマに渡ると なると、なおさら輝かしく見えます。ほんの数日ですが、みなは本当にチキチー タを可愛いがり、持てなし、期待と尊敬の眼差しで見たのです。
 その日が来ました。すべて心得た船長は、妙な奴だと思いながらチキチータを 桟橋に通しました。チキチータが持っているのは、袋いっぱいの荷物と、毛布で す。背中で歓声が聞こえますが、野性動物は後ろを振り返りません。彼は他の乗 員と同じように、黙って船に乗ったのです。
 チキチータが通されたのは、最下層の漕ぎ台です。見せ物としての野性動物で はなく、自由人としてでもなく、この船に乗るには、ここしか席がなかったので す。ローマで立身を願う若者も、ここに座ります。不服の出るような境遇ではな いのです。
 まわりを屈強な奴隷たちが囲んでいます。船を造っているのは、切り出したば かりの、まだ樹液の匂いのぷんぷんする松材です。悪くはありません。たとえ奴 隷でも、こんな最新鋭の船に乗れるのです。
 チキチータは手先が不器用です。オールを掴む事ができません。仕方なく、そ の強い顎でオールを喰わえ、前足で手前に引き付けます。見よう見真似でオール を漕ぎます。どうにかこうにか、足手まといにはならずに済みました。窓の外は、 すぐ水際です。ここは砂かぶりならぬ、潮かぶりの特等席です。風とともに飛沫 が飛んで来て、絶える事がありません。あっという間に濡れ鼠です。それにもま して辛いのは、手や顔を拭おうにも、それが塩辛くて耐えられない事です。口を きりっと結べば良いのですが、チキチータはオールを口で喰わえている為、それ が出来ません。その舌は、焼け付くような塩辛さをずっと忍ばねばならないので す。これが地獄です。ほかの漕ぎ手よりも辛いのです。おまけに大きな波が来る と、そいつは遠慮なく漕ぎ手を洗って帰ります。潤いを求めて口をあけると、やっ て来たのは飛沫を上回る塩辛さの塩水。チキチータは思わず、悲鳴を漏らしまし た。
「ビィィィィ!」
 船底を洗った水は、溝を通って外に吐き出されます。しかし、最下層の漕ぎ手 は、腰から下は波に洗われ、顔や頭まで飛沫でびしょ濡れになって働かねばなり ません。オール穴から見えるのも、近くの泡立つ海面ばかりで、すぐに見飽きて しまいます。チキチータはひたすら、船の行く手を思いました。ローマへ、ロー マへ。思うのはただ、ひたすら、ローマの事です。そこでは、ポルトビルの船着 き場で見かけた、ライオンのような金髪の人がいて、大きな蟻塚と格闘している のです。何かの予知でしょうか。チキチータの耳に歓声が聞こえ、自分が闘って いる姿が想像されます。ローマへ、ローマへ。一心に思ううち、いつしか、チキ チータはほかの漕ぎ手の二倍の速度でオールを漕いでいました。何といっても、 サバンナ一の俊足です。その背筋力を活かすこつを覚えれば、並の人間より上手 に漕げるのです。監督のローマ兵士が近付いて来ました。
「チキチータ、漕ぐのが速すぎる」
 風が出て来たので、小休止です。ほかの奴隷たちも、この席は毛皮を着た者に は辛いんじゃないかと、口を揃えて言います。ここは漕ぐのが下手な初心者の部 屋です。チキチータは、すでに上達しています。兵士は心得て、チキチータを二 階席に移しました。
 チキチータの代わりに、痩せた男が下へ降ろされます。二階席の仕事は荷が重 かったのでしょう、体の芯までくたびれた様子です。見渡せば、チーターくらい 素手で組み伏せてしまいそうな大男ばかり。ちょこんと空席を占めるチキチータ は、いったい何をしに来たのか、何が出来るのかという風情です。
 ここのオールは長く、太く、より長い距離を下と同じ速度で漕がねばなりませ ん。チキチータは当てがわれたオールに喰らい付き、前足を絡ませました。監督 官は心得て、その腰を横板に布で縛り付けます。人間でも、初心者にはそういう 処置が必要なのです。ここでは軽量のチキチータは、体ごとオールに持って行か れそうです。ここのオールは凄い、労働というよりは格闘です。豹と餌の取り合 いをしたり、鰐が水中に引きずり込んだインパラを、また陸に引き上げようとす るのと同じ覚悟を要します。何とか、仲間に遅れを取らずに櫂を操るチキチータ です。しかし、こんな闘争が、こんな勝負が、あとどれくらい続くのでしょうか。 チーターはそもそも短距離走者で、長距離は苦手です。腰に激痛が走り、全身の 骨を砕くようにいっぺんに疲労が襲います。
「ビィィィィィィ!」
 窓から見えるのは青々とした海面で、ときどき水平線も見えます。しかし、そ んな景色に見取れている余裕はありません。チキチータには判っています。ロー マで彼を待ち受けるのは、闘争なのです。闘争に継ぐ、闘争。サバンナでは誰も 拍手する者のない俊足が、そこでは喝采を浴びるのです。朝に夕に、単に獲物を 取る手段に過ぎない足が、世界一と賞される場所なのです。足だけではいけませ ん。苦手な組み打ちや、殴り合いも、豹やハイエナを相手に挑まねばならないの です。ローマへ、ローマへ。チキチータはひたすら、船の行く先に思いを馳せま した。戦いにかける思いを、おのが栄誉にケチ付けさせぬ情熱を、眼の前のオー ルにぶつけました。ローマへ、ローマへ。いつしかチキチータは、一本のオール はおろか、この船全体と一体となり、海原を突き進む快感に酔っていました。じっ さいチキチータは、誰よりも激しく、この船を動かしていたのです。監督の兵士 が席を立ち、こちらへ近付くのも眼に入りません。
「チキチータ、漕ぐのが早すぎる」
 チキチータは思いがけず、布を解かれました。席を立つと、ついて来るよう催 促されます。
「化け物だな、ありゃ」
「さすがは獣人だ」
 まわりの漕ぎ手が口々に言います。獣人とは、ここで始めて耳にした言葉です。 何やら、名誉な響きがあります。
 監督官はチキチータを三階席へ案内しました。その途端、本物の化け物が大音 声を上げました。
「そろそろ飯にしようぜ」
 禿頭の大入道がそう叫ぶなり、櫂を取っぱらってしまいました。そう言うなり、 船はみるみる速力を落とします。まるで、この男が一人で船を漕いでいたかのよ うです。見ればここは、巨人族のフロアです。黒くて背の高いのは、マサイ族、 バンツー族、そして、馴染みのワシリー族といった連中です。白くてよく肥えて いるのは、この奴隷船に根を生やした連中です。元は奴隷出身で、ほかに漕ぎ手 がいよう筈もなく、賃金を貰ってここに座っている恵まれた連中です。兵士に笞 打たれはするものの、集団で動けばその声は属州総督くらいまでは届くという連 中です。昼です、それを決めるのは彼らなのです。
「何だこの船は? こんな獣を俺達と同じ席に着かせようと言うのか」
 大入道が声を荒げます。ここの集団は、容易に他を寄せ付けぬプライドを持っ ているようです。とにかく、昼です。チキチータは自分の寝床へ帰り、そこで袋 を解きました。
 ここでは、パンとベーコンとが支給されますが、パンはチーターの口には合い ません。そこで、村人から貰った干し肉で補うのです。明らかに塩分過多です。 この頃、チキチータは野菜も口にするようになっていました。
 昼すぎです、作業の再開です。チキチータが持ち場に着きます。しかし、どう した事でしょう。オールが動かないのです。腰を上げて、全身の力を使っても駄 目です。押しても、引いても、びくともしません。ここのオールは、どこかに固 定されているのでしょうか。そうとも見えません。気を取り直して挑戦しても、 やっぱり動きません。まわりの巨人、入道どもは、げらげら笑うばかりです。
 舟のオールは、最初こそ力が要りますが、進み出すと楽なものです。本当にオ ールに力が入っているのか、それとも、去りゆく水面に差しているだけなのか、 本人にも判りません。下手をすると、オールを持って行かれたりします。チキチ ータは今まで、走っている途中から漕ぎ手に参加しただけです。最初から船を押 して、波を押して、オールを使った経験はありません。しかも、まわりの連中は チキチータの様子を見ようと、手をつかねて、互いに目配せするばかりです。下 はまだ配置に着いていません。チキチータひとりでオールを動かすのは無理です。 しかも、このチームワークの悪さでは、この先やって行けそうにありません。監 督は見かねて、悪戦苦闘する獣を止めました。
「チキチータ、席を立て」
 ふたりは戦列を離れました。それを見て、入道どもは始めて櫂に手をかけます。 多分、ここの漕ぎ手はみな、良い賃金を貰っていたんだと思います。
 監督は何を思ったのでしょうか。チキチータを甲板に出しました。三階席が無 理なら、二階席に戻せば済むことです。彼は、何か勘違いをしたのです。二階席 の監督から、詳しい事情まで引き継いでなかったのです。
 監督はチキチータを連れ、甲板中を案内して、できそうな仕事を探しました。 風に合わして帆を替えるので、ここも仕事は多いのです。しかし、チキチータは 手が不器用なので、ロープを操るような真似はできません。兵士らが車座になっ て、さいころ遊びをしています。まさか、その中に加わる訳にもいきません。そ こへ、一番高いマストから見張り役が降りて来ました。
「俺にも昼飯を喰わせてくれ。朝から風に吹かれ、陽に焼かれ、たまったもんじゃ ない」
 監督は手を打って喜びました。
「チキチータ、お前、見張りはできるか」
 まだよく事情の判らないチキチータは、きょとんとしていました。しかし、そ の顔を見れば、眼だけは良さそうです。ローマ人に比べ、アラブ人やアフリカ人 は、みな一様に眼が良いのです。そのアフリカの精髄とも言うべきサバンナの野 獣が、眼の悪かろう筈がありません。素人考えでも、眼が良いと請け合えます。
 チキチータは命じられたまま、不器用に網を登ります。その網は先へ行くほど 細くなり、マストのてっぺんの見張り台に導いてくれます。そこに着いてチキチ ータは、すべてを了解しました。高台に座ってサバンナの周囲を見渡す、あれか、 あれをやれば良いのか。チキチータは職務に服しました。
 マストに登れだなんて、最初は何て無茶をやらすんだと思いましたが、腰を落 ち着けて見ると、ここも極楽です。まわりを板で丸く囲って、居心地が良さそう です。上半身を潮風に晒さねばならないのが難ですが、じきにチキチータは節穴 を見つけました。そこから覗けば、大半はフォローできます。こりゃ楽な仕事だ わい、寝てしまわないように注意しなけりゃなるまい。チキチータは板に背を向 けてごろんと丸くなり、前足をねぶり、眼やにを掻きました。
 しかし、爽やかな潮風です。見馴れない大海原です。ひと息いれた後は、物見 遊山の気持ちが勝りました。チキチータはすっくと立って、見張りの役を果たす のです。サバンナの住人に、照り付ける陽射しも苦になりません。マストのてっ ぺんは揺れが激しいのですが、宇宙一の運動神経の持ち主は、強靭な三半器官を 持っています。予想された船酔いは、軽いげっぷで済ましてしまいました。チキ チータは、船乗りには持って来いの天性を示したのです。
 揺れるマストから見ると、海全体が大きな揺り籠のようです。そこを点々と水 しぶきを上げるのは、イルカです。そいつは船を慕うかのように近付いて、並ん で走り、やがては船首で波乗りに興じます。海にも獣がいるのを見て、チキチー タは興味津々です。
 水平線上でより大きな弧を描くのは、ザトウクジラです。背中から飛んで、背 中を思いっきり海面に叩き付けています。この船くらいの物が、宙を舞っている のです。こいつを見ていると、鯨を軸に、空と海とが一回転しているかのようで す。あれほど大きな魚なら、地球をくるくる回しても不思議はないと思えます。
 アホウドリがやって来て、チキチータのすぐ近くを掠めます。もう一本のマス トに降りて、羽根を休めたそいつは、チキチータに話しかけます。
「珍しいね、お前さん。見世物じゃないのかい、ちゃんと働いているのかい。感 心なこった」
「君は海の番人なんだね」
 何でも知ってるアホウドリは、海の番人と呼ばれて胸を張りました。
「そうさ、その通りさ。ローマへ行くんだろ。あそこじゃ、鷲が威張っているよ。 この辺りじゃ、しけと海賊に気を付けな」
 そう言い残すと、また風とともに飛んで行ってしまいました。ここは航路になっ ているので、行き交う船も多いのです。帆を畳み、錨を降ろしてのんびり構えて いるのは、現地の漁船です。たまにすれ違う小型快速挺はローマのものです。同 じ兵士がいて、規律正しく、なごやかに登場するので、これは危険ではないとチ キチータにも判ります。夕方にチキチータは降ろされましたが、その夜もデッキ に入らず、星空を眺めて過ごしました。
 同じ風が続きます。船首を北から北東に向け、風上に切り進んでゆく為、帆を 右に左にと操る必要がありました。兵士も漕ぎ手もとっぷり疲れて、役目のない 時は日陰で仮眠を取ります。ローマ兵士も、この時ばかりはぐうたらでした。
 遥か水平線上に、怪しげな孤影を見つけたのはチキチータです。船を黒く塗り、 波間に隠れて擬装していますが、その凶々しさは野性の勘で判ります。そいつは 聞き及ぶ、海賊の蓋のように見えました。近付くと蓋を開いて、そこから刀や槍 をもった賊があふれ出るのです。チキチータの呼び掛けで、船上に兵士が配置さ れました。
 敵はバーバリ海賊で、その優れた視力でより速く獲物を察し、奇襲するのを得 意としていたのです。しかし、ローマ帝国海軍に先に見破られ、武装されていて はどうしようもありません。ひとりを残して、海賊はデッキに潜み、交易船を装 いました。
 こちらは帆を畳み、船が並ぶや綱を掛け、橋を渡し、二、三の兵士が検分に躍 り出ました。黒ずくめの男は商人を装いましたが、階下に潜む武装集団は隠しよ うがありません。ばれたか、と見る間もなく、彼らは甲板に溢れ出し、兵士を囲 みます。そこへ、索上に待機した兵士が矢を射かけます。ローマ軍には珍しい、 弓矢です。船上の戦いでは、これを用いるのです。海賊の半分が深手を負い、囲 まれた兵士も勇敢に戦います。さらに、敵船に乗り込んでの白兵戦。小楯と剣で 果敢に戦う兵士は、出るか出るまいか迷っていた海賊を、あっという間に降参さ せました。
 海賊船は火を着けて放流。漕ぎ手は増強され、略奪品は押収されました。これ こそは、最強最高のローマ軍の手口。どうせ略奪をやるなら、規律正しく、装備 万端、鍛え抜かれた大軍勢でやるべしという教訓です。盗まれるより、盗む側に 回った方が、家内安全、四海平和という訳です。
 海賊は、そうめったに遭遇するものではありません。またしても、イルカを友 とし、クジラの飛沫を浴び、アホウドリの訪問を受ける毎日です。船が、舳先を 東に向けました。大陸と大陸とが、接吻せんと寄せるのを、海が妬んで妨げる、 あの境。そう、ジブラルタル海峡に達したのです。こここそは、青い海と緑の大 地の交差点。アフリカとアジアの玄関口にして、地球の主たる海が昼寝する寝台。 ジブラルタルなのです。
 漕ぎ手が呼ばれました。ここの流れは急です。兵士は帆を畳み、漕ぎ手に進路 を任せました。まだ波の弱い海岸沿いを、一同、息せき切って駆け抜けます。勢 いに乗った船は、一本の矢のようです。岩を洗う白浪も、断崖も、あっという間 に尻目にします。それでも、気が付けば、波に押し流されて元の位置です。ここ は海というよりは、峡谷のようです。世界の水という水を集めた大海が、ここだ け気紛れに大地を走る川の真似事をしているのです。また漕いで、進んで、海峡 を越えれば、真ん中まで押し戻されます。兵士も漕ぎ手に加わり、チキチータも 動員されました。また漕いで、進んで、の繰り返しです。漕ぎ手が力尽きて、空 を仰いで倒れた頃にやっと、温暖な地中海が迎えてくれました。もう、波はあり ません。帆が上がりました。ここからは、ギリシア人の水先案内人が付きます。











剣闘教練師ゲロッパ




 地中海はまだまだ、ギリシア人の天下です。帆を上げた船や櫂舟が行き交いま すが、乗り手はほとんど、浅黒い肌に立派な髭をたくわえたギリシア人です。あ ちこちに大小様々な島があり、暗礁も多いのです。サテモニデスという青年が舳 先に立ち、案内を務めます。
「以前、この航路を取っていたら、いきなり櫂が利かなくなった。鯨に持ち上げ られたんだ。そいつは船を背負ったまま、目当ての港まで運んでくれたが、降ろ して貰うのにひと苦労したよ」
 兵士がからかいます。
「どうやって降ろして貰ったんだい」
「お前は刺身にしてやるって言ったんだよ」

 良い風が続きますが、頻繁に帆を変えねばなりません。サテモニデスは舳先に 立ったり、チキチータのいる見張り台に来たりして、島陰を測ります。しけが予 想されたので、船はローマの手前の植民都市で帆を休める事にしました。南国の 港町カレクサです。
 兵士らは港に降ります。チキチータも奴隷の身分ではないので、遠慮なく港に 降ります。足元が安定すると、かえって逆に、頭の方がふらふらしているように 感じるものです。チキチータは二、三歩あるいては前足を着き、二、三歩あるい ては前足を着き、を繰り返しました。
 この港で船長は良い報せを耳にしました。有名な剣闘教練師ゲロッパがこの地 に逗留しているのです。チキチータは奴隷でも剣闘士でもありませんから、いき なり剣闘関係者の手に渡してしまうのはためらわれます。しかし、ゲロッパは、 剣闘士の養成のほか、コロシアムの清掃から飲食物の販売、周辺の土木工事から 人足の手配まで、手広く事業を行っているのです。チキチータの身柄を預けるの に、これほどふさわしい人物はいません。呼ばれてゲロッパは、港にやって来ま した。
 ゲロッパはたいそう醜い、恐ろしい男です。目玉は太陽のように大きく、おま けに鷲が翼を広げたように横に伸びています。どんぐり目玉の上に、切れ長とい う、珍しい眼です。鼻はわし鼻と言うより、象アザラシのよう。口は真一文字に 結ばれていますが、唇の先はザクロのようにぶつぶつが出来ています。左頬に大 きな傷があり、よく見れば顔中こまかい傷だらけです。当時は、男の傷は名誉で あって、犯罪歴とか、扱いにくさを物語るものではありません。ひと眼で見て、 この男は歴戦の勇士であり、コロシアムの剣戟の中から身を起てたものだと伺わ せるものがありました。
 デキウス・ゲロッパは高貴な血筋の生まれです。元老院議員である父が属州総 督に派遣された際、現地の奴隷娘に魅かれて、産ませた庶子です。つまり、出来 心で産まれた男なのです。
 港の待合い所でチキチータを紹介されたゲロッパは、手を打って喜びました。
「獣人か、こいつは珍しい。将来が楽しみだ」
 話はすぐにまとまりました。チキチータの身柄はゲロッパが預かったのです。 売り買いされた訳ではありませんが、船長は幾らかの謝礼を受け取りました。
「素晴らしい獣だ。獣の中の獣が獣人になると言うが、こいつはチーターの世界 のプリンスだったに違いない」
 ゲロッパは、その野性の肩に手を回します。
「よろしく頼んますぜ、旦那」
 その言葉にまた、ゲロッパは大きな眼をさらに大きくし、声を震わせます。
「奇跡だ、三拍子そろった獣人は、そう滅多にいるもんじゃない」
 その場に膝をつき、手を合わせるゲロッパ。
「サテュルヌスの神よ、このような逸材を私に引き合わせた事を感謝します。ネ プチューンの神よ、このような至宝を無事に送り届けて下さった事を感謝します」
 このような礼拝は、かのワシリー族もよくやる事です。何の事やらよく判りま せんが、チキチータも見よう見真似で膝をつき、一緒に祈りました。それがまた ゲロッパを感動させます。
「おお、神への信仰心まで」
 そう言いながら、胸の中では、この単純な獣をローマに連れて行った時の儲け を計算しているのです。剣闘教練所があとひとつ買える、というのが答えです。 対するチキチータは、えらく喜ばれているようなので、やっぱり出て来て良かっ たと航路を振り返りました。

 ゲロッパはえらく羽振りが良い男です。この地に専用の宿を持ち、その奥の裏 庭を教練所として使わせて貰っているくらいです。港近くのこの宿は、軍人や商 人も泊まるのですが、ゲロッパの率いる練習生は、気晴らしともなり、見世物と もなったので歓迎されたのです。旅先で疲れを癒しながら、剣闘士の訓練を見る のは、お誂え向きの暇潰しです。宿屋の中には、若い奴隷娘を取り揃えて客を招 く店もありましたが、謹厳な帝国軍人や実直な商人は、若者らが一途に腕を磨い て剣戟の響く、この店に好んで投宿したのです。何よりもゲロッパが、一番の得 意客であったのは言うまでもありません。彼が一ケ月で落とすお金は、ここの一 年の稼ぎを上回ったので、宿の主人も揉み手をして迎え、経営上の指図まで受け て、まるでゲロッパがここの主人であるかのようです。
 ゲロッパは宿に着くなり、荷物を運ばせ、倉庫を開き、下宿生の安否を気遣い、 あれこれと指図を出します。ここ半年の予定も聞かせます。知らない人はゲロッ パに挨拶して、この地の情勢を尋ねたりするのですが、本当は客の一人であるに 過ぎないのです。
 ゲロッパはローマにも教練所を構えています。こちらは、アフリカ経由の奴隷 や、チキチータのような隠し玉を養成する為の支店です。遠くから来た者は、言 葉さえ知らないので、まずはここでローマの風習に馴れさせようと言うのです。
 チキチータは広間に通されました。回りでは、逗留客が足を投げ出しています。 その緩んだ顔が引き締まり、眼が輝きます。こんなに良い見世物はありません。 練習生の姿は、彼らのかつての勇気に火を着け、無責任な訓辞やら、贔屓の空約 束で夢中にさせてしまうのです。
「さあ、こいつを取るんだ」
 ゲロッパはチキチータに木製の剣を渡します。しかし、チキチータはそれを掴 む事ができません。落としてしまいます。何と、未来のコロシアムの主が、剣を 握る事さえできないのです。
「やはりな、獣人にはこの欠点がある。いつもぶち当たる壁だ」
 落ちた木剣を拾うと、ゲロッパは胸を張り、眼を怒らせ、声を荒げました。
「いかに流暢に言葉を操り、二本足で立とうと、獣は獣だ。剣を落とせば、四つ ん這いになり、牙を剥けば良いと思っているのか。ここでは、人間として戦うの だ。牙を捨てろ。その野性は、剣技の中に開花させねばならぬ」
 獣人と言えども、剣を捨てたのでは、ほかの獣と変わりがありません。獣人は、 人間として、剣士として闘わねばならないのです。略装を施されたチキチータで す。ここにも観客の眼があります。こざっぱりとしたローマ兵士の姿をして、世 紀の珍獣といった体のチキチータですが、面目を失いました。しょげ返った練習 生。それがまた、逗留客の贔屓に火を着けるのです。ゲロッパに怒鳴られ、罵ら れるほど、チキチータは贔屓されるのです。
 チキチータはまたも、暗礁に乗り上げました。言葉を操り、二本足で立ち、さ らに、手を使わねばならぬのか。獣人への道は、なんて遠いんだ。思わず、眼頭 が熱くなり、故郷へ逃げ出したくなるほどです。しかし、チキチータは引きませ ん。この獣は、引く事を知らぬのです。
「ここに、こういう物がある」
 ゲロッパは新たな木剣を出しました。それがまた、逗留客を感心させます。あ の師匠は、ただ怒鳴るだけの馬鹿じゃない。ちゃんと訓練生の事も考えて、道を 用意してある。皆が腕を組み、したり顔でうなづきます。
 その剣は、柄のところに鞘が付いていました。その鞘に前足を通して手前に曲 げると、柄を固定させる事ができるのです。なんとか、剣を握る事ができました。
「そうだ、そいつでこの藁人形を叩けい」
 ゲロッパの指示で藁人形を叩くチキチータ。しかし、期待の一撃は、床に落ち た木剣の響きで裏切られます。まだ、固く握る事ができないのです。そりゃあ、 手首を内側に曲げているだけですから。親指と四本の指とで、しっかり握りしめ ているのとは訳が違いますから。チキチータはこの握り方に馴れるしかないので す。二度、三度と、藁人形を叩くチキチータ。三度に一度は、落とします。拾っ て、鞘に前足を通すチキチータ。そこにも、ゲロッパの叱咤が飛びます。
「遅い! そんな事をしている間に、貴様の首は飛んでしまうぞ」
 今は握りの訓練です。実際の、試合の訓練ではありません。しかし、初歩の、 握りの訓練の合間にも、容赦なく試合の心得が叩き込まれるのです。それは、チ キチータをまごつかせるばかりで、身に付かなくても、続くのです。
「また落とした、観客はみんな帰ってしまうぞ。剣闘士が相手にしているのは敵 だけではない。観衆の心をも掴まねばならないんだ」
 そんなこと、今のチキチータに言っても無駄です。しかし、ゲロッパの言葉は、 鞭となり、つぶてとなって、チキチータの根性を鍛えるのです。
 なんとか、五回は、剣を落とさずに済むようになりました。しかし、チキチー タの前足はくたくたです。手首から指にかけて、ぐにゃりと曲がって力が入りま せん。さすがに、ゲロッパの眼は行き届きました。チキチータに休憩を命じます。 許されて、裏庭で手を水盤に浸すチキチータ。ゲロッパは、逗留客の機嫌取りに 努めます。彼は、そういうのが嬉しくてたまらないのです。
「ありゃ珍しい、どこで拾ったんだ」
「あれを先立てれば、いつでも皇帝にお目通りが適うな」
「見たところ、まだ素人だ。焦らず、慌てず、じっくり仕込むんだ」
 客の方から、あれこれ質問攻め、助言攻めにします。それらに、大様に応える ゲロッパ。この雰囲気は、首都の教練所にはありません。こんな所が、彼をこの 地に通わせるのかも知れません。
 師弟の鍛練は続きます。チキチータはひたすら、剣を振り回し、剣に振り回さ れる毎日です。ゲロッパは木剣の鞘の部分に改良を施します。あらかじめ前足を 曲げて、伸ばした時に鞘が締まるようにするのです。決して、チキチータの前足 と剣とを、紐で縛る事はしません。それは、不利になる時もあるし、獣人の面目 に関わるからです。

 一ケ月ほど、ゲロッパはカレクサを留守にしました。再びこの地を踏んだ彼は、 かなたの空に奇妙な物音がこだまするのを認めます。宿屋の近くの森にキツツキ でも巣喰ったか、そう思いながら夕べの道を急ぐゲロッパ。わが家も同然の宿屋 に着くと、物音は激しさを増しています。それどころか、裏庭に人が集まってい るようです。人垣をかき分けて入ると、ゲロッパは眼を丸くしました。
 庭の真ん中に丸太が立てられて、そいつが黄色いつむじ風に襲われているので す。丸太は逃げる事も、叫ぶ事もできず、ただ風の蹂躙に晒されるがまま。けた たましい音の源もここで、風が昇る時には三度、降りる時には四度、丸太が叩か れるのです。地に降りた風が、再び丸太に立ち向かう時、ゲロッパは懐かしい獣 の姿を認めたような気がしました。
「チキチータ!?」
 その声を小耳にするや、すぐに剣を納めて参上したチキチータ。その素早さが また人を驚かせます。まるで、隼が舞い降りたかのようです。
 ゲロッパがチキチータを擁するよりも早く、まわりから拍手が起こります。こ れは練習なのです。舞台裏の、訓練のひとつなのです。だというのに、一生かかっ ても巡り合えない光景と、人を惹き付けてしまいます。獣人の潜在能力の高さを 伺わせるには充分です。
 改めて見る丸太は、切り出した原木を庭の真ん中に埋めたものです。てっぺん から根元まで、容赦なく叩かれ、潰され、傷口をほじくられ、打ちまくられてい ます。その惨状が、ここ一ケ月、どんな厳しい修業がここで行われたかを語りま す。打ち上げられた難破船の竜骨よりも損傷が激しいのです。まわりには、折れ た木剣が何本も転がっていて、今は地に伏して剣闘士の夢にまどろんでいます。 今日一日で、それだけの損失なのです。当のチキチータは、毛並も美しく、筋骨 たくましく、これだけ動いて息ひとつ荒げず、野性の瞳は悪魔のごとき光を放っ ています。そんな野獣が、膝をつき、頭を垂れているのです。家畜としてではな く、兵士として恭順の意を見せているのです。ゲロッパはおのが作品の姿に見惚 れ、まわりの誰もが讃辞を惜しみません。これこそがコロシアムの華、獣人剣闘 士の雄姿です。
 チキチータはすでに、同輩とともに木剣での試合も重ねていました。勝つのは いつでもチキチータです。楯や槍の使い方も、同輩から習い覚えています。最近 では弓矢にチャレンジして、これは掴んで放すだけだから、剣よりも楽だと笑っ ていました。
 ゲロッパの気持ちは決まりました。もう、こいつを首都へ連れて行こう。チキ チータは、どこへ出しても恥ずかしくない剣闘士です。あと半年、一年かかると 思われた訓練は、ここで切り上げです。ぼろぼろに崩れた丸太が、何よりの卒業 証書です。
 宿の主人や逗留客に肩を叩かれるチキチータは、それに胸を張って応え、堂々 たる一流選手ぶりを見せます。こんな田舎には置いておけません。彼こそが、夢 や未来を担うのです。それどころか、帝国の栄光を体現するのです。チキチータ のいる所、どこにも、喝采や歓声の幻影が見られます。人けのない裏庭と、満員 のコロシアムとが、ゲロッパには二重写しになって見えます。こんな経験は初め てです。もう、首都に連れていくしかないのです。
 カレクサでの最後の夜、チキチータはいつもの寝床ですこやかに眠りました。 何の迷いも、何の野心もない、ただ一日を楽しんで疲れた者の眠りです。ゲロッ パは戸を開けて、中を覗きます。逃げ出すかと、不安に思ってではありません。 こんな凄い奴には、天の星も降りてきて寝顔を覗いているんじゃないかと思えた のです。しかし、寝室には、星の輝きも星座もありません。ただ、野獣の、静か な横顔が月明かりに照らされているだけです。
「バイバイ、お前は王道を歩み、俺は財産を手に入れる」
 ゲロッパもまた、良い夢を見て眠りに就きました。











永遠の都ローマ




 ティベリス河を遡り、都の中心部の船着き場に着きました。桟橋を渡ると、そ こは永遠の都ローマです。しかし、運の悪い時に来ました。ちょうど、野性動物 の積み降ろしが行われていたのです。
 チキチータの鼻は、早くから異変を嗅ぎとっていました。懐かしいサバンナの 匂いです。風の便りは、仲間の安否を報せたり、敵の接近を察知するのに役立ち ます。誰か、仲間でも来ているのか、始めはそう思いました。近付くにつれ、そ れはチキチータの鼻をひきつかせ、胸騒ぎを起こします。一頭や、二頭の話では ありません。嘆き、悲しみ、恐怖、絶望が、瀕死の状態で累々と横たわっている かのようです。遠くから見る船着き場は、黒山の人だかりです。桟橋近くには、 大小の檻が山と積まれて、格子が天まで林立しています。高く積まれた檻の中に、 野性の偉大な魂が行き場を失って右往左往しています。おそらく、ライオンでしょ う。ライオンがあんな高みに持ち上げられて、不安から醜態を晒しているなんて。
 王者には道を譲り、獲物も明け渡す事と心得ているチキチータは、胸が張り裂 けそうです。象の雄叫びがまた、この場の悲痛を色濃いものにします。それは、 俺はここに居るぞ、ライオンも立ち去れという宣言ではなく、ただ、不安に怯え、 身の不運を嘆く悲しみの声なのです。
 桟橋を行くチキチータの眼はこの光景に釘付けになり、棒立ちになりました。 かつての同胞が、こんなにちっぽけな、ゴミのような扱いを受けている事に憤る のですが、あまりのことに声も出ません。ゲロッパが気遣います。そうです、チ キチータにはゲロッパが居るのです。
「旦那、こいつは何なんですかい」
 どんな言い訳ができるのでしょうか。しかし、この帝国で苦しんでいるのは、 動物だけではないのです。
「多くの人が、苦しみながら、この国の栄光を担っている。娘を玩具にされなが ら、生き永らえた人がいる。親を殺した仇に仕えて、身を起こした人がいる。誰 でも、力には逆らえない。一度は暴力に身を屈しながら、その力の中で改めて身 を立てるのだ」
 チキチータの眼は動きません。
「こいつらに将来はあるんですかい」
 答えに窮するゲロッパ。
「お前が彼らの将来となるんだ、お前は彼らの希望なんだ。奴らはもう死んだ、 死んだと思え。ここで堪忍の緒を切ったら、その希望まで台無しにしてしまうん だ」
 チキチータの頬に、涙がつたいました。ライオンの檻が五つ、人の肩に担われ て運ばれて行きます。象の檻には車輪が付いていて、馬に引かれて行きます。檻 の数も少なくなって、いつまでも感傷に浸っていられなくなりました。チキチー タは踵を戻して、ゲロッパに従いました。数ある野獣の中には豹もいましたが、 同類のチーターの居なかったのは幸いでした。チーターは素早いのでよそ者には 捕まりませんし、飼い馴らされているチーターは現地で役に立っているので、出 荷される事は少ないのです。おそらく、ローマの人は、豹は知っていてもチータ ーは知らないだろうと思われます。

 優秀な剣闘士が、噴出する感情の囚になってしまいました。しかし、剣闘士の 多くは奴隷の出身です。征服された民族の捕虜として連れて来られ、家族とは隔 てられ、一人で身を起こした者です。現実への憤りは、剣闘士が腕を奮う妨げと はならないのです。
 教練所の二階、三階が剣闘士の宿舎になっています。ゲロッパはチキチータに、 風通しの良い部屋を与えました。旅装をとき、食事をとるチキチータ。しかし、 胸がつかえて、何も喉を通りません。すぐ近くにコロシアムがあって、同胞の嘆 きの声が聞こえるのです。仲間の悲痛は、そのままチキチータの悲痛です。獣人 として訓練を積んで、ここまで来て、自分に何ができるのでしょうか。拳で柱を 叩くチキチータ。これほどの感情の囚になるとは、予想もしなかった事です。
 その夜、チキチータは、コロシアムの地下に身を潜めました。警備は手薄です。 そりゃ、そうでしょう。この街の住人で、野獣を檻から出したいなんて思う者は、 一人もいませんから。街を混乱に陥るといういたずら心を起こしても、最初に手 を噛まれるのは自分ですから。飼育係はいても、警備はないのです。
 鍵を手に入れ、柱に身を隠すチキチータ。しかし、彼は感情に身を任せるには、 人間としての暮らしに馴染みすぎていました。ここで野獣の群をとき放ったとこ ろで、サバンナに連れて帰る訳にもいきません。見知らぬ街で散りぢりになった 高貴な生き物たちは、あちこちで騒ぎを起こし、結局は殺されるでしょう。不安 と嘆きは、その最後まで続くでしょう。彼らを本当に救うには、チキチータが剣 闘士として名を上げ、人間と同じ舞台に立ち、夢を語ることが必要なのです。手 にした鍵を握りしめ、檻に背を向け、天を仰ぐチキチータ。彼らを見殺しにしな ければ、本当の救いは訪れない。自分は、醜い。サバンナの素直でひょうきんな 野獣を、神は何という残酷な境地に導いたことでしょう。チキチータは辺りを憚 らず慟哭し、深く泣きました。せめて遠慮なく泣くことが、同胞への手向けと思 われたのです。人に見つかっても良い、これで破滅を招いても良い、せめて泣く くらいは泣かせて貰おう。チキチータは一生分の涙を、ここに捧げました。あん まり泣いたので、涙を流した跡が、いつまでも顔に残ったくらいです。

 旅の疲れが癒えた頃、カードが組まれました。ゲロッパは配慮しましたが、そ れは裏目に出ました。
 獣人剣闘士のデビュー戦は、難しいのです。チキチータはやがて、人間の剣闘 士と組む予定です。圧倒的なスピードで勝るチキチータは、連戦連勝でキャリア を飾るでしょう。しかし、まだ名前の知られてない獣人剣闘士と組んで、勝ち星 を捧げる事は、今ここで白刃を交えている剣闘士にとっては面子にかかわります。 最初の敵は、見馴れぬ獣人を潰しにかかるでしょう。チキチータに、万一の事が あれば大変です。ゲロッパは、八百長を潔しとしません。そこでチキチータには、 野獣との対戦が組まれたのです。
 その日の朝、コロシアムに詰めかけた客は、人形のように美しい剣闘士を見ま した。野性のチーターが二本足ですっくと立って、立派な装束を身にまとい、楯 と剣を手にしているのです。まるで、壁画から抜け出して来たかのようです。無 邪気な観客は、これだけで大喜びです。でも、何もしないで、じっと立っている だけでは済みません。体に無数の傷をこしらえた客や、遠征地で血しぶきを浴び て帰った客は、そんなものでは満足しないのです。
 反対側のゲートが開きました。軽快に登場したのは、イボイノシシです。これ は、手頃な獲物です。空腹に迫られれば狙いますが、首筋にがぶりとやって倒れ てくれるほど弱くもないのです。ゲロッパはやがて、姿の奇怪なヌーや、適当な 大きさの鰐を、チキチータに組ませようと考えています。しかし、今日は初日な ので、そこそこの相手を選んだのです。それが、間違いでした。イボイノシシは、 サバンナではうるさ方の理屈屋で通っていたのです。堂々と立つイボイノシシ。 彼の眼に、チキチータは馬鹿な看板のように見えました。
「なんだ、人間の真似をして、二本足で立つなどと。恥ずかしくはないのか、野 性の誇りを忘れたのか。人間は自然の摂理から道を外した滓だ。四本の足で立っ て大地をいたわり、風の声を聞く、それが我々ではないのか」
「俺は、世界が見たかったんだ」
「見たくもない世界を見せられても迷惑だ。こんな腐った世界など、突き崩して くれるわ」
 突進するイボイノシシ、瞬時にかわすチキチータ。イノシシは、無駄な走りを 強いられます。これは良い勝負が見られそうだ、誰もがそう思いました。しかし、 イノシシはろくに餌も食べず、スタミナが続きません。おまけに、チキチータに 花を持たせるほどお人好しでもなかったのです。
「素手でもかなわない相手に、剣と楯を持たれては勝ち目がない。さあ、好きに 料理しな」
 イノシシはチキチータの前で足を止め、ごろりと横になりました。闘技場に引 き出された野性動物が戦意を失い、しっぽを巻いて逃げ出すのは、よくある事で す。そんな時は手傷を負わせ、挑発するのです。チキチータにそんな知恵はあり ません。彼は剣を捨て、踵を返しました。満座の観客に背を向けたのです。
 無抵抗の者に危害を加えない、この騎士のような振る舞いに、一部の人は称賛 の声を上げました。しかし、それは僅かです。多くの人の眼に映ったのは、ただ、 やる気のない二頭の獣です。一方は寝て、一方は帰ったのですから。こんな、し らけた試合は見た事がありません。やる気のなさの、極北の姿です。チキチータ がゲートに姿を消すと、イボイノシシも起きて、帰りました。次の演し物が始ま ります。クリスチャンの娘が、ライオンに頭をかじられ、腹わたを貪られるとい う演し物です。ゲロッパの演し物は、失敗に終わりました。

「何という事をしてくれたんだ!」
 眼を皿のように広げたゲロッパが、声を荒げます。練習に使っていた木剣が、 チキチータの足元に叩き付けられます。
「剣闘士が、コロシアムに出て、手ぶらで帰って来るなんて事があるものか」
 門下生たちはみな遠巻きに眺めます。こんなに怒ったゲロッパは、見た事があ りません。往年の名選手の片鱗を見るかのようです。しかし、チキチータはびく ともしません。野性の瞳に、脅しは通用しないのです。
「旦那、あっしは闘うのが嫌になりましたぜ」
 先日の、船着き場での光景が甦ります。チキチータの気持ちも、判らないでも ないのです。当の獣は踵を返して、宿舎へ引き上げてしまいました。どうする事 もできません。ゲロッパは頑丈な歯を剥き出しにして、悔しがるばかりです。
「畜生、マントヒヒとでも組ませてやれば良かったぜ」
 そう言うゲロッパが、マントヒヒのようです。チキチータは奴隷ではなく、自 由契約なので、無理に闘わせる訳には行きません。かと言って、遊ばせて置く訳 にも行かないので、仕事を与える事にしました。コロシアムの客席で果物を売っ たり、場内の清掃の仕事です。しかし、ゲロッパは見抜いていました。チキチー タの中に眠る、戦士の魂を。奴は必ず大舞台に立ち、喝采を浴びねば済まない。 より大きな名声を博する者と、刃を交えずにはいられない。野性動物はおろか、 家畜でさえ無理強いは禁物です。今はただ、チキチータの闘争本能に火が着くの を待つしかないのです。











下積み暮らし




 翌日から、観客席で果物を商うチキチータの姿が見られました。首から木箱を 下げて、井戸で冷やした果物を売り歩くのです。イチジクは、ローマの始祖を助 け擁した果物として人気です。ぶどうは、この地方の特産で、赤、白、緑、紫と、 彩りも豊富に取り揃えています。砂場も見ものですが、ここで飲み喰いをするの も楽しみのひとつです。
 元老院議員や騎士階級の人は落ち着いたものなので、ここの席では仕事がしや すいのです。誰も野性のチーターごときを、驚いたり怪しんだりせず、普通に扱っ てくれます。ここでは、チキチータは、高貴なペットのようです。
 庶民の席では、そうは行きません。押しまくられ、抱きつかれ、触りまくられ ます。髭を引っ張られますし、唸って脅す人もいます。そんな時、チキチータは、
「およしなせえ」
 と言うのです。驚いた客は、人が毛皮を被っているのかと思って、チキチータ の口に手を突っ込んだりします。そうです、これが真実の口の元祖であるのは言 うまでもありません。
 チキチータは銭勘定が苦手です。1アスの物を売って、1セステルティウスを 受け取り、おつりに、6アスを渡したりします。この場合、買い物は別として、 2アスの損になるのです。ゲロッパに叱られそうですが、その心配はありません。 この商売は買い取り制です。毎朝、買い取った果物を観客席で、売りさばいてい るのです。これを知って、わざと、チキチータに大きな貨幣を持たせる客も出て きます。デナリ銀貨や、アウレウス金貨など、こんな場所では見る筈のない貨幣 が木箱の中を踊ります。その度に、チキチータは幾らか損をしているのです。で も、気前の良い客が、それを埋め合わすかのようにチップをくれるので、何とか 収支が折り合っているのです。
 その日は、ふだんにも増して盛況でした。そして、お呼びが掛かったので、チ キチータは婦人席の方に足を向けました。そこを持ち場としている者が、たまた ま休んでいたのです。
 女性に対しては、ものごし柔らかく接するのが礼儀です。体が大きく、力の強 い者ほど、努めて善良さを装うものです。しかし、チーターの世界では、女性の 社会進出が進んでいます。男女差はゼロに等しく、よけいな遠慮や配慮は無用で す。チキチータは、いつもとまったく同じ気持ちで、木箱に果物を満載して、婦 人席に向かいました。
 婦人席の常連らも、遠目にチキチータの姿を見覚えていたので、さして驚き、 怪しみはしません。それどころか、頭を撫でてみたい、ちょっと体に触ってみた いという誘惑さえ感じました。
 執政官級の元老院議員の夫人パエリアは、ふだんから奴隷や友人を軽く扱うの に馴れています。ぶどうを頂きながら、チキチータの顎に手を伸ばしました。奴 隷の従順さを検分するかの様子です。チキチータは髭を引っ張られるのかと思い、 髭を引っ張られるのは嫌なので、いつもの庶民の席で、すりや掻っぱらいに囲ま れてやるように、がる、と唸って見せました。夫人は驚いて悲鳴を上げ、ぶどう を取りこぼしてしまいます。それを見た友人のリゾッティアは、ものごとを大袈 裟に考え、夫人が襲われたのかと見て、もっと大きな悲鳴を上げました。それは、 コロシアム中に響き渡るくらいです。チキチータは動ずる様子もありません。騒 ぎは、競技を中断させるくらいのものとなりました。満座が、夫人席に注目しま した。命のやり取りをしている剣闘士までが、夫人席を仰いだのです。
 しかし、事故もなく、何の危険もありません。騒ぎは夫人らの早合点によるも のと判って、他の客席の観衆も関心をほかに移しました。剣闘士も、改めて剣を 結びます。
 この時、従姉妹のアレグリアは小用で席を離れていました。満員の競技場でよ くあるように、彼女も、帰り道が判らなくなっていました。道を探す途中で聞き つけた騒ぎが、不安を大きくします。小走りで帰った席で、従姉妹や友人を背後 から抱き締め、安否を気遣います。ほっと胸を撫でおろし、ふり返った所に見た のが、チキチータの顔です。今度は自分が襲われるのかと思ったアレグリアは、 気を失って、近くに居た人の腕の中に倒れました。それこそ、主を失った衣裳の ように、ぐんなりと身を預けたのです。
 この様子がまた、満座の注目を集めました。失神した夫人の身の折れようが、 尋常でなかったのです。またしても、競技は中断です。剣闘士も肩を並べて、こ の珍しい光景に見入り、あれこれ感想を漏らしています。チキチータは婦人席に 立ち入ってはならぬと、お達しが下されました。
 朝から晩まで観客席を回って、たいした稼ぎにもならないようだし、今日の騒 ぎもあったので、チキチータに売り子は向かないとゲロッパは考えました。そし て場内清掃の方に回しました。

 競技は朝に始まり、夕方に終わります。動物がらみの演し物は午前で、格闘技 は午後になります。コロシアムの清掃は昼と夜の二回。満座の観客が声を涸らし、 胸を湧かしている間に地下を掃除し、群衆がゴミを残して立ち去った後に、通路 や客席を掃除します。ゲロッパはこの仕事を請け負っているのです。
 チキチータは、動物の檻からは遠ざけられました。弱った奴を処分したり、遺 体を片付けたりするのは、辛すぎる任務です。彼はもっぱら、通路や客席の掃除 に回ったのです。
 当時の客は、マナーを知りません。環境を守ろうとか、資源を有効に使おうな んて気持ちは、微塵もないのです。食べた果物の皮や種はそのまま、肉を喰った ら骨は置きっ放し、ワインや飲み物の残りはその場に捨ててしまいます。小用を 足すのも階段の陰で済ましてしまいますし、中には通路で気張っている猛者もい ます。汚れた衣料は、その辺に捨てます。とにかく、今とは比べ物にならない量 のゴミが出るのです。
 ゴミを捨てるだけで、家一軒を建てるくらいの大仕事です。量に関して言えば、 三軒分くらいはあります。これらを船着き場へ持って行って、小麦粉を降ろした 空舟に載せ、ティベリス河を下って海に捨てて貰うのです。
 ほうきを使ったり、スコップを使ったり、手押し車を押したりしなければなり ません。チキチータの手は、手袋なしで、それらをこなせるようになりました。 ゴミを荷車に載せて、牛に引かせて歩く時は、まだ一息つける時です。そんな時 でもチキチータは、歩行者に気を付け、犬や子供を巻き込まないよう注意するの です。舟乗りとも顔見知りになり、ガリア属州やヒスパニア属州の噂も小耳に挟 むようになりました。
 今日もチキチータは、通路の掃除です。大きなへらで、敷石にこびり付いた汚 れを落としているのです。
「このチューインガムという奴だけは、厄介なシロモノだ。根元にへらを差し込 んで、レスリングの要領で引っくり返さなきゃならない。下手に押さえ付けると、 ベスビオ火山のように地面に張り付いて、取れなくなる。そうなったら、もう駄 目だ。冬を待って、凍った所を金鎚で叩くしか手がない」
 小はシミ抜きから、大は海運まで。コロシアムの清掃は、それは大変なのです。 かつてヘラクレスが牛舎の掃除を言いつかったように、それは神に課される難題 とも言うべきです。でも、チキチータはまだ幸せです。空き缶や新聞まで片付け ずに済んだのですから。何と言っても、ローマ時代ですから。

 デキウス・ゲロッパは、東側通路の清掃につき、チキチータに五セステルティ ウスを支払いました。昨日は四セステルティウスで、おとついは六セステルティ ウスです。つまり、チキチータの賃金は、出来高払いで支払われたのです。











獣人剣闘士の栄光




 その日も、チキチータはコロシアムの地下を掃除していました。便所や飼育場 には水路が巡らせてあるので、そこへ向けて汚物を落とすのです。熱いし、臭い し、たまらない仕事です。上では人が楽しんでいるのかと思うと、なおさら、や れ切れない気持ちになります。でも、チキチータは職務に忠実な性格です。
 ここに居ると、上で何をやっているのかが、だいたい判ります。朝は早くから、 競技も始まらないうちから、顔見知りと落ち合って談笑している人がいます。野 獣の演し物になると、声は一段と高まります。でも、舞台中央よりも、待機して いる野獣に眼を向ける人もいるので、その関心はばらばらです。剣闘士の試合に なると、うって変わって静かで、息を呑むような緊張が地下にまで伝わって来ま す。剣を結ぶ音が響き、ここと言う時に、うおっ、と歓声が上がるのです。そん な時はチキチータも瞑目して試合を読みます。一の太刀、二の太刀、ここで身を 翻して三の太刀。掃除の合間、モップを振り回してチャンバラに興ずるのも楽し みのひとつです。何と言っても、出来高払いですから。
 地下に囚われた獣は、試合運びとは関係なしに唸り声を上げます。もう、馴れ ました。チキチータはただ、掃除をして、町に吹く風を友としてローマに住むの です。それは、普通のロマーノとまったく変わらない暮らしです。
 モップを水に浸けて、石畳を磨きます。汚物が消えて、水が悪臭まで消し去っ てくれます。この瞬間が嬉しいんだ。顔を上げたチキチータに、いきなりの大音 響が耳を弄します。
「なんだ、戦車競技でもやっているのか」
 戦車競技は固い地盤を必要とするので、よそで行われますが、たまにコロシア ムに戦車が引き出される事もあります。地下で聞くその喧しさときたら。蹄の音、 車輪の地響き、こいつだけはよそでやって貰いたいものです。太鼓の中に住んで いるような気持ちにさせられます。しかし、この轟音は戦車ではありません。歓 声です、客席から湧き上がる声です。たいがいの刺激に馴れたロマーノが、ここ まで声を長引かせるのは珍しい事です。皇帝が臨席して、市民に金貨をばらまく とでも約束したのでしょうか。
「エレファンティス! エレファンティス!」
 何者かが行進しているようです。その歩みに合わせ、大袈裟に太鼓まで叩いて います。市民はその者に声援を送り、その名を連呼しているのです。
 いきなり、天井がへこみました。杉板は辛うじて重みに耐え、返しましたが、 そいつは隣に移動します。隣へ、さらに奥へと、板が軋むの、砂が落ちるのと、 大騒ぎです。上では何が行われているのでしょう。天を担ぐアトラス神が、しょっ 引かれて来たかのようです。
 行進は去りました。すると、また別の行進が始まります。またしても、同じ喧 噪です。もう、チキチータは頭が壊れそうになりました。今度も、何者かの名を 連呼しています。しかし、うるさ過ぎて聞こえません。何を騒いでいるのでしょ う。モップを捨てて、この場を逃げ出したい気持ちです。しばしの忍耐の後、騒 ぎの中心は頭上を去りました。しかし、観客の声援は止みません。それどころか、 声は一段と高まったのです。
 三度目の行進です。どこから声を張り上げているのか、こんなに多勢の人がい たのか、と思うほどの大歓声。コロシアムの客席は、人ではなく魔物に支配され たかのようです。チキチータはもう、滝壷の中で、滝に打たれているような気分 です。あまりの音量に、耳を塞がずに、眼をつぶってしまいました。しかし、耳 を塞いだところで何になるでしょう。この音響は、鼓膜の奥ばかりか、お腹の中 にまで染み通り、腸のひだひだまで振動させているのです。この音の化け物がま た、声を揃えて連呼しています。
「セレンゲティ! セレンゲティ!」
 いつも仲良くしている同僚チリトリゥスが駆け付けます。
「チキチータ、セレンゲティだ。見に行こうぜ」
 それも、大声で叫んだのです。チキチータは顔を起こし、誘いに乗りました。 もう、こんな所にじっとしてはおられません。世界の終末が来たかのようです。 その災厄を見届けねばなりません。
 チキチータやチリトリゥスに、決まった席などありません。通路が彼らの席で す。しかし、意外と見晴らしが良く、移動の自由の利く通路は、一番の特等席で す。今日は、そんな訳には行きません。通路まで満杯です。冗談抜きで、ローマ のみならず、近隣の住民までがここに押し掛けたのです。
 ふだん見馴れた砂場も、人の頭越しにしか見えません。チキチータがそこに垣 間見たのは、何だったでしょうか。そいつは最初、巨大な獣に見えました。ごし ごし、とチキチータは顔を拭い、もう一度、眼を凝らします。しかし、やはり、 巨大な獣です。深紅のマントを着た、立派な武人ですが、やけに頭が大きいので す。まるで、ライオンのようです。と言うか、ライオンそのものです。もしや、 剣闘士の一人がライオンの皮を頭に被っているんじゃ、とチキチータは沈みまし た。しかし、その顔には生気があります。勇者のように顎を上げ、神のように威 風堂々。彼こそは、ローマ帝国が誇る獣人剣闘士セレンゲティなのです。
 セレンゲティが手を上げます。すると、観客は万雷の拍手と歓声を送ります。 なんと、この剣闘士は闘わないのです。闘わず、ただ歩いて、手を上げるだけで、 こんなにも客を湧かせてしまうのです。また観客が声を上げますが、チキチータ の眼はこの獣人に釘付けです。
「チキチータ、どこ見てんだよ」
 チリトリゥスが注意を促します。皇帝が席を立ったのです。観客席の真ん中、 最前列に皇帝席があります。皇帝が立ったのを見て、セレンゲティもそちらに足 を向けます。
 妙なことです。皇帝席のすぐ下、砂場の上に、それに劣らぬ豪華な特別席をし つらえているのです。いったい、誰がこの席に座るのでしょうか。お妃がこんな 危ない場所に臨席する筈もありません。将軍にも、元老院議員にも似つかわしく ない、それでいて豪華に飾られた席です。セレンゲティは皇帝の前に進むと、も う一度手を挙げ、恭順の意を表しました。
「ただ今、帰りました」
 皇帝がうなづくと、セレンゲティは歩みを進め、深紅の絨毯を踏み、黄金の椅 子に身を預けました。槍を持つ随人がまた、近くの席に座ります。その数、十二 名。セレンゲティは獣人でありながら、人をも従える身分なのです。
 砂場の真向かいに、より大きな、同様の特別席がしつらえてあります。そこに 立っているのは、象と犀です。丸太どころか、原木のような太い腕。ふた回りも 三回りも大きな、帝国軍人の鎧を着て、みごとな貫禄を見せています。あの鎧を 作る為に、どれだけの鍛冶職人が動員されたかと思うと、頭がくらくらするほど です。セレンゲティが席に着くのを見て、ふたりも着席しました。彼らも、多く の供回りを従えています。当然でしょう。鎧の着脱だけで、どうしても十人の手 はいります。被り者や衣裳の絢爛さ、ふたりの王様が並んで座るかのようです。 犀の獣人の名は、ムロウスタスと言います。

 現在、ローマに居る獣人は、チキチータを含めるとこの四人のみです。昔はもっ と多かったそうです。アウグストゥス時代には、元老院にも獣人が出入りしてい ましたし、カエサルにいたっては、言葉の話せない獣人まで引き連れ、やり取り をしていたそうです。古代史は、人間と獣人とが力を合わせ、歴史や文明を築い てゆく時代でもあったのです。
 獣人の出世頭は、ガイウス・パンサーです。彼は紀元前四三年、執政官となり、 同僚のアウルス・ヒルティウスとともに善政を敷きました。当時、まだ若かった オクタヴィアスを元老院に迎えた事でも知られています。彼はその名の通り、パ ンサーの獣人です。
 ローマでの獣人は数えるほどですが、古代エジプトにいたっては、神殿に出入 りし、行政を司る者の大半が獣人であったと言います。人間の力はまだ未熟で、 獣人の力を借りなければ文明は築けなかったのです。鰐、猫、黒犬の獣人、とき、 隼の鳥人が、政務に預かって力があり、人間はその中で肩身の狭い思いをしてい たのです。当時の壁画に描かれる人が必ず横を向いているのは、肩を並べて仕事 をしている同僚に、いつ噛みつかれるか判らないので、それを警戒して横を向い ていたのだと伝えられます。
 文明の基礎を築いた獣人も、時代を経るに従い数を減らしました。そもそも獣 は、お呼びが掛からなければ、人間の仕事を手伝おうなんて気持ちはないのです から当然です。今いるのは、自分から二本の足で立って、先祖が力を貸した文明 の扉を、再びこじ開けんとした者ばかりです。そんな挑戦者をローマは快く迎え、 華やかな職に就けて遇します。二本足で歩く獣を見れば、家に招いて食事を振る 舞います。彼らは獣人に寛容です。そもそも、ローマの始祖ロムルスが狼の獣人 だったのですから。

 コロシアムは、今までにない熱狂を見せています。過去一年間、東方属州に巡 業に出ていた花形剣闘士が帰って来たのですから。特にセレンゲティは、その華 やかな容姿に加え、日頃の謹厳な振る舞いもあって、たいへんな人気です。帝国 の威信を託するのに、百獣の王ほどふさわしい存在はないでしょう。観衆は皇帝 の前も憚らず、セレンゲティの名を連呼するのです。
 これほどの人気は、危険です。帝国領は広大で、責務は膨大なので、反乱の鎮 圧にあたる属州派遣軍の将軍や、民衆に恩恵を施す執政官が声望を集めたりしま す。多くの場合、これが仇となって、皇帝の不審を招き、有意の人材が失われる のです。セレンゲティ、エレファンティス、ムロウスタスの人気と名声は、将軍 どころか皇帝さえ遥かに凌いでいます。人はセレンゲティ見たさに、皇帝を押し 退けさえします。なぜ、嫉視や不興を招かないのでしょうか。やはり、彼らは獣 人なのです。人と獣とを隔てる溝があまりに深い為、皇帝の不興は彼らに及ばな いのです。お陰で、日月星の三獣人は、かつての暴君の佞臣や、凱旋将軍を上回 る富と名声を手に入れ、さらに、後顧の憂いもなく栄華に溺れる事ができるので す。
 チキチータは何が悲しくて、溝掃除役人と一緒に、通路を走り回って居なけれ ばならないのでしょう。自分の仲間が、佞臣セイヤヌスや、帝位を金で買ったユ リアヌスを凌ぐ栄華に包まれているというのに。でも、ここから見るセレンゲティ は窮屈そうです。重い衣裳を着て、じっと座っているだけです。溝掃除も、やっ てみれば楽しく、奥が深いのです。何より、人の役に立っているという自負があ ります。皇帝の膝下にはべって、高給を貪るだけの飼い猫とは違うのです。
 持ち場で休むチキチータですが、上で歓声が上がると、やっぱり耳を澄ましてしまいます。観客は、剣闘士の試合を見て楽しむだけでなく、試合を見た獣人の反応をも見て楽しんでいるようです。あまりの名勝負にセレンゲティが手を叩くと、観客もそれに釣られて称賛を送ります。働きの良い剣闘士は、獣人がそばに呼んでねぎらいます。花形剣闘士と言えども、獣人よりは格下の扱いです。ライオンが楯と剣を持てば無敵でしょうし、力で象や犀にかなう人もいません。大衆はおろか皇帝をも虜にするコロシアムで、獣人剣闘士が力を持つに至るのは自然なのです。

 夕方になると、ゴミ片付けです。いつもよりゴミが多いので、獣人を恨む気持 ちにもなります。日もとっぷり暮れると、仲間と町に繰り出します。羊のあばら 肉をうまく焼いて出す店があるので、チキチータは連日、ここに通いつめていま す。立ったまま肉を喰い、酒も煽ります。チリトリゥス、バケツニクム、ユカオ ハクスが、いつもの仲間です。
「パンも喰えよ、貯金ができるぞ」
「あんな紙みたいなもの」
「でも、チキチータは酒は呑まない。これは感心だぞ」
「肉しか喰わないのと、酒ばかり呑んでいるのとでは、肉の方が安上がりだ」
 以前、この連中がチキチータに無理に酒を呑ませようとした事がありました。 でも、それは強烈に毒の匂いがしたのです。チキチータはきっちりと顎を結んで、 一滴たりとも酒を呑もうとはしませんでした。でも、帰る頃には千鳥足になって いるのは、仲間の酌み交わす酒杯の匂いで酔ってしまうからです。
 酔ったチキチータほど、面白いものはありません。軒のめす猫に求愛する、犬 に喧嘩を売る、肉屋の商品をかっぱらう。また、その逃げ足の速いこと、風より も早く夜陰に消えてしまうのです。もちろん、いつもの事なので、肉屋はゲロッ パに代金を請求します。

 帝国は繁栄の盛りですが、コロシアム競技は毎日催される訳でもありません。 休みの日は、チキチータ達は、床を磨いたり、客席の修理に当たったりします。 ちょっとした大工仕事なら、チキチータにも手伝えるようになりました。それで も暇を持て余すと、町を散策します。獣人剣闘士の栄光は、嫌でも眼に付きます。
 やたら華美な集団が町を練り歩くと思えば、真ん中にはセレンゲティの姿があ ります。ローマっ子がすぐに集まって、沿道を埋め尽くします。獣人にとっては、 ちょっとした用事で出かけるのさえ、見世物なのです。そのセレンゲティは、二 本の足で立って歩けるのが自慢なのに、立ってさえ居ません。奴隷どもに台座を 担がせて、その真ん中に座っているのです。元老院議員は臥輿に乗りますが、さ すがに体面を憚って、セレンゲティは座輿に乗ります。臥輿に乗ったのでは、野 性のライオンが寝そべっているのと変わりがありません。それでは、具合が悪い のです。
 エレファンティスやムロウスタスの外出となると、もっと大事です。彼らも、 歩いて出かける事をしません。かといって、象や犀を乗せる台座もないし、担げ る人も見当たりません。彼らの作る行列は、セレンゲティ以上です。同盟国の王 様がローマを訪問したかのように、お祭り騒ぎになります。
 まず、武装した一団が先触れとなります。ついで、舞踏団、軍楽隊が通りに花 を咲かせます。その後を、奴隷たちが六人づつ四列になって、綱を引いて登場し ます。その綱に引かれた台車に乗って登場するのがエレファンティスです。ムロ ウスタスも同様です。この両者が並ぶと、エジプトの王様くらいしか張り合える 者はなくなります。
 始めは、馬や牛に引かせていたのです。ところが、馬や牛は座り込んで、動か なくなってしまいました。あのイボイノシシと、事情は同じです。そこで皇帝の 命により、多くの奴隷が獣人の移動に充てられたのです。獣人剣闘士こそは、帝 国の威信を示し、その存在が、属州鎮撫にもひと役買っているのだから当然です。

 チキチータには仕事があります。手を伸ばせば届く栄光も、忘れさせてしまうほど、充実した毎日があります。夕方から、観客席に残ったゴミを片付けるのもチキチータの仕事です。宝石のように美しい毛皮を着たチキチータが、籠を背負って客席を回ります。残飯、弁当がら、ハンカチ、酒瓶、それらが手際よく背中の籠に納まります。
 チキチータは外に出て、箒を使います。通路や周辺の掃除まで、言いつかっているのです。この辺を、貴族やローマ騎士、今を盛りの獣人剣闘士の一団が通ります。でも、チキチータにはコロシアムがあります。剣闘士が満座の喝采を浴びたとて、それは真昼の太陽に輝く剣のきらめきのように、一瞬のことです。チキチータは昼も夜もコロシアムと暮らし、それを根底から支えているのです。今では、この石の建物が生き物のように見えます。それに餌をやり、世話をしているのはチキチータなのです。
 そして、一日の仕事が終わっての、仲間との談笑。しばしの、歓楽。これで本当に、夜の帳が降りたと言えるのです。夜を徹して働く者は、日ごとに永遠を見るようなものです。砂場に栄光を追う者は、飽き足りる事を知りません。チキチータに取っては、一日が永遠であり、一日ごとに、安息と祝福があるのです。どちらが幸せでしょうか。チキチータが素質を持ちながら、獣人剣闘士の栄光を羨まずにいられるのは、毎日の暮らしに接している者なら当然と理解できるのです。
 でも、チキチータはいつまでもコロシアムの掃除人として、ここに骨を埋めるつもりで働く訳にも行きません。セレンゲティ、エレファンティス、ムロウスタスは、三人とも、ゲロッパの所属ではありません。彼らの登場、成長とも、その手をそれたのです。獣人剣闘士は辺境属州から身を起こすのが常で、カレクサに出張所を設けたのもそれに網を張る為です。アフリカからの船は、必ずここを経由します。チキチータは、網に掛かった大魚です。皇帝とも肩をならべうる掌中の玉が、剣を捨てて掃除人になり、しかも、楽しそうに毎日を過ごしているのは、苦々しい限り。肉屋から回されるつけも、半端じゃないのです。ソーセージ、ロースト肉、肝臓のプディングなど、この獣は値段に構わず持って帰ります。最近では、肉屋もチキチータの来店を見越して、わざと値の張る霜降り肉を店頭に並べたりします。ゲロッパだって、魚が食べたい時もあるのです。財布の紐が、肉に対してだけは開きっぱなしというのが、経営に預かる者として見過ごせないのです。
 チキチータの姿は、ほとんどすべてのロマーノの眼に触れる所となりました。 神の遣いとも言うべき獣人が、コロシアムの掃除人をやっている。事情を知らな い人は、あれは言葉の喋べれない獣人だと思いました。チキチータが喋べれる事 を知っている人は、あれは剣を握る事のできない獣人だと思いました。チキチー タが剣を握れる事を知っている人は、あれは腕の立たない獣人だと思いました。 チキチータが腕が立つことを知っている人は、ゲロッパと思いをともにしました。 コロシアムの掃除人たちも、いつかチキチータが砂場に立つことを夢に見ていま した。











投網剣闘士タンゴ




 その日は興行もなく、大工仕事も終わって、チキチータは暇を持て余していま した。コロシアムの陰で憩いながら、眺める往来は、魚影が行き交うように楽し げです。つい陽気に誘われて、風に身を任せるチキチータです。見知らぬ下町に、 良い肉を卸す店があるかも知れません。ついこの間も、丸裸の兎を軒に吊した店 を見つけて、有頂天になったばかりです。
 通りの向こうから、黒人の集団がやって来ました。黒人は敏捷で、ばねがある ので、剣闘士には多いのです。明日の出番の奴らだな、チキチータの眼はその勇 姿をかわしました。いちいち見惚れていたのでは勤まりません。立ち止まったの は、向こうの方です。
「ヘイ、チキチータじゃないか」
 懐かしい声です。三人組の真ん中に、懐かしい顔がありました。タンゴです。 チキチータに言葉を伝授して、行方をくらましたタンゴが、ローマの雑踏にいた なんて。
「やっぱり、チキチータだろう。二本足で立って、着物まで着て、立派な獣人に なったもんだ。みんな、こいつはチキチータなんだ!」
 ほかの二人も大はしゃぎです。やっぱり、アフリカから来た人にとって、野獣 はお隣さんです。遠い都で同郷人に出会ったように、囲んでしまいます。三人は チキチータを、なじみの酒屋へ案内しました。昼間なので、薄いワインを飲み、 あさり入りのサラダを突つきながらの歓談です。
 それぞれの来歴を語り、チキチータは剣の修業をしながらコロシアムで働く身、 タンゴらは投網剣闘士であると打ち明けました。
 剣闘士には、幾つか種類があります。剣と小楯でもって軽装で戦う剣闘士が一 般的ですが、投網剣闘士も人気です。こちらは、漁網と三つ又の鉾をもって戦う もので、ネプチューンの神を模したものと言われ、なぜか黒人に多いのです。こ のほか、ムルミロ剣闘士、トラキア剣闘士というのもあります。
 個人の技量のみならず、武器の優劣、適性によって、試合に変化を付けて深み を出す為に考えられた編成です。
 タンゴはこの地に来たばかりで、軽装剣闘士五人と、投網剣闘士四人との変則 デスマッチを命じられました。この、五対四というのは、それぞれの技量によっ て付けられたハンデです。
 仲間は、ゴーリキ族のサンバ、ボロネシ族のジルバ、バイコヌル族のボサノバ です。ところがこのボサノバという奴、アフリカから出てきて、生まれて始めて 魚を食べ、食べ過ぎて、お腹を壊してしまったのです。今も顔を紫色に腫らし、 生死の境をさ迷っています。試合どころではありません。
 こうなると、五対三の戦いを余技なくさせられます。うち一人は一対一の対決 ができますが、残る二人は、二対一の対決になります。いくら相手が、昨日まで は捕虜だった、素人同然と言ったって、剣闘で二対一はきつ過ぎます。捕虜もま たピンキリで、その辺の百姓を連れて来ただけのもあれば、勇猛果敢、最後まで 抵抗を試みて辛くも縄目に捕えられた戦士、というのもあります。何が当たるか 判らないのです。そこでタンゴは、チキチータに仲間に加わるよう勧めたのです。
 同胞の危機です。カードは決まっています。ここで断って、敵方に隠し玉があ れば、多勢に無勢、タンゴまで殺されるかも知れません。どうして、断る事がで きましょう。チキチータが剣を捨てたのは、野性の獣を守る為です。剣技そのも のは、今も鍛練を続けています。ふたつ返事で、チキチータはこれを受けました。 仲間の歓声と、乾杯。ただし、チキチータは軽装剣闘士として訓練を積んでいる ので、この形で参加するよう言い渡しました。
 帰って、報告を受けたゲロッパの喜びようを想像して下さい。彼は眼を回し、 裏庭へ出て、大声を張り上げたものです。あまりの嬉しさから、秘蔵の剣、戦勝 の楯など、およそ財産の半分をマルス神殿に奉納したくらいです。

 昼下がりの一番です。腹ごしらえをした客が、三々五々、席に着いて改めて見 る剣闘です。東西のゲートに、心細げな剣闘士がたむろしています。この時代、 とどめを刺す事なく勝負が着いたのですが、試合で命を落とす事もたまにありま す。この地が始めての者同士、客席など視界の彼方へ飛び去っています。
 目ざとい客は、投網チームに獣人が混ざっているのを見つけました。あれはい つも、この辺を掃除している奴ではないか。皆の眼が、痩せたチキチータの雄姿 に注がれます。軽装チームは、観客の贔屓が相手方に移っているのを感じざるを 得ませんでした。
 銅羅の音とともに、チームが展開します。いちばん腕の立つタンゴは、自分が 二人を相手にしようと正面に構えます。残りの者も、向かい合った者を敵と見定 めます。チキチータは後ろに居たので、いちばん若い、未熟な者が回されました。
 ふたりを相手取るタンゴは、初手に投網を使うことを不利と悟りました。まず 三つ又鉾でひとりを倒してから、いつもの勝負に持って行くのです。手早く動け ば、両面攻撃は避けられるでしょう。網を使うと見せかけて、自慢の鉾が地を這 います。敵もさるもの、軽業師のように跳んで笑います。これを続けては、タン ゴは疲れるばかり。簡単に勝たしてくれる相手ではないようです。
 ほかのメンバーも、すぐに網を使わず、三つ又鉾一本で、剣と小楯を相手に撹 乱してやろうという作戦。小気味良い剣戟が響きます。チキチータの相手は、眼 は涼しく、頬は赤く、筋肉こそ逞しいものの、まったくの練習生のようです。ど うやって戦ったものでしょうか。
 練習生の渾身の一撃が振り降ろされます。これを受けて、チキチータは思いま した。やっぱり、自分に剣は不利だと。正面きっての撃ち合いを重ねては、握力 の弱い自分はいつか負かされる。人間の真似ごとをせず、ここはスピードを活か した、自分の戦いをせねばならないと。チキチータは相手を押し返します。次の 瞬間、練習生は剣を落としました。それどころか、サンバの相手、ジルバの相手、 タンゴの相手ふたりまでが、次々と剣を落として、この勝負は終わってしまった のです。
 観客は、不審にざわめきました。いったい、何が起こったのか判りません。し かし、目利きの客は見逃しませんでした。軽装チーム全員の背後、側面に、一瞬 だけ、あの毛皮を着た奴が寄り添っていたことを。コロシアムの常連のうち、五 人に一人は格闘通です。さらに、二十人に一人は、この奇跡をしっかりと目撃し ていたのです。彼らは得意げに、途方に暮れるまわりの客に説明しました。
「あれだ、あいつだよ。あの豹が全部やっつけたんだよ」
 砂場の真ん中にいる剣闘士ら自身が、何が起こったのか呑み込めませんでした。 遠くで見ているよりも、近くにいる者の方が全容をつかめないのです。軽装チー ムは丸腰で、どうやら負けを悟りました。投網チームは、戦意を失った相手に刃 を突きつけているので、もしかしたら勝ちかなと思いました。相手チーム五人は すべて、チキチータの得意技、小手打ちによって片付いたのです。
 チキチータはそのスピードを活かし、相手の側面、もしくは背後に回ります。 そして、剣のつば、もしくは柄頭で、相手の手の甲を思いっきり叩くのです。そ れも、手首が内側に曲がるように叩くので、この一撃で剣を落とさない者はいま せん。もう少し、二、三回は刃を交えて、試合らしい所を見せろと、ゲロッパに は言われています。今回は、仲間を気遣ったのと、初舞台で自信がなかったのと で、この技を披露したのです。チキチータは、まんざらじゃないと思いました。
 遅まきの拍手、鳴りやまぬ歓声。この事実上の五対一の対決は、獣人剣闘士の 初舞台にふさわしいものになりました。ただ、ゲロッパは納得ゆきませんでした。 この試合は、チキチータの好意による出演で、その報酬も、タンゴから個人的に 支払われる数セステルティウスのみで、ゲロッパには何の実入りもなかったので す。

 しかし、もう怖いものはありません。チキチータの見せ方も判りました。翌日 から、長衣をまとって、大旦那気取りでコロシアム周辺を闊歩するゲロッパの姿 が見受けられました。よその剣闘士を、いくら呼んでも、いくら払ってもおつり が来るのです。セレンゲティ売り出しの為、どれだけの剣闘士が切り殺され、そ の雇い主はどれだけの賠償を支払ったでしょう。エレファンティスやムロウスタ スの力を見せる為に、牛や馬や石材が集められ、どれだけ馬鹿々々しい催しが組 まれたでしょう。チキチータにそんな苦労はいりません。ただ、早業を見せれば 良いのです。多対一の戦いを組めば良いのです。獣人剣闘士はその余りの能力の 故、キャリアを築く初期に多大の犠牲を要します。チキチータはへそを曲げさえ しなければ、扱いやすい獣人だったのです。
 チキチータは、あいかわらず溝掃除をやっています。そんな獣を見つけると、 ゲロッパは怒鳴りつけて、教練所の方へ追いやるのです。剣さえ振り回していれ ば、肉は喰わしてやると太鼓版。次の開催日には、早くもカードが組まれました。 強引に、割り込んだのです。
 チキチータの登場は、必ず昼一番です。野獣の演し物は午前、剣闘競技は午後、 その中間のチキチータは、最後の涼風を追うように登場するのです。
 昨日までゴミ片付けをやっていた者が、栄光の獣人剣闘士と肩を並べて許され るものか。チキチータにも、一抹の不安がありました。剣と小楯を手に、ひとり でゲートに立ちます。喝采と声援は、かつて地下で聞いたセレンゲティのそれを 凌ぎます。みんな、自分を罵っているんじゃないか。帰れ、お前は地下で掃除で もしていろ。そのように聞こえます。チキチータは、じっと眼を閉じました。瀑 布の中から、躍り出す魚がいるように、この喧噪の中にも自分の名を呼ぶ者があ ります。やがて周りが、その声に唱和します。

 チキチタス! チキチタス!
 チキチタス! チキチタス!

 その連呼に促されるように、歩みを進めるチキチータです。ローマ市民は知っ ていました。この、けなげな獣人の姿を。アフリカやエジプト、ナイルの奥のど ことも知れぬ国から来た獣人ではありません。彼はもう、ロマーノだったのです。 この半年近い労働と、たわいない歓楽とで、彼は生粋のロマーノとして認められ たのです。三代続きという訳にはゆきませんが、下町を駆ける悪童連から、飲み 屋で酔い潰れた連中にまで顔を知られているのは、立派なものです。ローマ出身 の獣人という事で、人は彼に声援を送ったのです。
 相手チームは五人、ゲロッパがあちこちの貴族や権門から借り集めた中堅どこ ろの剣闘士です。この間とは、迫力が違います。しかし、チキチータに怖いもの はありません。彼は、神に近い獣人剣闘士なのです。
 銅羅の音が響きます。チームが展開します。指図通り、何度か剣を合わせるチ キチータ。しかし、まともに切り結んでは、やはり押されるのです。相手チーム は攻勢に出ながら、左右が立ち位置を変えたりして、巧みに、五人が一丸となっ て戦っている様を演出します。実際に切り合っているのは一人なのです。頃良し と見て、チキチータは小楯と剣で相手の剣を挟み、それを空高く投げます。次の 瞬間には、相手チーム全員が剣を落とし、いちばん大きな奴の喉元にチキチータ が刃を突きつけています。勝負あったと見た後に、打ち上げた剣が舞い降りて、 地面に刺さって墓標のようです。満座の歓声、熱狂と涙。あいつはやってくれた、 下町出身の、溝掃除をしていた獣人が、番付に載るほどの剣闘士を五人も平らげ た。人は抱き合って、涙を流してその雄姿を讃えたのです。
 相手チームに取っても、すでに緒戦で名を上げた獣人に華を持たすくらい、お 安い御用でした。ゲロッパは、相応の祝儀を与えています。何より、獣人剣闘士 に本気の戦いを挑んだところで、命を落とすのが関の山です。その登場は、雷で あり、台風であり、誰もが勝ちを譲らざるを得ないのです。
 二戦で、チキチータは栄光ある獣人剣闘士と肩を並べる存在になりました。皇 帝や獣人の臨席がある時は、チキチータはセレンゲティの左に、その砂場の上の 特別席に席を占める存在になったのです。タンゴやサンバが、その随人となりま した。チキチータはローマに馴染み過ぎているので、黒人に囲まれるくらいでちょ うど良いのです。かつての同僚が、これに加わる事もあります。黒人に白人を取 り混ぜて、チキチータの随行団は国際色ゆたかでした。











セレンゲティ




 チキチータはもう、まともな試合をしなくて済むような身分になりました。勝っ た剣闘士をねぎらったり、砂場を逃げ回ってどうしようもない野獣に止めを刺し たり、そんな事で面目が保てたのです。たまに砂場に立つのは、神がかりな能力 を観客に忘れさせない為です。
 これほどの身分になっても、チキチータはまだ溝掃除やゴミ片付けに未練があ ります。気が付けば、ゴミを拾ったり、石畳を磨いたりします。長衣の下に、柄 の短いモップを隠し持ち、隙あらば掃除に取りかかるのです。タンゴら、随人も 手伝います。勿論、ゲロッパに見つかれば大目玉です。それでも、止められない のです。始めて身を立てたのが掃除人だから、それが己の本分と心得るチキチー タです。
 その人気は天井知らずです。ロマーノは良い加減、よそから来た者がいきなり 帝位を奪ったり、軍を率いたり、花形剣闘士になったりするのに飽いていました。 短い間とは言え、チキチータはここに居て、彼らと肩を並べたのです。ローマ出 身の者が、帝国の威信となる。これは、久しく忘れられていた快挙です。体の奥 底から新しい血が湧き出し、安逸に馴れたロマーノも、土蔵の奥から錆びた鉄兜 を引っ張り出して来かねない興奮があります。チキチータの勇気は、ローマ市民 全員の勇気です。チキチータの行くところ、花びらが撒かれ、子供が抱きつき、 男も女も眼を輝かして迎えます。チキチータを型取った人形が売られ、チキチー タを描いた石版が各家庭に飾られ、どこの路地も、チキチータごっこに興ずる子 供たちでいっぱいです。大きな、おっとりした子はエレファンティスに扮し、い ちばん元気な子がチキチータの役をかっさらうのです。もう、セレンゲティは、 ただ突っ立っているだけの脇役になりました。町をゆくセレンゲティの行列は、 嫌でもそういう光景を眼にしました。
 皇帝をも、神をも凌ぐ人気のチキチータですが、未だ、お歴々と打ち解けるに は到らないのです。砂場では、セレンゲティの隣に座り、入場も退場も肩を並べ ますが、口を利いた事はありません。やはり、ライオンは恐ろしいのです。たま に、伯仲した試合にセレンゲティが感想を漏らす事もありますが、チキチータが 相槌を打つ前に、随人がさらってしまいます。象や犀にいたっては、砂場をはさ んだ向かい側で、入場門さえ反対です。世間から見れば、おなじ獣人剣闘士です が、いつも衆目に晒され、馴れ親しむ事もできないのです。
 チキチータは貴族や権門の贔屓を作らず、同輩とも交わらず、いつまでも掃除 人と安酒場で肉を喰い、タンゴと肩を並べて教練所の指導に当たります。たまに 掃除をしていると、ゲロッパはおろか、子供にまで叱られます。夕方になると、 荷車を舟着き場まで見送るのは日課になっています。
 そんな毎日の中で、妙な噂がささやかれ始めました。チキチータは人喰いだ、 というのです。これは、小さくとも危険な刺です。
 獣人剣闘士は、獣であるよりも、まず剣闘士でなければなりません。すっくと 二本の足で立ち、衣裳を身にまとい、金や昇進を喜んで、餌などに心を奪われて はなりません。セレンゲティ等は神経質なほどで、地面に膝を着く事さえしませ ん。四つん這いになったり、餌にがっついたりすれば、やはり獣かという事で、 その栄光も、尊敬も、何よりもカリスマ性が失われてしまいます。獣人剣闘士は その面目を守る為に、細心の注意を払っているのです。臥輿に乗って、ぶどうを 食べながら街を行く元老院議員とは大違いです。
 それに加えて、帝国への忠誠心も求められます。たださえ五人力、十人力の獣 人が、剣を帯びての往来が許されているのは、皇帝と臣民への忠義と愛情があれ ばこそ。だというのに、人喰い等という噂は、ただ血に飢えた野獣と堕したばか りか、帝国の威信に刃を向ける反逆行為です。いくら気の良い獣人でも、そんな 噂があっては困ります。チキチータの仲間は、ひとり去り、ふたり去りしました。
 チキチータとても、身に覚えがない訳ではないので、むげに否定できません。 でも、どこかの王国で頂いた肉は、自分で仕留めたものではなく、お余りを頂戴 したものです。手を下したのは、キンツバ三世の宮廷です。その場所は、ローマ の駐屯地から離れた内陸。確証を持って流された噂ではない筈です。
 ここ最近、チキチータの盛名に隠れて、セレンゲティはすっかり影の薄い存在 です。もとより、堂々たる偉丈夫、策謀嫌いなまっすぐな眼差し。この生きた神 様というべき大将軍の口から、そんな卑小な言葉が発せられたとは思えません。 しかし、随人はどうでしょうか。お呼ばれがないと、随人も暇を持て余します。 相語らって、都に毒を撒くのは、鶏を丸呑みにするよりも容易です。そんな連中 の好きにさせて置くのも、セレンゲティらしくない事です。
 獣人剣闘士は、コロシアムの施設を自由に使う権利があります。今日は暑かっ たので、ネコ科の獣人は連れ立って、サウナで汗を流しました。お互い、口も利 かないのですが、施設内外では行動をともにします。タオル一枚で腰を隠し、堂 々と腕を組んで眼をつぶるセレンゲティ。コロシアムでは、皇帝の気紛れで、い つ仲間同士の剣闘を強いられるかも知れません。チーターはライオンには勝てな い、等と言ってられないのです。チキチータは敵を観察しました。
 背丈は頭ふたつ上、体重は五倍、力も五倍。とても、適う相手ではありません。 しかし、剣があれば、この体格差を無効にしてしまえます。剣闘では、スピード に勝るチキチータが有利になります。その牙も、爪も、怪力も恐れる事なく、渾 身の一撃で止めを刺す事だってできるのです。
 しかし、今はどうでしょうか。今は、丸裸です。この瞑目したライオンは、チ キチータの首を折る事も、頭をかじる事もできるのです。戦いの場は砂場だ、そ う思ってチキチータは浴室を後にしました。武器もなしに、二人っきりになるな んて、とんでもない事だったのです。
 タオルで体を拭くチキチータ。背後で扉が開き、そして、扉よりも大きな影が 入って来ました。
「チキチータ!」 雷鳴が轟きました。死刑宣告を受けたかのような気持ちで振 り返るチキチータに、思わぬ言葉が返って来ました。
「おろしニンニクで食べる少年の肉が一番よ」
 そこには、豪快な笑顔のセレンゲティが居ました。彼も食べていたのです。し かも、薬味まで付けて。その笑顔には、俗界の人気など、ものともしない屈託な さがありました。獣人の絆の方が、何より優先されるのです。当然です。肉食の ライオンが、同じネコ科のチキチータを、兄弟分として遇するのは当然すぎる事 です。
「奴らの薄皮は問題にならない。骨を肉でぐるぐる巻きにして、さあ、召し上が れと言わんばかりだ。おまけに剥き出しの腹。胃、腸、肝臓と、美味しい所をま とめて一口なんだから、まるで皿に載っけてあるようなもんだ」
 百獣の王は、チキチータの肩に手を回します。
「旦那、あっしは何も、自分から好んで頂いた訳じゃありませんぜ」
「でも、やったんだろう。肥えた年寄りの、あの脂肪肝というのも、格別の珍味 だな。私は、あの元老院議員というのを見ると、あの味を思い出して仕方がない よ」
 えらい打ち解けようです。ライオンにこんな風にされたら、チキチータはその 子分格に甘んじざるを得なくなります。何と言っても、顔が三倍くらいあるんで すから。剣があれば負けない、という先の思いは、どこかへ飛んでいってしまい ました。思えば、馬鹿な考えでした。こりゃ、剣が二本あっても適わない相手で す。弾き飛ばされるし、こいつの腹筋は貫き通せないに決まっています。

 この日を境に、両者は距離を縮めました。華やかな獣人剣闘士が、ふたり連れ だって歩く姿さえ見受けられます。チキチータを苛なむ悪い噂は、消えてしまい ました。あれほど謹厳なセレンゲティが、帝国への忠誠に揺るぎなき獣人剣闘士 が親しむのだから、間違いはないだろうという訳です。
 チキチータはまたしても、人気者となりました。幼な子を肩車し、子供らに囲 まれて移動する毎日です。しかし、セレンゲティも得をしました。その清廉さ、 曇りなき友情を買われて、貴族や元老院などの贔屓筋をふやしたのです。
 これまで、座輿に担がれて移動したセレンゲティですが、市街を颯爽と歩く姿 をよく見るようになりました。チキチータと付き合うと、そうならざるを得ない のです。きらびやかな長髪の獣人と、美しい豹紋の獣人とが、何やら話しながら アーチをくぐります。まるで、アテネの学堂です。人々は畏敬の念に打たれて、 足を止めるのです。
 ふたりの友情は日増しに強くなります。ふつう、ライオンはチーターなど相手 にしません。しかし、セレンゲティは、相手の肩に手を回し、つまらぬ冗談にも 大袈裟に笑い、まるで息子か弟のように扱います。彼は寂しかったのでしょうか。 エレファンティスやムロウスタスとも友情を交わしても、所詮は肉食獣と草食獣、 見えない壁があります。チキチータなら肉食獣同士、世間を憚るような話も平気 です。狭い道にさしかかると、チキチータに道を譲って、自分は頑として動かな いセレンゲティです。これほど仲間を立てるとは、誰も思わなかった性格です。

 この友情を誰よりも喜んだのは、ゲロッパです。彼は断る相手を説き伏せ、と うとう宿舎に招待しました。なじみの肉屋が、骨髄やら内臓やら、珍味を取り揃 えて腕を奮います。催しも終わり、腹もくちた夜半、セレンゲティは過去を打ち 明けました。
 セレンゲティも、だいぶん酔っていました。
「今だから言おう、私は縄張り争いに敗れた。敗れて、獣人として第二の人生を 選んだのだ」
 蝋燭が、この獣人の顔を照らします。その顔は、勝利そのものです。剣闘士と してでなく、野性の中でも、セレンゲティの強さ、逞しさは群を抜いている筈で す。
「冗談じゃない、いったいどこに、セレンゲティに勝るライオンが居るっていう んですか」
 チキチータの言葉は、お世辞ではありません。本当にセレンゲティのたてがみ は見事で、大の大人を五人くらい隠すのは訳もない程なのです。
「世界は広い、私だって驚いたさ。このセレンゲティ・アフリカヌスを打ち負か すライオンが居たとはね。私は噂に聞いた。かつてキリマンジャロの麓に住み、 すべての獣に号令した偉大な王が居たと」
「パンジャですね」
「爾来、キリマンジャロの麓を縄張りとする事こそが、すべてのライオン達の憧 れとなり、誉れとなった」
「キリマンジャロの落ちぶれライオンの方が、ケニヤやナイロビのプライドで威 張っている連中よりずっと強いって事は、よく耳にします」
「私のたてがみが黒く、山ほどになった時、私もそこへ挑戦に行ったもんさ。迎 え撃つのは、聖地キリマンジャロの守護神、全アフリカの主、王の中の王、テリ ブルよ」
「聞いた事がないですね、そのテリブルってのは」
「最初は我輩も拍子抜けしたものさ。たてがみこそ黒いが、その量は少なく、全 体にほっそりしている。まだ若獅子さ。だが、奴の長所は、そのスピードにあっ た。その速いこと、速いこと。右に左に動き回るので、同時に三体いるように見 える。どれが本物だと思っていると、後ろから噛み付かれる。力任せに押さえ付 けようとすると、難なく脇腹をかいくぐられる。その度に噛まれる。しかも、浅 手だ。頭蓋骨に牙を突き立てる、ライオンの命のやり取りの中で、こいつは浅手 しか負わさないんだ。そのうちこちらは、くたくたに疲れて、傷まみれになって、 動けなくなる。すると奴はにっこり笑って、家族の紹介をしやがるんだ。こちら が妻のローザに、ダイヤに、ゴーディとか言ったっけ。そして、今しも奪いあっ た、その愛妻のローザに、俺様の手当をしてやれと命じる。もう、完敗だよ。ス タミナと、スピードと、高徳さの前に、俺は生涯で始めて膝をついたって訳さ」
 溜め息をつくセレンゲティ。
「そのテリブルって奴は、偉い奴ですね」
「そうとも、俺様が惚れた男さ。ライオンのみならず、すべての動物から慕われ ている。親子は狙うなとか、幼い子供は狙うなとか言って、トムソンガゼルから も感謝されている。親孝行、したい時には親は無しってのが、奴の口癖だったな」
「へえー、人間臭いライオンですね」
「何でも、変わった母親に育てられたそうだ。それと、もうひとつ、お前さんが 飛び上がって喜びそうな事がある。チーターを殺すな、チーターの邪魔をするな という、攻撃禁止令を近隣のライオンに発布したんだ。お陰で麓じゃあ、チータ ーが追った獲物をライオンが待ち伏せるという、ネコ族共同の狩りさえ発達して いるくらいなんだ」
 そこまで聞いてチキチータは、そのテリブルと言うのは、テリーの成長した姿 だと思いました。そうでなければ、ライオンが、チーターを攻撃するななんて言 う訳がありません。
「ふうーん、そいつは偉い奴だ。あっしも尊敬しますよ」
「誰だって惚れちまうんだ、テリブルには」
 セレンゲティは腕を組みました。窓の外では、もう漆黒の闇が降りています。 この闇の向こうでは、今も、サバンナの王たちが響宴を開いているのです。年と いい、特徴といい、テリブルはテリーに間違いなさそうです。母さん、あんたの 育てた息子は、ひとりは剣闘士になり、もうひとりは王の中の王になりましたよ と、遠く語りかけるチキチータです。

 お返しに、チキチータはセレンゲティの招待を受けました。地図を片手に行っ たのですが、お屋敷ばかりで、剣闘士の宿舎らしきものは見当たりません。地図 はそこを指しています。こちらに獣人が居候していないかと尋ねると、その屋敷 こそセレンゲティの住まいだと言うのです。椰子の梢が風に揺れる、南国風の住 まいです。
 チキチータは食堂に通されました。家は広いのに、簡素な造りです。セレンゲ ティはすぐに登場しましたが、召使は椅子を引くだけで退散します。
「今日は面白いものを御馳走しよう」
 つなぎに、鰯の油漬けが出ます。小さなナイフで突き刺して頬張る二人です。 来歴を問われて、チキチータは語ります。
「あっしは、世界が見たかったんでさあ」
 主菜が遅いので、もぐらの短冊が出ます。ここの給士は、とにかく、主人を待 たせる事はしないのです。
「こいつは、全身筋肉ですね」
「柔らかくて旨い」
 舌鼓を打つライオンですが、もぐらの全身でその前歯一本分にしかなりません。 やっと主菜が登場します。量はたっぷりですが、布を取りのけて、チキチータは 唖然としました。
「旦那、これはあんまりじゃあ」
 こぼすのも無理はありません。眼の前に盛られたのは、パンです。いくら人の 真似がうまいと言っても、猫の舌にパンは紙のようです。
「まあ、食べてごらんよ」
 セレンゲティは、ひとつつまんで口に放り込みます。百獣の王が、満足げにパ ンを食べているのです。コロシアムの喝采こそありませんが、これもひとつの奇 跡です。チキチータも、不承ぶしょうながら、それを口にします。
「うん、こいつは、悪くないですね」
「なあ、いけるだろう」
「これなら、おやつ代わりに頂いても良いですよ」
 そのパンは、生地の中に、りんごやなす、肉桂などを巧みに織り込んで、肉に 似た食感を出しているのです。
 突如として食堂に入ったのは、兜、鎧をまとった前線のローマ軍兵士です。こ れにはチキチータも驚きましたが、セレンゲティは落ち着いたものです。
「将軍」 兵士は膝まづいて報告します。セレンゲティは、家ではこう呼ばせて いるのです。「報告します。元老院議員は、キリスト教徒に対する監視を、一段 と強める模様であります」
「据えたニュースだ」 獅子将軍は口をくちゃくちゃやりながら答えます。「お 歴々はどうして、ユダヤ人に対してだけは寛容になれないのだろうか」
 チキチータは答えず、りんご味のパンと、肉桂味のパンとを食べ比べています。 この家は、質素倹約を旨としているのですが、上流階級と話題を合わせる為、情 報だけは伝令を使って取り入れているのです。
 セレンゲティが大きなパンを引き裂いて、チキチータに分け与えます。チキチ ータは黙々と食べます。そこへ、またひとりの伝令が馳せ参じます。
「将軍、申し上げます」 膝をついての報告。「ブリタニア地方で大規模な反乱 がありました。わが帝国軍はロンドンを放棄、一時撤収する構えであります」
「それも、据えたニュースだ」 セレンゲティは粉を払い、手を叩きながら答え ます。「この国は版図を広げ過ぎるんだ。いたずらに兵を消耗し、得るものは少 ない」
 チキチータはもう、この新しい食べ物に心を奪われてしまいました。まだ口に しない種類はないかと籠を探り、食卓に落ちた粉さえ前足で拭いて食べるほどで す。それをよそに、セレンゲティは席を立ちます。
「チキチータ、このパンを作る工房を覗いてみないか」
 まだ、食べるのに夢中のチキチータです。こういうのは、畑で穫れると思って いるのです。でも、人の手で作ると聞いて、興味が湧かないでもありません。
「覗いてみましょうか」
 セレンゲティは先立って、不馴れな客を厩舎へ導きます。そこで待つのは、逆 巻くたてがみも眩いばかりの白馬です。この馬も、獣人に対しては含むところが あります。二本足で立つのは、堕落だと考えています。それを、難なく乗りこな すセレンゲティです。馬とライオンでは、話になりません。逆らったら、その場 で献立になるだけですから。
 馬上のセレンゲティは、軍神のように見事です。勝利しかあり得ない顔です。 チキチータも馬をあてがわれましたが、こちらは牧童見習いが良いところです。 馬も、馴れない客を乗せて、くるくる旋回します。セレンゲティが鞭を入れて、 やっとそれについて行くような馬です。
 ふたりの獣人は郊外へ出ました。川に沿い、緑に包まれます。山の懐に着けば、 たえまなく騒ぐのは渓流。ここからは、狭い山道を登る事になります。それにし ても、見事な馬です。尻ひとつで、兵士の胸板以上の厚みを見せます。背中も、 首も、太古の恐竜が甦ったかのような逞しさです。百獣の王にこそふさわしい乗 り物で、チキチータはまるで鞍に付いた備品のようです。ここまで平原を駆けて、 さらなる山道を苦にしない力があります。
 渓流の音にも馴れた頃、道の途中で大きな洞窟がありました。明るい洞窟で、 そこら中が小麦粉で白く汚れています。セレンゲティが馬を着けます。奥から、 ひとりの男が手を拭いながら現れます。
「将軍よ、すっかり気に入ってくれたようだな」
「老兵よ、剣を鏝に持ちかえても、その働きはめざましい」
 顔にも体にも傷を負った逞しい男は、引退した兵士です。贔屓筋の将軍家に仕 えていたのですが、一念発起して、獣人の口に合うパンを編み出す為に山にこもっ たのです。もちろん、それは人間の口にも合う、とびきり旨いパンです。
 洞窟は峠の鼻を貫通する形で、少し進むと反対側に抜けます。出口の所まで来 て、ふたりの獣人は椅子を勧められました。そこからは、ふたつの山に挟まれた 谷の景色が一望できます。さらに足を伸ばした辺りに、白い雄叫びを上げる滝が 見えます。その涼風は、ここまで届きます。
「うまい粉を作る秘訣は」 老兵がパンを手に語ります。「滝と臼です」
 今しも焼き上げたばかりのパンに舌鼓を打つセレンゲティは、上機嫌で聞き入 ります。この老兵とは、よっぽど気が合ったようです。
「ベスビオスから切り出した大理石で作った臼。この臼で挽いた粉は、花粉より も細かく、風よりも軽い。この粉を、ピッツェルビナ山系を洗う清流の水で練る。 あとは層をなして堅く焼き上げる。あんたのお気に入りさ」
 当時のローマでは、家畜の臓物で未来を問う占いが流行っていたので、別に餌 には不自由しません。しかし、獣人がパンを喰えば、人間らしさに拍車がかかり ます。セレンゲティの狙いは、そこなのです。肉屋の店先で、無邪気にかっぱら いをするチキチータとは大違いです。
 パンをつまみ、清流の水で喉を潤すセレンゲティ。景色も、食事も、申し分な いとごまをするチキチータ。ふたりは夕刻には帰路に着いたのですが、市街に入 る頃にはとっぷりと日も暮れていました。

 暗い街中で、一軒だけ頻々と人の出入りする邸宅があります。ちらっと漏れる 光は優しく、人々のささやきは厳かです。そこでは、キリスト教のミサが行われ ているのです。
 見た目はただの邸宅ですが、中は広く、多くの人を擁する造りです。奥の壇上 が、十字架や絵画で簡単に飾られています。椅子はなく、立ったままの集会です。
 寄進によるまちまちの蝋燭が、堂内の明かりに変化をつけています。聖句の末 尾を延ばしただけの素朴な賛美歌が、歌よりは詩句に心を向かわせます。賛美歌 が終わると、前列にいる教父が聖書をめくります。それは、節をつけて読むよう であり、押さえて歌うかのようでもあります。要所にくると言葉を切り、信徒た ちは手を合わせ、眼を閉ざします。武器と荒淫がすべてを圧し去るローマにあっ て、善良な魂は友を求めてここに集ったのです。繁栄と歓楽のただ中にあって、 衿持ある人は天の権威を求めたのです。
 頭から外衣を被った若い女性が、この聖堂の扉を叩きました。彼女はよっぽど 美しい容姿の持ち主なのでしょう。敬謙なる信徒までが、思わず感嘆の念を漏ら したほどです。
「なんて美しいんだ」
「宝石のような眼をしている」
 教父の前に進んだ娘は、一礼して、寄進を申し出ます。ミサの途中ですが、そ の熱心さに教父は微笑んでうなづきます。小さな手の平からこぼれるのは、大粒 の宝石に金塊。この輝きに、教父も信徒も眼を丸くしました。
「きっと、アフリカから来た人に違いない」
 こんなささやきが聞こえます。当時のローマでは、目新しい物、豪奢な物は、 何でもアフリカから来ると思われていたのです。
「神の祝福がありますように」
 教父はとくべつ念入りに、彼女に聖水を授けました。信徒たちも、これは素晴 らしい娘だと歓迎しました。











マンモスガウル




 その日も、チキチータとセレンゲティは肩を並べて歩いていました。もう、こ の獣人ふたりは、ローマの雑踏で珍しいものではなくなりました。
 前方から、華やかな一団が近付いて来ます。馬上りりしく、先頭に立つのは、 都警長官ヴィシバシアヌスです。セレンゲティのような、飾り物の将軍ではあり ません。軍団司令官として、ガリア、ダキア、イリリクムを平定し、栄えある都 警長官の職に就き、銀の鎧をまとって警備に当たっています。今や奴隷、平民の 大半が異郷の出で、いつ反乱蜂起を起こすか知れません。それを治め、日頃から 畏怖の念を持たせるのが都警の努めです。
 東洋の島に赴いて反乱を鎮圧、トリミダス王を崖に追い詰め、毒杯を煽ろうと するのを許して復位し、今までに増しての忠誠をこの同盟国に誓わせた功績があ ります。甲鎧の上から赤いマントをまとい、白馬にまたがった姿は、帝国軍人の 鑑です。何よりも最大の功績は、パレスチナ和平です。
 深い皺を刻んだ顔が、獣人の姿を認めて笑みに包まれます。
「百獣の王よ、ご機嫌うるわしいか」
 これが、セレンゲティの友人なのです。彼は、こんな凄い人物を贔屓に持って いるのです。
「ローマの護り主よ、本日は無聊で何より」
 両者は腕を立て、拳と拳とを固くぶつけます。何という、武骨な挨拶でしょう か。半分、喧嘩です。馬が驚いて、いなないた程です。その精悍な顔立ち、骨太 な腕を見れば、堕落した貴族よりは、この一介の武人の方に、ローマ建国の精神 が流れている事を伺わせます。帝国が世界に平和と秩序を持たらすとすれば、ロ ーマはその建国の精神でひとつに結ばれるべきなのです。

 カピトリヌス丘の上に、多くの神殿と並んで、元老院議員の議事堂があります。 皇帝に対する追従団と化したかに見えても、まだまだ実権があります。建国はお ろか、神話伝説にまで祖先を辿れるような名門貴族が、ここで属州管理、都の治 安について語るのです。長椅子に寝そべったままの発言ですが、その声は朗々と、 堂内によく響きます。声が小さくては、議員は勤まらないのです。議題は、近年、 増加を見せる異教徒についてです。
「キリスト教徒の躍進ぶりは、オリンポスの神々を敬い、建国の精神を守るとい う規定を定めた、タフト・ハートレアス法に抵触するのではないか」
 こんな意見が出されます。
「キリスト教徒が、反ローマ的な行動を取ったという証拠はない」
「いやいや、彼らは深夜、水道の水源地に侵入していた事件がある。宗教行事に 使う水を汲んでいたと言うが、真偽のほどはどうやら」
「水源の侵犯は皇帝にさえも許されざる行為。それを堂々と犯すとは」
 頭に血が昇った議員からは、さらに過激な意見が出されます。
「コロシアムや劇場の興行師の中にも、キリスト教の信者が紛れ込んでいるよう だ。この忌まわしい、コロッセオ・テンを告発し、国外追放に処すべきである」
 怒りは伝播します。しかし、キリスト教に味方する議員もいるのです。グロリ アス、ミゼレリアス、マニフィクトゥスなどがそうです。
「清貧、勤労、貞節、これら共和国時代の徳目をいまだに堅持しているのはキリ スト教徒である。私は彼らの中にこそ、建国の精神が生きていると思う」
 議場は騒然とします。たかが新興宗教と、誇り高きご先祖様とを比べるとは、 これは罰あたりな意見です。しかし、彼らも、キリスト教徒の敬謙な暮らしぶり は、見て知っているのです。意見百出して、みんなの声が響いて、進行がなりま せん。隣の人の声を聞き分けるのが精一杯です。
 その時、黙って立ち上がったのは、門閥派の大貴族ソラです。長身で、その顔 には大理石像のような威厳があります。彼が立つと、近くの人は黙ります。彼が 進むと、それを認めた人も口を閉ざします。その威令は、人間界はおろか、自然 界にまで及びます。ひとたび怒れば、天も十の雷を落とし、彼が同意を求めれば、 神殿の神々さえ、「しかり、しかり」と声に出してうなづいたとまで噂される、 権勢並ぶ者なき名門貴族です。彼が眉をひそめるのは、元老院の中の隠れクリス チャンです。
「この繁栄の世にあって、清貧や勤労などを持ち出すとは。我らに異郷、異教徒 の振る舞いを真似よというものではないか」 そして、一人ひとりを睨みつけま す。
「そら、伸ばした髭をいじくり回しておるわ。そそらそら、立てた二本の指が震 えておるわ」
 議場は、水を打ったように静まり返りました。この大貴族の意見は、神の一撃 のように議員を貫いたのです。これに力を得て、またひとりの権門が席を立ちま す。
 それは、セクストゥス・ウァロです。かつて、ティベリウスの恐怖政治時代、 ウァロの祖々父も、あらぬ中傷に悩まされていました。すると、カピトリヌス丘 にあるウァロの先祖の銅像が、夜な夜な、月明かりの中を、神君アウグストゥス 像の前に伺行し、危機に陥った子孫の執り成しを頼んだという伝説があるほどで す。翌日には、大地がぱっくりと口を開き、件の訴訟人を呑み込み、プルトゥス の元へ送ったとの事です。それほどの権門であるウァロが席を立ちました。神か らも愛でられたるウァロの発言です。
「近年、オリンポスの神々への犠牲式がおざなりにされて久しい。庶民の間での 信義を重んじた教義が心を捕えたとて、星辰や大地の創造主たる神々が軽んじら れて良い訳がない」
 キリスト教は庶民に受けが良いのです。彼はこの点を、苦々しく思うのです。
「太陽はアポロンが御する馬車に引かれて昇るのだという説を、笑うてはならぬ。 アルテミスが狩りに興じる夜は、月が三日月に欠けるのだという説を、笑うては ならぬ」
 これは満座の喝采を得ました。元老院はキリスト教に対して監視の眼を光らせ るという事で、衆議一致したのです。

 控え室の手前に、チキチータとセレンゲティが座り、向かい側にはムロウスタ ス、エレファンティスが山を築いています。今日は並んで登場するので、控え室 も一緒なのです。四人は、元老院より大きなテーマを扱っていました。それは、 新たな強敵についてです。
 その頃、エジプトに、第五の獣人が登場したとの報せが届きました。黒々と巻 いた角も逞しい、水牛の獣人、マンモスガウルです。アフリカの水牛と言えば、 一対一なら雄ライオンも避けて通るほどの猛者です。それが二本足で立って、右 手に剣を、左手に楯を持ち、同族の獣に容赦もせずに暴れ回っている。刺激に飢 えたローマ市民の耳を喜ばせ、多少馴れ合いの気のある獣人らの耳をそば立たせ るには充分な報せです。おまけに、そのマンモスガウルは、生れつき人間の手を 持っていたというから驚きです。チキチータにしても、セレンゲティにしても、 その手で物を掴むようになる為に、どれだけ努力したか判りません。マンモスガ ウルは、最初からその苦労がないのです。獣人に取って、この事がどれだけ有利 に働くかは考えるまでもありません。その角と、人間の腕で、マンモスガウルは 緒戦から連勝を飾りました。巨大なナイルワニの喉笛に角を引っ掻け、投げ飛ば した事もあります。気の立った発情キリンの首を小脇に抱え、足払いを喰わせる 事もできます。何と言っても、今も語り継がれる大金星は、その曲がった角にア フリカ象の牙を引っ掻け、へし折ってしまった事です。象こそ最強、という神話 が崩れた事に、満座は拍手を送ったものです。こんな話を聞いて、軍神の名を欲 しいままにするエレファンティスが冷静でいられる訳がありません。
「野性の象と、獣人の象とは違うという所を見せてやる」
 こう言って彼は腕を組み、鼻を上げます。ムロウスタスもまた息巻いています。
「かねてから疑問に思っていたのは、犀の突進と河馬の突進と、どちらが強いか という事だ。それは相手が水牛とて同じ事。はっきりさせてやる」
 ふたりとも、もう眼の前にマンモスガウルを迎えているかのようです。セレン ゲティも負けてはいません。
「水牛など、ライオンの献立の一番上に載っている奴よ。味もまた格別」
 と言って舌をぺろりとやります。ライオンが言うのだから、説得力があります。 ほかの二頭は草食獣だもので、心臓が凍り付くような思いがしました。
 チキチータもまた、まだ見ぬ敵に思いを馳せました。チキチータはコロシアム で最高の試合を見せる。という巷の噂も併せて、マンモスガウルを迎え撃つのは 自分になるかも知れないと思いました。水牛殺しの技は、偉大な母親から伝授さ れています。その母親の名を広める為にも、ぜひ勝ち星をと願うチキチータです。
 四人とも闘争心に火を付けられた形ですが、思わず知らず、世界を巻き込む災 厄に備えていたのです。マンモスガウルはその名の通り、インドの出身です。イ ンドで牛は聖獣と崇められ、大切に扱われています。その彼が、西の帝国で見た ものは何だったでしょうか。鞭打たれ、使役され、切り割かれ、喰い尽くされる 同胞の姿。その野心は、個人的なものから、世界アニマル革命へと発展しました。 インドでは牛は聖獣、この事実を世界に伝えるのです。マンモスガウルは、牛や 馬と話す事ができます。ヨーロッパやアフリカの牛が、この事実を知ったらどう するでしょうか。みな、群を為してインドを目指すに違いありません。インドで 扱いが良いのは牛に限りません。馬、豚、犬、猿、蛇、みんな扱いが良いのです。 農耕や交通を牛馬に頼る古代世界で、牛馬の大移動を許せば、文明は消滅します。 マンモスガウルはアレキサンドリアで連勝を重ねています。その周辺ですでに牛 の暴動があり、飢饉を招いているのです。

 その日も、獣人の仕事は、行列を組んで、威容を示すだけで終わりました。新 たな強敵の噂にチキチータは、深酒もせず、かっ払いもせず、早々と宿舎に引き 上げます。とある邸宅の門が開き、中から厳かな光が漏れます。気になったチキ チータは、門を開き、中を覗きました。そこは、キリスト教徒の集会所です。折 りしも、賛美歌が終わって、教父が壇上に立ち、説教を始めるところです。チキ チータは中に入り、それを聞きました。

「十デナリから六デナリを引くと、四デナリである。
 四デナリに三デナリを足すと、七デナリである。」

 チキチータの頭に、稲妻がひらめきました。これこそ、真実です。ここに自分 の未来があるという直感です。会場のおごそかな雰囲気にも構わず、武骨な身な りをも顧みず、チキチータは祭壇に駆け出しました。そして、教父の手を握りし めたのです。
「神父さん、あっしに教えて下せえ。これこそ、あっしが探し求めてきた教義な んでさ」
 この熱心な信徒に、神父は落ち着いたものです。
「仔羊よ、神はそなたを見そなわしておられる」
 肉食獣に向かって、仔羊なんて言うので、会衆の中には噴き出してしまう人も いました。しかし、チキチータは教会入りを許されたのです。その日から、連日 の、教会通いが始まりました。雨の日は四つん這いになり、俊足を使っての教会 通いです。若者の恋のようなのぼせ振りに、教会はまたたびでも使ったのかとさ さやく人もあったくらいです。実は、チキチータは算数を習っていたのです。し かし、人はそうは思いませんでした。花形剣闘士までが、キリストの門を叩いた と思い、感心したのです。











受難




 カピトリヌス宮では、二十人の財務官が鳩首していました。当時、帝国の財政 は逼迫していました。辺境守備隊の軍事費に加え、連日の催しの為に貴族も皇帝 も私費を投じているほどです。属州の税金を上げれば、反乱を誘発するという次 第で、身動きが取れません。手も足も出せないのです。
 財務官カセナイカが窮状を訴えると、カサナイヨが軍隊給与が未払いである事 を伝えます。カネカエセオが増税を提案すると、それは商業を停滞させると反対 したのは、キャッシュオです。
 袖を振っても一文も出てこないし、市民は働かないし、属州は剣を挙げて蜂起 寸前です。上機嫌の皇帝は財布が空である事に気付いていないし、誰も気付かせ てくれません。これはもう、暗黒時代の再来です。有力な貴族を陥れて、財産を 没収するのです。窮余の一策としてひねり出されたのは、剣闘士の演し物を有料 にするという案です。
 古来、これは皇帝や貴族の振る舞いとして催されたものです。年々、競技は多 様化し、派手になり、負担はます一方です。それでいて、市民はこれなしでは過 ごせません。では、僅かでも代価を頂戴しようというのは当然の意見です。財務 官はこの案で一致し、元老院もこれを承認しました。
 ローマ帝国史上、始めて、有料の剣闘競技が催される事となりました。入場料 は、庶民が1アス、貴族が1セステルティウスです。これでも、五万の観客を見 込めば、金貨は山積みです。
 設備も、野獣の増員もなしに、内容を濃くするには、現場の剣闘士に頑張って 貰うしかありません。特に、活躍が期待されたのは獣人剣闘士です。今までのよ うな用心棒扱いでは済みません。真価を発揮する事が求められたのです。

 その日のコロシアムは、普段にも増しての盛況でした。金を取るからには、い つもより良いものが見られるだろうと、客が詰め掛けたのです。入場門の奴隷は 大わらわで、小銭が溢れ返っています。この盛況に、財務官らは、どうしてもっ と早くこれをしなかったのかと首を傾げたほどです。
 控え室では、デキウス・ゲロッパが獣人剣闘士らを激励していました。有料の 競技という事で、興行師にも増額が約束されたのです。はたして客が来るかと不 安はありましたが、蓋をあけて見れば満員御礼。これはもう将来が約束されたも 同然と、朝から祝い酒を飲み、顔を真っ赤にして上機嫌です。チキチータを期待 の星と呼び、セレンゲティを次期皇帝と讃えます。彼はもうすっかり、出来上がっ ていたのです。
 昼になりました、獣人剣闘士の出番です。チキチータとセレンゲティはいつも 通り門を出て、砂上の特別席に座りました。不思議な事に、草食の二大巨頭の姿 がありません。
 東側の門に、華やかな近衛兵が整列します。高らかならっぱの吹奏に先導され、 エレファンティスが雄叫びを上げての入場行進です。

 パーン、パーン、
  フォフォー、フォ−!
 パーン、パーン、
  フォフォー、フォ−!

 砂場の真ん中に立ったエレファンティスの前に、さっそく一本の丸太が引き出 されます。エレファンティスは両手で十字を切り、片足を上げ、見事、その丸太 をへし折ってしまいました。人間では到底、折ることも傷付けることも適わない ような、ひと抱えもある丸太です。会場がどよめきに包まれます。しかし、こん な事はまだ序の口なのです。
 ついで、台車に載せて引き出されたのは、縦にした丸太です。枝葉が付いてな いだけの、まったくの樅の原木です。これをどうしようと言うのでしょうか。エ レファンティスはまたも十字を切り、大きくかぶりを振ります。まさか、手刀で これを割る? エレファンティスが使ったのは、その牙です。力任せに降ろした 牙が、丸太のてっぺんに裂け目を入れます。牙を突き刺して裂け目を拡げ、もう いちど牙を振り降ろせば、何と、その原木は竹のように縦に引き裂かれたではあ りませんか。嵐に揉まれ、雷に撃たれた巨木のように、縦の繊維を残しながら上 下に真っ二つです。さらに、荒れ狂ったエレファンティスは、そいつをへし折り、 四つに畳み、細切れにして鼻の先で踊らせます。まるで、コロシアムに台風が来 たかのようです。獣人剣闘士は、その気になれば、こんな超自然な力まで出せる のです。改めて、人はその力に畏れ入りました。飾り物ではない。いやむしろ、 温和しくしていて貰いたいとさえ願いました。
 最後に、エレファンティスの前に引き出されたのは石板です。当時、帝国の布 告や条例は、石板や銅板に刻んで属州に配られたものです。これも、そのひとつ です。
 午前の象の催しの際、この石板を象に踏ませたのです。しかし、壊れませんで した。象が踏んでも壊れない石板を、エレファンティスに踏ませたらどうなるか。 興味の持たれる所です。エレファンティスはまたも十字を切り、片足を上げまし た。そして、全体重を乗せて、石板を踏み付けたのです。石板は、壊れませんで した。エレファンティスだって、象です。象が踏んでも壊れない石板を、エレファ ンティスが踏んで壊れる訳がありません。場内から失笑が漏れました。しかし、 エレファンティスは誇り高き獣人剣闘士です。彼には、力に加えて技があります。 もう一度、気合を入れ、十字を切るエレファンティス。次の瞬間、コロシアムの 群衆は、象が空を飛ぶのを見ました。大地そのもの、大地と一体化しているかの ような象が、天上の神々の牽引でもあったものか、見事、宙に踊ったのです。着 地したエレファンティスの足元には、小さな土煙が舞いました。それよりも驚い たのは、伴った地響きです。東の大国ペルシヤから大砲でも撃ち込まれかと思う ほど、轟音でした。石板は、見事に砕けていました。跡も残りません。象が踏ん でも壊れない石板を、エレファンティスはみごと壊したのです。
 またしてもらっぱの音、またしても象の雄叫び。コロシアムは興奮と喝采に沸 きました。これだけでも、見た甲斐があるというものです。

 群衆のさんざめきは、いつまでも納まりません。そんな場内に、太鼓の音がと どろきます。さっきの吹奏とは異なり、今度は打楽器です。大太鼓が規則正しく、 二拍子を刻みます。あくまでも、一本調子の二拍子です。誰だって、膝を上げ、 手を振らずにはいられません。勇壮な太鼓に導かれて登場するのは、生まれつき 軍装も逞しいムロウスタスです。
 数ある獣人の中で、彼は歌もうたえます。犀はオウムに似て、発声が豊かです。 大きな口を開けば、朗々たる声は、喧噪を押し退けてコロシアムの外にまで響き ます。

 ♪ 勝つと思うな、思えば負けよ。

 これは、ローマ軍兵士の心得をうたった歌です。彼らはひとつの街を攻略する のにも慎重です。要塞を築き、掘りを抜き、攻城用の櫓を組みます。どんな蛮族 を攻めるにしても、簡単に勝たして貰えるとは思わない。それが勝機を掴むこつ だと教える歌です。作詞は、ユリウス・カエサルと伝えられます。

 ♪ 負けてもともと、この胸の、

 ローマも元を正せば、小さな都市国家に過ぎません。それが、周辺のラテン諸 国を従え、マケドニアを従え、シリア、ガリアと領土を拡げたのです。敗北は怖 くありません、元の都市国家に戻れば済む事です。むしろ、挑発や侵略を忍び、 帝国の威信を傷付ける事のほうを恐れるのです。その気概を込めた歌です。

 ♪ 奥にぃ、生きぃてる、柔の夢が、いぃぃっしょうおぅ一度ぅおぅ、一生一度ぅ 、おぅおぅおぅ〜、おぅおぅおぅ〜。

 歌うムロウスタスの顔は、このまま神殿に飾りたいと思うほどの神々しさを帯 びます。カエサルやスキピオの胸像に並べても遜色のない顔で、見事なバリトン を聴かせるのです。聴衆は涙を流し、やんやの喝采です。禿頭の議員は万歳と叫 び、婦人は頬を濡らしてハンカチを振ります。神殿にこそふさわしい威容のムロ ウスタスが、帝国を讃える歌をうたい、皆の心をひとつにしたのです。感きわま るのも無理はないのです。
 そもそも、象やライオンと比べて、犀の顔は造形的に見事です。そこには、哲 学と深慮があります。さらに、勇気の象徴たる角。ローマの由緒ある人々に、好 かれる条件は揃っているのです。
 ムロウスタスはその人気を見込まれて、財務官の選任に当たり、投票所で客よ せを勤めた経験があります。「投票は国民の義務です」と書いた札を持って立っ ているだけなのですが、その年の選挙は盛況で、元老院も大いに面目を施したと の事です。
 太鼓の音は止み、ムロウスタスも砂場中央を睨んで立ちます。そこに引き出さ れたのは、畳です。インド、ペルシアを通して、ローマにも畳が持たらされたの です。当時のローマ市民は、従来の固苦しい住まいを捨てて、異国風の、より快 適な様式を求めていました。畳は、地中海の気候にぴったりです。ポンペイ遺跡 からも、六畳間、四畳半が出土しています。
 野性の犀の突進が、畳二枚をぶち抜いたという記録があります。ムロウスタス の前に引き出されたのは、畳が三枚です。これを破らねばなりません。
 ムロウスタスは二本足で立ったまま、前傾姿勢を取ります。二本足での突進は、 やはり不利です。しかし、彼にはそれを上回る、岩をも砕く角と、狼をも見切る 眼とがあります。巨体をものともせぬ、少年のような疾走。畳にぶつかる直前、 彼は大地を蹴りました。人間なら、肩からタックルするでしょう。彼はその全体 重を、おのが自負たる角にかけます。二枚の畳は大破、最後の畳は大きく破れ、 その中では、ムロウスタスが肩を落とした姿勢で威儀を正しています。これぞ、 ローマの忠臣。万雷の拍手と、惜しみない賛辞が注がれます。
 ついで、ムロウスタスの前に引き出されたのは、畳が四枚です。これはもう無 理です、さっきので限界です。ムロウスタスは仕方なく、地面に片手を着きます。 ここから走れば、四つ足での走行も少しは様になるだろうとの配慮です。獣人と してのプライドをかなぐり捨てての突進。セレンゲティは思わず、眼をつぶりま した。彼は、仲間が四つん這いになるのを極端に嫌うのです。ここは、実を取る べきです。その突進は見事、四枚の畳を八枚にして、木の葉のように吹き飛ばし ました。これを御覧になった皇后陛下は、四枚が八枚と喜んでおられました。
 またしても、太鼓の音。その間に、畳の残骸が片付けられます。歌をせがまれ ているような気がしたムロウスタスは、今しも屠った畳を何かに喩えて歌おうか と思いましたが、そういう段取りではありませんでした。
 太鼓の音が止みます。ファンファーレとともに、東西の門に現れたのは、四頭 立ての馬に引かれたチャリオッツです。これと競争しろと言うのです。
 ムロウスタスは躊躇せず、四つ足で突進しました。同じ砂場で見ているセレン ゲティは、眼を覆います。彼はよっぽど、仲間が足を着くのを見たくないようで す。しかし、ムロウスタスは足を着いても、威厳は損なわれません。地に着いて こそ、戦車ですから。
 チャリオッツを引いているのは馬です。馬と犀では、勝負になりません。しか し、二台の戦車が砂場の回りを走るのに対して、ムロウスタスには真ん中を横切 る事が許されています。ローマ騎士が操る戦車に、瞬く間に肉薄するムロウスタ ス。肩を並べたと思えば、戦車は大破。騎士は弾き飛ばされ、主を失った馬は散 りぢりに駆けてゆきます。またしても、獣人剣闘士の底力が発揮されました。一 瞬で、意匠を施した戦車は砕け散ったのです。
 戦車はもう一台あります。周回遅れながら、それと肩を並べたムロウスタス。 さっきの騎士は弾け飛んだから助かったものの、戦車と一緒に寄り潰されたら、 まず命はありません。御者の身こそ、危ぶまれるのです。ムロウスタスは、その 空気を読みました。背後から近付いた馬車と並ぶと、彼は遅れるのも構わず、立 ち上がりました。何という茶目っ気でしょう、馬を相手に立って走るとは。そし て御台に手をかけるや、そこに飛び乗ります。御者はもう、座布団のようなもの です。たまらず、彼は押し出されてしまいました。
 手綱を取るムロウスタスの勇姿に、観衆はやんやの喝采を送ります。戦車を壊 すよりは、乗っとる方がスマートな勝ち方です。ムロウスタスは腰も降ろさず、 立った姿勢で馬を御します。その神々しい姿は、かつて共和国時代にこんな将軍 がいた筈だと思わせるほどです。
 左の手綱を締め、右の手綱を緩めて、難なくカーブを切ります。馬に任せてい たら、戦車は柵に叩き付けられて大破です。見事な御者ぶりに、また拍手が起こ ります。何周も砂場を回って、得意絶頂のムロウスタス。中央に戦車を止めて、 手を上げて喝采に応えます。この重量級の御者に、戦車の車軸はぐらぐらで、外 れる寸前でした。
 戦車、櫂船、神殿など、文明の利器に寄ると、ムロウスタスの威容は一段と映 えます。理性と寛容さとが、強調されるのです。軍楽隊が近付いて、退場を促し ます。またしても、一本調子の二拍子。花びらやハンカチの舞う中を、哲人剣闘 士は悠々と退場します。

「さあ、そろそろ行って来るか」
 チキチータの隣で、セレンゲティが身を起こします。あまりの見物に、すっか り自分の出番があるのを忘れていた二人です。
 中央では、戦いの場が整っています。剣闘では、獣人剣闘士にかなう人はいま せん。その振り降ろす力は、一撃で人をかち割ってしまいます。冗談抜きで、肩 から腰まで一刀のもとに切り裂いてしまうのです。重量級の三獣人の一撃は、雷 のごとし。スピードさえ除けば、軽量のチキチータでやっと人間の相手が勤まる か、というくらいなのです。
 では、ボクシングではどうかと、興味の持たれる所です。ボクシング、レスリ ング、パンクラチオンは、古来より剣闘競技と並んで催されて来ました。獣人剣 闘士が爪や牙を使わずに、素手で人間と取っ組み合いをすれば、面白い見世物に なりそうです。
 舞台が整いました。砂場は踏み固められ、まわりを人が囲みます。中央にせり 上がって来たのは、エジプト重量級選手スフィンクスです。
 背丈は2mを越え、胸板も厚く、まるでセレンゲティの人間版です。充分に張 り合えます。彼は無冠の帝王です。ローマ、ヒスパニア、カッパドキア、どこの チャンピオンもみな取り組みを嫌がります。仕方なく彼は、熊や牛を殴り殺して いるのです。
 たまに、敗残奴隷が餌食として引き出されて来る事があります。スフィンクス は相手を叩きのめした後、エジプト王家の伝説の守護神よろしく、謎々を出して、 答えられなかったら遠慮なく殴り殺してしまいます。今まで、彼に勝てた者はな く、謎々に答えられた者もいません。詳細は不明ですが、謎々は次のようなもの だと推測されています。
 朝はもやし、昼はジャングル、夜は枯れすすき、それは何。これは、難しい質 問です。ほとんど、死刑宣告に等しいものです。特に、この時代のローマ人には 答えにくいものです。
 さて、東門に、セレンゲティが姿を現しました。もちろん、鼓笛隊は場を盛り 上げます。赤いマントを翻して捨てると、そこにあるのは腰巻き一枚の姿です。 人前に肌を晒すのを極度に嫌うセレンゲティにとって、これは屈辱の筈です。肌 を晒すほど、動物らしさが出ます。しかし、その逞しく盛り上がった胸板、発達 した肩は動物ばなれして、やはり神に近い何者かと思わせるのです。
 両者は中央で睨み合いました。立ち会い人が間に入ります。セレンゲティは、 爪を使ってはならないと厳重に注意を受けます。もちろん、セレンゲティとて、 それは望む所ではありません。爪で流血沙汰を起こすなんて、それは彼の美意識 に反する事です。しかし、今日は裸を見られて機嫌が良くないようです。
 セレンゲティは試合巧者です。相手の良いところも充分に引き出して、自身を、 剣を落とすくらいの崖っ縁に追い詰めて、そこから逆転して勝利を掴みます。今 日も良い試合を見せてくれるでしょう。
 銅羅の音が鳴りました。試合開始です。スフィンクスとセレンゲティが向かい 合います。どちらも、山のような大男です。離れていても、それは判ります。ヘ ラクレスの柱と、アトラスの柱の睨み合い。これだけでも、来た甲斐があったと いうものです。
 序盤から、スフィンクスの猛攻です。間合いさえ掴めば、あとは攻撃しながら、 相手のダメージへの耐性を計るのみです。胸板と、みぞ落ちとを問わず、メガト ンパンチを打ち込みます。セレンゲティは、それを手で制するのみ。一方的に打 たれまくっています。
 調子に乗るなよ、という意味でしょうか。ひと息ついたスフィンクスの顔へ、 セレンゲティが腕を伸ばしました。そのストレートは、形にさえなっていません。 微弱な力さえ宿っていません。セレンゲティの腕は何と、ストレートを打てる腕 ではなかったのです。
 これはどうなるか判りません。興味津々です。しかし、次の出番はチキチータ です。随人として控えるタンゴはそれを心配します。
「チキチータ、そろそろ用意した方が良いんじゃないか」
「遅れても良いよ。俺はこの試合を見届けたいんだ」
 チキチータが仲間にささやいたその時です。コロシアムは一斉にうなりを上げ ました。不意に大雨でも降ったような、火山でも爆発したかのような、いきなり の歓声。驚いて、ふり向いた闘技場には、セレンゲティひとりの姿しかありませ ん。この獣人とともに、高々と天を支えていたもう一人の巨人はどうしたのでしょ う。
 探せば何と、セレンゲティの影になって長々と横たわっています。動きません。 いったい、何があったのでしょう。確かに、セレンゲティはストレートを使う事 ができません。その代わり、人間にはとても真似のできない技、上段から打ち降 ろす縦フックという技があったのです。それは、落下する岩に等しい衝撃を人に 与えました。約束通り、セレンゲティは爪を使いません。しかし、倒れたスフィ ンクスの頭頂を見ると、判で押したように、真っ黒に手形の跡が残っているので す。それは、見るみる膨らんでゆきます。生きているのか、死んでいるのかも判 りません。残酷なものを見馴れたコロシアムの観客も、得体の知れない死に方で 人が亡くなるのは見たくないものです。生死も判らぬスフィンクスの身は、早々 と担架に乗せて運び去られました。
 91秒、試合開始から91秒の出来事です。またしても獣人剣闘士の底力を思 い知らされました。まるで天災の被害を見るように、どうしようもない無力感が あります。獣人の力は、地震や火山、崖くずれに等しいのです。
 これも、セレンゲティの計算です。生意気に素手で向かってくる相手には、瞬 殺が有効と読んだのです。おまけに、相手はエジプト属州の出身。たいした名門 のお抱えという訳ではありません。そこまで考えています。
 セレンゲティはマントを羽織り、きっちりボタンまで止めます。人間らしく威 儀を正した彼は、皇帝席に向かって手を伸ばします。圧倒的な力も、あっけない 幕切れも、すべては帝国の権威に捧げられたのです。ここで始めて、観客が声を 上げます。半神のごとき力が、皇帝と元老院に忠誠を捧げたのです。これでもう、 世界は我が手のもの。ローマ市民が地球の主となった快感に酔いしれる瞬間です。 内心、ここでこの獣が暴れ出したらどうしようかと、不安に怯えていたのです。
 この世紀の一瞬を見逃した事につき、タンゴは詫びを入れますが、チキチータ は苦笑するばかりです。さあ、次はいよいよチキチータの出番です。

 軍装を整えたチキチータが門に立つと、敵はすでに砂場中央に控えていました。 今回の敵は、七人です。
 ひときわ背の高い投げ網剣闘士を中心に、セクトール、スキッソール、ムルミ ロ剣闘士、クワガタ剣闘士、トラキア剣闘士、さらに女剣闘士までがいます。
 長身で浅黒い肌の投げ網剣闘士は、どこかタンゴを思わせます。タンゴよりも 手ごわそうです。おまけに、頭に羽根飾りを付けています。
 セクトールは、チキチータと同じタイプの剣闘士です。右手に剣、左手に小楯 を持ち、中背で、すばしっこそうな眼をしています。一対一でも、良い勝負がで きそうです。
 スキッソールは、右手に剣、左手に丸剣を持ち、身を守る道具を持ちません。 もっぱら攻めに終始して、傷の絶えない剣闘士です。楯がなく、ストレスが強い せいか、彼らはいつも水筒に酒を入れて持ち歩き、試合前にそれを煽ります。こ こに居るスキッソールもべろべろに酔っていて、少々の怪我は屁でもないようで す。
 ムルミロ剣闘士は、魚を象意とします。地中海の主ぼらを形どったもので、羽 根飾りの付いた兜は背びれを表します。剣や大楯にも、貝や魚の彫刻が施され見 応えがあります。体中に油を塗り、ぎとぎとの姿で、今しも陸揚げされたばかり という風です。
 クワガタ剣闘士は、昆虫を象意とします。クワガタの付いた兜を被った鎧武者 です。左手に六角楯を持ちますが、時にその楯を肩にかけ、四本の短剣を左手の 指に挟んで、昆虫のような攻撃を仕掛ける事もあります。
 トラキア剣闘士は、半月刀を持った異国風の剣士です。馬に乗って戦う事もあ りますが、今日は地に立って、独特の剣さばきを見せます。風車のように右に左 に振り回したり、剣を突き出したまま竜巻のように回転する、そんな技を使いま す。
 女剣闘士はまだ若く、戦い馴れない様子です。この時代、帝国は女性には極め て甘い寛容政策を取っていました。処女は何をしても、罪に問わないという法律 があったくらいです。後にこれが曲解され、だったら処女でなくせば良いんだろ うとばかりに、これを犯し、しかる後に刑に処すという陋習が起こったのは、法 の精神が忘れられた為です。この時代はまだ、女性には寛容でした。女剣闘士も、 貴婦人が用いるのと同じ肌着で胸を隠し、さらに、神殿聖女が着るようなもっと もらしい衣裳を羽織って、ここに立ちます。女剣闘士が怪我でもすれば、貴族や 元老院議員の邸宅で、その傷が癒えるまでゆっくり養生する事が許されていたの です。
 銅羅の音が鳴ります。チキチータはまず、投げ網を挑発します。三つ又鉾を両 手で持たれたのでは、話になりません。敵が鉾を片手に、網を投げた所から、チ キチータの早業が展開されるのです。敵は投げ網剣闘士を中心に、陣を狭めます。 こちらの望み通り。まるで、チキチータには剣闘の神様が付いているかのような 試合運びです。
 左右から、セクトールとクワガタが近付きます。至近距離まで来て、彼らは何 を思ったのか、その武器を投げ捨ててしまいました。チキチータが得意技をお見 舞したのではありません。自分から、剣と楯とを捨てたのです。そして、空になっ た両手で、チキチータの肩をぐっと掴みます。
 これは反則です。身動きがとれません。これはチキチータの試合だというのに、 こんな非道が許されて良いのでしょうか。しかし、彼らとても、命を賭けた剣闘 士です。たとえ反則でも、数にものを言わせても、チキチータほどの花形剣闘士 をへこませてやれば、おとなしく殊勲を譲るよりは自慢になります。少なくとも、 仲間内では、良い根性だと褒めて貰えます。
 さあ、三つ又鉾がチキチータの鼻先に突き出されました。動けません。ここで 降参なのでしょうか。しかし、チキチータとてポルトビルで大立ち回りをやらか した野性児です。反則で潰されるような優等生ではありません。両足で大地を蹴 るや、眼前の鉾を蹴り上げ、そのまま後ろへ宙返り。梃子の原理で腕をふりほど きます。
 千鳥足で地面をさまよう三つ又鉾に足をかけ、とんとんと登ってゆくと、長身 の顎に蹴りを入れて宙返り、もう一度、蹴りを入れて宙返り。これで、投げ網剣 闘士は倒れてしまいました。あとは、馴れた早業。ムルミロ、トラキア、スキッ ソールは、たまらず得物を落とします。セクトール、クワガタの捨てた得物は、 拾おうとした眼の前で、触れてもいないのに回転して逃れてゆきます。チキチー タはぬからず、蹴り飛ばしたのです。
 頭を抱えて立ち上がった投げ網剣闘士の喉元へ、チキチータは剣をつき付けま す。そして奪った投げ網を、ひとり残った女剣闘士の頭上へ。網に絡まれた娘は、 網目からなおも剣を振り回しながらも、足を絡ませて倒れます。
 喉に光る刃をつき付けられた剣闘士は動けず、得物を失って丸腰のほかの剣闘 士も動けません。チキチータの勝利が確定したのです。喝采の嵐、花びらやハン カチが、惜しげもなく砂場に投げ込まれます。チキチータは敵を起こし、セレン ゲティの真似をして、皇帝席に恭順の意を示します。またしても、歓声の嵐。あ んな奴が軍にいたら、実戦では役に立たないとしても、宿営所では退屈する事な しだと笑う人がいます。いやいや、あの早業は万軍に勝ると、褒める人もいます。 とにかく、みんな上機嫌なのです。こんなに強い奴がいるという事が、人を嬉し がらせてしまうのです。

 ひと仕事を終えたチキチータは、いつもの特別席に帰ります。タンゴがねぎら い、ジルバがマントを掛けます。その姿はもう、立派な将軍です。あとはゆっく り、観客と一緒になって試合を楽しんでいれば良いのです。
 昼からは、人間の出番です。剣闘、ボクシング、レスリング、パンクラチオン が催されます。しかし、一匹だけ残った野獣がいました。それは、黒豹です。黒 豹が捕まるなんて、珍しい事です。かの執政官ガイウス・パンサーも黒豹であっ たと言います。こんな珍しい物を出さない訳にはいきません。昼過ぎだというの に、檻が中央にせり上がりました。
 実は、黒豹というのは偽りで、その正体はチーターなのです。わざわざ花形剣 闘士を刺激する事はあるまいと、チーターをタールで黒く塗って、黒豹に仕立て たのです。出番が遅れたのは、その為です。たださえチキチータは動物虐待には うるさいのだし、これ以上刺激してくれるなと、ゲロッパからの強い申し出を受 けての処置です。
 檻から出された黒豹はよぼよぼで、弱りきっています。黒豹にしても、チータ ーにしても、この種族で人間に捕まる奴は、よっぽど年寄りで、どん臭くて、腹 を空かせていたに違いありません。おまけに、タールが眼に染みて、その刺激臭 が鼻を突いて、眼も、鼻も利かないかのようです。いきなり眩しい外界に引き出 されて、ただおろおろするばかり。相手を努めるのは、先ほどの好青年のセクト ールです。
 特別席ではタンゴがささやきます。
「あれは、チーターを黒く塗ったものだそうだよ」
 それは、本当のようです。全身の毛並が油でべたついて、まるで病気にでも罹っ たかのようです。
「いや、あれは黒豹だよ」
 チキチータは一蹴します。あんまりみっともないので、仲間と思われたくない のです。
 砂場では、セクトールが距離を詰めます。野獣が相手では、槍を持って戦うの が常ですが、豹ほどの小兵に槍では無粋です。セクトールは、剣と小楯での戦い を強いられます。
 弱っているとは言え、瞬発力はあります。まわりすべてを敵にして、うなりを 上げる野獣。うかつに近付けば、コブラのように躍りかかるでしょう。セクトー ルも攻めあぐねまずが、敵はどうやら盲のようです。タールが眼にしみて、見え ないのです。ならばと、太陽を背にして近付くセクトールです。
 相手の威嚇は、四方八方かまわずに向けられています。隙をついて、首筋に剣 を見舞います。そいつは外れて、肩にざっくりと傷を負わせました。しかし、セ クトールも足をやられました。手負いの獣は、ますます唸り声を上げます。
 チキチータが席を立ちます。手に負えなくなった獣に、スマートに止めを刺せ るのは彼しかいないのです。これが人間だと、多勢で囲んで見苦しく屠殺する事 になり、後味もよくありません。チキチータは素早く、相手に苦痛も与えずに止 めを刺せるので、それがまた人気を呼ぶのです。
 チキチータは立って、哀れな黒豹を見おろします。どす黒く汚れ、疲れ果て、 苦痛に歪んでいますが、その顔形には見覚えがあります。黒豹もまた、タールが しみ、眩しすぎる視界の中で、懐かしい顔を認めました。そう、そこに引き出さ れたのは、パンヤだったのです。

 彼女はなぜここに居るのでしょう。やはり、血を分けた息子が、ここへ呼び寄 せたのでしょうか。
 チキチータと、テリーとを育て上げたパンヤは、もう老境に達していました。 今さら男に振り回されるのは真っ平だと、気ままな独り暮らしを楽しみます。自 分の腹を満たすだけなら、殺生も少なくて済みます。時間を持て余した彼女は、 ネコ族の聖地キリマンジャロ詣でを思い立ちました。ここは聖獣パンジャが、す べての動物に号令を下した地として知られています。ライオンとチーターとの違 いはありますが、女ながら似たような名を頂いて、キリマンジャロを見ずには死 ねません。
 どこまでも、サバンナは続きます。ヌーの大群や、シマウマの群はどこにも居 ますが、土地を離れると、連中の模様も変わるというのは、ちょっとした驚きで した。
 ジャングルや渓谷を眼にして、パンヤは心の洗われる思いがしました。最後の 一年で、今までの一生分の見聞を広めているんじゃないか、そう思えたのです。 ジャングルに住んでいたら、自分も豹のように樹に飛び付いたかも知れません。 渓谷で、あちこちに姿を見せる岩ねずみを追っていたら、子育ても楽だったでしょ う。やがて彼女は眼にしたのです。地平線に、青く霞むキリマンジャロの姿を。
 遠くから眺めてこそ聖地です。しかし、踵を返すのも惜しまれます。パンヤは それまで通り歩みを進めます。
 近付くほど、キリマンジャロは威容を増します。大地は傾き、山頂へとなびき、 その頂上は青天の上に突き抜けているのです。
 遠くから見れば、白衣をまとって青く霞むだけの山ですが、麓に来てみれば、 けっこう賑やかです。ジャングルがあり、草原があり、何よりも清流があるので、 多くの動物を惹き付けます。
 岩間を洗って流れる川、広い窪地にどよめく滝、こんな光景はパンヤは始めて です。急峻に迫る森のすそを、小鹿が飛びはねています。まるで、極楽に歌う天 使、花園に舞う蝶のようです。美しすぎる情景ですが、小腹が空いてきました。 背に腹は替えられません。馴れぬチーターを恐れず、無心に草をはむ小鹿に狙い を付けます。
 丘の向こうから、一頭の雌ライオンが姿を現しました。厄介だな、とパンヤは 思いました。しかし、その雌ライオンは臆する様子もなく、小鹿のすぐ脇を通り すぎ、ゆっくり近付いて来ます。
「あんな子供を狙っちゃ駄目じゃないの。昨日片付けた水牛の残りがあるわ、い らっしゃい」
 信じられない事です。パンヤは、眼を丸くするばかりです。さらに、丘の向こ うから、若い雄ライオンが姿を現します。そいつはパンヤを見て、うなりを上げ ました。
「母さん、母さんじゃないか」
 言われてパンヤも、その猛獣の中に懐かしい面影を認めました。
「テリー、テリーなのかい」
 さっきの雌ライオンが、宝石のような眼でパンヤを見直します。そして、テリ ーが近付くよりも先に、パンヤの頬を舌でねぶるのです。
 旅の老婦人は、王者の一族に暖かく迎えられました。そして、野性動物には考 えられないほどの、至高の持てなしを受けたのです。
 ローザ、ダイヤ、ゴーディの三人の嫁が、代わるがわる肩を揉んだり、毛繕い をしたりします。食事の時も、パンヤが口を付けるまで待ってくれるのです。
「お母さま、ぜひこの肝臓のところを召し上がって下さいな」
「今日は獲物が少ないので、ヤマアラシで辛抱して下さいね。でも、とげは私ど もの手で抜いて置きましたから」
 等と、嬉しい事を言ってくれるのです。ここで豊かな暮らしをするにつけ、思 い出されるのはチキチータの事です。あの子は中途半端で放り出したんじゃない かと、それが悔やまれます。風の便りで聞くのは、チキチータは獣人となって、 ローマへ旅立ったとの事です。コウノトリや雁が、そういう噂を伝えるのです。
 日増しに募る、チキチータへの思い。それを、テリーが宥めます。
「兄さんはうまくやっているよ。僕など、及びもつかない栄達を遂げたんだ。お まけに、人間世界の事は首を挟む事さえままならない」
 パンヤとて、誇り高き野獣です。自分の心のままに生きる権利があります。彼 女の意志は固く、親子の情を持ってしても、嫁たちの尊敬を持ってしても、動か す事はかないません。最後の夜、テリーは象をほふって別れの饗宴としました。 さらに、ゴリラに命じてパンヤの胸像を彫らせました。

 ナイルはアフリカの女神です。この豊かな流れに沿って、パンヤは北上します。 やがて、広大な砂漠が現れました。獲物は少なくなり、炎熱にやられて、体力が 衰えます。もう、息子に会う事はできないのかと、諦めがちな気分になります。 それでも、北上を続けるパンヤです。
 やがて、集落が現れました。人の集落は、野性動物にとっては忌まわしいもの です。煮ても焼いても喰えません。さればと、ほかの道を求めれば、ナイルから も離れて砂漠に迷いでます。たまに獲物を見かけりゃ柵の向こうで、人から昆棒 でもって追い立てられます。
 そんな時です。宙吊りになった鶏が羽根をばたつかせているのに出喰わしたの は。何やら、薮に脚を引っかけたようです。こんな旨い話はありません。鶏なん て、馬鹿な生き物です。そいつの鮮血をすすった時に、背後を閉ざされた事など、 パンヤは気付きませんでした。
 あとは、不安と嘆きの毎日です。船で大波に揺られた時など、いっそ首筋に牙 を貰って殺された方が楽だと思ったくらいです。それからも、移動と監獄の連続。 たまに明るい外界を拝んでも、格子が開いてくれる訳ではありません。最後はコ ロシアムの地下で、死臭のする岩壁との睨み合いです。
 午前中に、嘆きをともにする仲間はみな引き出されました。心細いところへ、 やって来たのは五人の荒くれ。首枷をはめ、床に押さえ付けて、タールを塗りた くります。眼も鼻もつぶれそうなまま、眩しい世界へ引き出されて、いきなりの 一撃。敵は倒しても、まだ仲間がいるようです。

 老いぼれた黒豹を見降ろし、チキチータはその正体を悟りました。黒豹の方も、 おぼつかない眼で、何とか相手の姿を見定めようとします。パンヤがそこに見た のは何だったでしょうか。もう会える事はないと思っていた息子の姿です。神は 最後に、願いを聞き届けてくれたのです。チキチータは膝を着きます。
「おっかさーん!」
 肩の傷は致命傷だったようです。だんだん、意識が遠のきます。でも、パンヤ は最後に息子の胸に抱かれたのです。
「チキチー太郎や」
 満座の観客は、静まり返っていました。何が起こっているのか、よく判りませ ん。でも、婦人たちは頬を濡らし、頑固な老人も喉を詰まらせます。判らないな りに、感動があります。どうやら、この動物は親子だったようです。自分たちは、 花形剣闘士に、母親殺しをさせてしまったのです。
 静寂は、嗚咽にかわりました。誰もが、このアフリカからやって来た獣人剣闘 士の身の上に同情したのです。思えば、惨たらしい事をしていました。午前中に 屠った獣にも、親や子はいた筈なんです。
 罪は、チキチータとて同じです。彼は今まで、どれほど多くの獣をその手で屠っ たでしょうか。あの桟橋に着いた時の気持ちが、正しかったのです。コロシアム の地下を掃除していた時が、正しかったのです。華やかな舞台に立ち、見苦しい 者を片付けているうち、心までが血で汚れ、すでに母なるアフリカを殺していた のです。
 チキチータは立ち上がりました。そして、皇帝に向かって剣を突きつけます。
「帝の御徳が、命ある者すべてに及ぶことを願う」
 叫ぶなり剣を閃めかせ、自分の踵に見舞います。腱を切ったのです。バランス を失い、片膝を着くチキチータ。もう、二本の足で立って歩くことは適いません。 われは獣であると、宣言したのです。
 この時、セレンゲティは近くに控えていました。彼は駆け寄り、チキチータを 抱き起こします。セレンゲティは、仲間が膝を着くのを嫌うのです。なんとか立 たせて、面目を保たねばなりません。チキチータは抵抗しますが、かないません。 彼はマントを剥ぎ取り、毛むくじゃらの、裸の姿を満天下に晒しました。
 二本足で立っているとは言え、裸の獣人の、なんと不格好な事でしょう。足は 短く、胴は長く、どう見ても人の仲間とは思えません。それはただの、大きな猫 です。チキチータは、獣として扱って貰いたがっているのです。
 コロシアムは、水を打ったように静まりました。名指しを受けたのは皇帝です。 この哀れな獣を救えるのは皇帝しかいないのです。
 観衆の顔が陽に映え、影になり、浜の真砂のように見えます。思えば客席もま た、壮観なものです。皇帝席で、動きがありました。砂粒のように小さな人間が、 席を立ちます。でも、彼は注目の的です。人は砂場でなければ、皇帝席を見ます。 彼こそは時の名君、ドレミファシウスです。
 先々代皇帝オキロの息子にして、先代皇帝ゲラゲラの弟でありながら、反乱鎮 圧にあたり立派に軍を指揮し、属州総督としては、荒廃した民心を立派に立ち直 らせた功績があります。
 人々はその功を讃え、帝の名が永遠に歌われるようにと、音階の名に奉りまし た。西洋音階はもともと、E、R、H、N、P、F、T、で表されるものです。 その前半部分に、ドレミファシウスの名を割り込ませたのです。後半部分に割り 込んだのは、後の暴君ソラシドゥスです。
 彼ならこの窮状を救ってくれるでしょう。万民が納得するかたちで、万民の罪 を拭ってくれるでしょう。皇帝は手を挙げて、チキチータの問いに答える意志の ある事を示しました。そして、回りの随人、執政官を掻き分けて、歩をすすめま す。御輿を降りれば、皇帝とて不器用な存在です。
 ゆっくりと、威容を正しながらも、皇帝は観客席の端まで来ました。そこに、 階段があります。今まで、一度も使われた事のない階段です。皇帝はためらわず、 階段を下りました。そして、砂場に足を着けたのです。
 だだっ広い闘技場に比べて、何と小さい存在でしょう。でも、ローマの意志を 体現するのは彼です。彼が口を開けば、ローマが動くのです。
 群衆はどよめきました。それは海鳴りよりも大きく、雷よりも高く響いたので、 周辺の鳥たちは飛び立ち、獣たちは一斉に森から飛び出した程です。帝が歩みを 進めるほどに、歓声は大きくなります。そして、彼らは連呼したのです。

 カエサル・アウグストゥス・インペラトル・ドレミファ!
 カエサル・アウグストゥス・インペラトル・ドレミファ!

 皇帝は、ふたりの獣人の近くにまで来ました。セレンゲティも、チキチータも、 凍り付いて動けません。これはよくある事です。下っ端の兵士は、皇帝の眼にか なう事を願いながら、いざ近くに来られると、しゃちほこばって何もできなくな るのです。前線でよく見られた光景です。帝は笑顔で、獣人どもの緊張をほぐし、 その肩を親しげに叩きます。
 感激にむせぶ、ふたりの獣人。皇帝はさらに、観衆に聞かせるべく、朗々たる 声で語ります。
「勇者チキチータよ、帝国の柱は勇者に支えられて立つ。そなたは私の兄弟、そ なたの母は私の母だ」
 皇帝が獣人を兄弟と呼ぶなんて。これは、キリストの教えです。帝はチキチー タを慰めるのみならず、キリスト教まで認めたのです。
 キリストの教えの中に、人と動物との調和を説いたものはありません。しかし、 その博愛は弟子によって動物にまで及ぼされます。聖ヒエロニムスは、荒野で呻 くライオンに近付き、その足から刺を抜いてやりました。この功により、聖ヒエ ロニムスの肖像にはいつもライオンが伴われて描かれます。
 何よりも、この時代、キリスト教は動物に優しい宗教として認知されていまし た。オリンポスの神々は、犠牲を求めます。ヤーウェの神も、犠牲を求めます。 ゾロアストロの神も、犠牲を求めます。ひとり、キリスト教だけが、犠牲を求め ないのです。鳥や獣は神によって清められたものとの教えもあって、人々は、キ リスト教と言えば、仔羊やロバにも優しい宗教と思っていたのです。
 皇帝が獣人に親しく口を利き、兄弟と呼ぶなんて、これはキリスト教以外の何 者でもないのです。セレンゲティやチキチータの眼差しに、うなづいて見せる皇 帝。この態度に、観衆はまたも声を上げます。
 非公認ながら、キリスト教徒の数は市の大半を数えていました。思えば、古代 宗教というのは単純なものです。ジュピターに成功を願い、マルスに勝利を願い、 ウェヌスに恋の成就を願う、神頼みでしかありません。何より、福祉という概念 が欠けています。人生上や、行政上の悩みは、キリストに問うた方がよく答えを 得られるのです。それは、皇帝も感じていた事です。彼はここで、キリスト教を 公認しようと思ったのです。
 皇帝はパンヤの亡き骸を両手に抱え、こう宣言しました。
「私はこれから、母の葬儀を行う」
 群衆の歓喜の、どれほど高まった事でしょう。もう隠れて祈りを捧げたり、迫 害を恐れたりせずに済むのです。彼らは今この場で、ホサナや、アレルヤと叫び たい気持ちに駆られましたが、さすがにそれは止めました。そしてやはり、皇帝 の名が連呼されたのです。
 遺体を抱いた皇帝が進み、獣人ふたりがそれに従おうとした時です。ひとりの 若い女が砂場に飛びおり、駆け寄って来ました。そして、自らのマントを脱ぐや、 それをチキチータの肩に掛けたのです。この感動の場面に、美しい乱入者の存在 は、人々の眼を喜ばせました。それは誰あろう、スヴェトラーナです。
 彼女はポルトビルの郊外でチキチータにひと目惚れして、ずっと後をつけて来 ていたのです。そしてこの地で、立派なクリスチャンの娘という評判を築いてい ました。チキチータが算数の勉強をしているのも、陰に隠れて笑って見ていたの です。
 突然の美女の出現に、チキチータは戸惑うばかりです。セレンゲティがそっと 教えてやります。
「着るが良い。この可愛い娘さんは、君の裸が皆に見られるのが口惜しいのだ」
 勇者は……。さて、勇者はどうしたでしょうか。


 この日を境に、正しき人が、堂々と大路で神の教えを語る事ができるようにな りました。病める者、貧しき者、罪深き者に、公然と救いの手を差し延べる事が 許されました。神の恩寵を競うのに、寄進の額をもってせず、仲間の笑顔をもっ てするようになりました。ミラノ勅令以前に、福音に耳を傾ける人に、平和の季 節が訪れたのです。この功績により、教会はチキチータを聖列に加えました。十 二使徒ほどではありませんが、火に焼かれたり、車に裂かれたりした殉教者と同 じ列に加えたのです。

 やがて時が流れ、中世になると、動物を聖人に加えるとは何事かとの意見が出 ました。そして、ラテラノ宗教会議にて、チキチータの聖列が外されたのです。 今では、チキチータの活躍も、セレンゲティの勇姿も、誰も覚えていません。
 しかし、コロシアムに咲く草花は知っています。動物とともに、母なる大地ア フリカの土が運ばれ、そこから種がこぼれて、ここにはヨーロッパにない草花が 花を咲かせます。彼らはずっと、チキチータの事を語り継いだのです。風にそよ ぐと、花は歌います。アフリカの花が咲く限り、チキチータは永遠なのです。今 日も、コロシアムに風が吹くと、花々は歌います。















♪ チキチータは怖いんやでぇ〜
   小さいからって、舐めとったらあかんでぇ〜
    フ〜、ウゥ〜、って牙を剥いてうなりよるんやでぇ〜

  ライオンが、前を素通り〜
   普通は、あり得ないこと〜
    いなずまのような、走りを知っていればこそ〜

♪ チキチータは船に乗り〜
   はるかな、海を越えて〜
    やって来た、おだやかな地中海〜

  迎える桟橋で〜
   そこで、何を見たの〜
    捕われの身の、サバンナの勇者たち〜

♪ 見上げるコロシアム〜
   朝から、お出ましよ〜
    今日も、モップを持って元気にお掃除〜

  栄光の剣闘士〜
   肩を、並べもせずに〜
    ほうきを手にして、砂塵に埋もれる毎日〜

♪ ナイルを北上し〜
   母さんはやって来ました〜
    罠にかかった、アレクサンドリア〜

  チキチータは剣を捨て〜
   地面に、膝をついて〜
    取り戻したのは、アフリカの魂〜












注釈
 三段櫂船……詳細は不明、専門家でも意見の分かれるところ。ここでは、上中下と、三段に櫂が並んでいる船をイメージして描いた。
 ゲロッパ……ジェームズ・ブラウンの名曲「セックス・マシーン」は、この歴史的に有名な剣闘士を歌い上げたもの。 ♪ ゲロッパ(=Get up、get on up、Stay on the scene) また、同氏は、映画「ロキウス四世(=Rockius W)」において、東西剣闘士の審判役を務めた。
 セステルティウス……4アスで1セステルティウス、4セステルティウスで1デナリウス、25デナリウスで1アウレウス。
 アレグリア……2005年当時に来日したサーカス団。斬新なデザインの道化、空中ブランコ、柔軟を売り物とした。
 チューインガム……グミの実と粘土から作った嗜好品、テオイングゲルムと呼ばれた。ポンペイ遺跡から出土。歴史博物館では、館長のロッテリア女史に頼めば見せて貰える。
 ムロウスタス……英語でも、ラテン語でもない。まったくの思い付きから作ったオリジナルな名前。
 ガイウス・パンサー……実在。岩波、スエトニウス「ローマ皇帝伝」に付随する「神君アウグストゥス業績録」に詳しい。
 ロムルス……ローマ王政時代の初代王。狼に育てられたとの伝承がある。以降、ヌマ、トゥルス、アンクス、タルクィニウス、セルウゥウスと続き、七代目のタルクィヌス・スペルブスの暴政に耐えかねて、共和制が起こった。タルクィヌスの再起は、奴隷ウィンデックスの内部告発によって未然に防がれた。これは、東洋史に類例のないものとして注目される。
 セイヤヌス……ティベリウスの佞臣。佞臣には、カリギュラの親衛隊長マクロ、ネロの放蕩仲間ティゲッリヌスがいて、それぞれ財産を築き、破滅を招いているが、皇帝の甥にして人望のあるゲルマニクスを追い詰めて死なせたセイヤヌスが有名。
 ユリアヌス……コンモドゥスの暴政の後、軍縮に不満を持った近衛隊はペルティナクス帝を殺し、帝位を競売に掛けた。競り落としたのは富裕な元老院議員ディディウス・ユリアヌス。在位二ケ月で、パンノニア属州軍のセプティミウス・セウェルスの命により、ほかならぬ近衛隊により殺された。後の名君、東西統一帝のユリアヌスとは別。
 テリブル……雷帝、かみなり親爺、やんちゃ坊主。用例としては、イヴァン四世が、ル・テリブル(=Terrible)と呼ばれ、オスマン帝国のバヤゼト一世は、同じ雷帝でもイルディリム(=Yildirim)と呼ばれた。最近では、アメリカ海兵隊の軍曹などが、こう呼ばれています。
 据えたニュース……スエトニウス。この作品は、スエトニウスから霊感を得て書かれている。
 ブリタニアの反乱……史実では、61年。ブリタニア総督パウリヌス・スエトニウスの遠征中、イケニ族王妃ボウディッカが蜂起。スエトニウスはロンドニウムを撤退する事によって、一万の兵を整え、八万の敵を殺した。書記官スエトニウスとの関係は、指摘されていない。
 滝と臼……タキトゥス。
 ヴィシバシアヌス……架空。モデルは、ウェスパシアヌス、ブリタニア凱旋将軍、アフリカ属州総督として貢献。66年、元首属吏フロルスの圧政によりユダヤ蜂起、マサダ要塞での反乱。ウェスパシアヌス、パレスチナ司令官職を拝命、暴動を鎮圧。さらに、捕虜を寛大に処遇。
 トリミダス王……架空。ギリシア神話でのミダス王は、貪欲の罰として、手に触れた物すべてが黄金に変えられてしまう。ぶどうも、妃も黄金になるという話。ミトリダテス王は実在、ポントス王、前89−66、三度にわたり大戦を挑み、ポンペイウスによって敗れる。
 タフト・ハートレアス法……架空。正しくは、タフト・ハートレー法。ここでは、キリスト教の抑圧を、1948年からのアメリカのアカ狩りになぞらえて描いている。タフト・ハートレー法は、1947年に成立した労使関係法。ふたりの作成者の名を法に冠するのはローマ時代に遡る。紀元9年、執政官パピウス・ムティルスとポッパエウス・セクンドゥスとによって作成された、結婚奨励法パピウス・ポッパエウス法がある。
 水源地の侵入……史実。紀元60年、皇帝ネロはマルキウス上水道の源泉湖に入り、水泳をし、天罰が下って病気になった。
 ソラ……架空、正しくは、スッラ。共和制末期の門閥派貴族、独裁官フェリクス・コルネリウス・スッラ。帝政時代には、ファウストゥス・スッラ、コルネリウス・スッラ等がいる。
 グロリアス、ミゼレリアス、マニフィクトゥス……それぞれ、栄光、無情、豪華と、キリスト教的な名前。
 ウァロ……苗字は実在。ローマの名門、テレンティウス・ウァロ等がいる。
 十デナリから……近世、キリスト教は布教にあたり、科学、医術、農耕技術の伝播を伴った。ここでも、課外授業として簡単な読み書きを教えていたと想定している。また、現代において、この貨幣単位はある特定の書物にしか見られない事から、それに近縁のものとして描いた。
 カセナイカ……架空、キレナイカという地名はある。古代ローマの人名、地名は、妙に現代日本語の音と一致するものが多い。ここでは、そこに注目して、新しい造語を行っている。音一致の例、カエサル→猿、ネロ→寝ろ、キケロ→聞けよ。
 キャッシュオ……カエサル暗殺の首謀者、名門。
 有料の剣闘競技……剣闘競技は無料。ただし、貴賓席に皿を回して、財布を置き、健闘した者に与える風習もあった。また、勝者には賞金も出た。ここでは、カードによって、興行主どうしの金のやり取りがあったと想定している。
 石板……1970年頃、象が踏んでも壊れない筆箱が発売され、それを実演するテレビCMで話題を呼んだ。それは確かに圧力には耐えたが、落下衝撃には弱かった。
 勝つと思うな……歌手カランドラ・ベラーリア(calandra=モリヒバリ、bello/a=美しい、aria=空気、大気)によるカンツォーネ「ソフィッチェ(soffice=柔らかい)」より。
 投票場に犀……史実、アウグストゥス時代。
 ローマに畳……伝統的なローマの住宅は、小さな天窓のあるアトリウムを中心にしたもの。第二次ポエニ戦争の辺りから、すすんで異国様式が取り入れられるようになった。列柱中庭を中心とした明るい住宅(=ペリステュリウム)が建設される。ナポリ等、海洋都市では、夏場の暑気払いに畳はぴったりである。
 ポンペイ遺跡から畳が出土……U.S.O.資料に基づく。
 91秒……1989年6月27日、アトランティックシティ・コンベンションセンターにて、マイク・タイソンvsマイケル・スピンクスの試合。91秒、タイソンのアッパーによるKO勝ち。なお、リングサイド席は1万ドルで、なにかと話題を提供した。
 クワガタ剣闘士……挑戦剣闘士(=provocator)を継承・発展させたもの。兜にはクワガタが付いており、武器にもなる。また、クワガタは取り外して、ブーメランとして用いる事も出来た。
 トラキア剣闘士……考証よりも、やや東方寄りに設定した。
 チキチー太郎……「瞼の母」 番場の忠太郎。
 西洋音階云々……Doremifasius(在位19年) Sollasidus(在位12年) ちなみに、欧米のカレンダエにおける7月(=July)、8月(=August)もまた、これと同じく、ローマ皇帝の名にちなんだもの。
 チキチータ(歌)……三番からコーラス部分にかけては、曲に合っていない。オリジナルを尊重した。
 チキチータ(キャラクター)……TVアニメ「ワンピース」のフォクシー海賊団に出ていた獣人。尾田栄一郎氏の原作漫画を読むと、こちらには登場していない。ということは自分は、たいへんな、すきま産業をしてしまった事になります。












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参考資料
 スエトニウス、『ローマ皇帝伝』 ……神殿造営、夢見、予兆、臓物占いに支配され、また、野生の鳥や動物が豊かに出入りしていたローマを活写する。2000年の時を越えて、カエサルのローマに立っているような気にさせてくれる名作。
 タキトゥス、『年代記』 ……ティベリウスからネロまで。帝国の財政情況、暴君による死刑や財産没収、また、属州の蜂起、それを鎮圧する様子などが詳しい。
 エドワード・ギボン、『ローマ帝国滅亡史』 ……十九世紀イギリスで書かれた歴史書。大英帝国の世界経営に当たって編まれた論考。当然、現代アメリカ人も目を通しているであろう書物。植民地経営、同盟国との関係、パレスチナの扱い、抽象的神学論争、いまだに世界はローマ帝国の尾を引きずっているのです。
 ブラスコ・ビセンテ・イバーニェス、『血と砂』 ……単なるロマンチックな闘牛師の悲恋に停まらず、闘牛社会をめぐる裏表、熱烈なカトリック信仰まで、十九世紀のスペインをまるごと描いた作品。チキチータの性格、語り口調は、貧賤から這い上がった快男児ホアン・ガリャルドの影響を受けている。

Webサイト
 『カエサル・ルーム』 カエサルを中心に、ローマ論を展開。
 『Quest of Roma』 写真が美しい。とにかく、旧ローマ帝国領内の写真が豊富。クロアチア、ブダペストに設けられたコロシアム等。