黒猫
11日目
東の棟1階の大食堂は、早朝は屋敷中の使用人たちが一斉に朝食を摂るので賑わうが、その時間が過ぎて皆が仕事へ向かってしまえば、後は静かなものだった。
ここ数日は街で起こった嵐のせいで多少仕事も多かったが、この大食堂を長年にわたって切り盛りしてきたベラにとって、朝の戦争のような光景は毎度のことである。そしてその後に訪れるこの嵐が去った後の静けさの中、茶でも飲みながらのんびりと過ごすのもまた、いつもの時間のひとつだった。
ところで、時々ではあるがこの静けさの訪れを待っていたかのように、食堂へ現れる人間がいる。
ベラが淹れなおしたお茶を飲んでいると、食堂の扉が音も無く開いた。
「おはよう」
と、言ってぶらりと中へ入って来たのはウィリアム老人であった。
「・・・何が“おはよう”だよ、全く。一応さ、若い奴らには朝寝坊したら何にもやらないって教えてんだから、あんまり図に乗らないでおくれよ」
カウンターから顔だけ覗かせて、ベラはウィリアム老人に言った。
老人は、話を聞いているのかいないのか。彼は曖昧に頷いただけで、カウンターに一番近い席に腰を下ろしてしまった。ゴソゴソとくたびれた上着をいじり、パイプを探しているらしい。一体何日洗っていないのか、黒いモノが染み付いた上着からは何か灰のようなものがパラパラと落ちた。
ベラは調理場に戻り、寝坊老人のための朝食を簡単に作った。
「ハイ、おまたせ。ベーコンエッグとトマト。チョコレートはサービスだ」
「いつもすまないねぇ、ベラの姉ちゃん。・・・もう少しチョコが多ければ嬉しいんだけど」
「やだね、このジジイは相変わらず。アタシはもう姉ちゃんなんて年じゃないよ」
笑いながら、スティックチョコを3,4本足してやった。
「でも、おばーちゃんなんて言ったらアンタ怒るんだろう?」
「殴り飛ばすよ。失礼なことを言った分、アイスは抜きだ。後は飲み物だね、ホラ」
ベラはウィリアムの前に、渋すぎる茶をどかっと置いた。
何だかんだ言って、ベラとウィリアムはよい茶飲み友だちだった。仕事の合間を縫ってよく話をする。
若いメイドの間では、屋敷で最も気難しい偏屈ジジィと噂されるウィリアムだが、それは単にウィリアム老人が根も葉もない噂や今時しか流行らない話題を好まないからだ。その手の話になると、のらりくらりと会話をかわそうとするか、徹底的に無視を決め込むかしかやらない。噂や時の話題好きの彼女たちとこの偏屈ジジイが相性わないのも、頷ける話である。
初めこそベラもウィリアム老人を生きた骨董品くらいにしか思っていなかったが、彫刻や美術についてはなかなか筋の通った話をするので、彼の話もキライだとは思わなくなっていた。老人は、話をさせれば面白いことをよく知っている。若い連中は自分が話すばかりで人の話を聞かないから、こういう偏屈ジジィに嫌われてしまうだけなのだ。
そのメイドたちの間の噂話も、ここ最近はずっとウィリアムが縄張りにしている南の離れの話題で持ちきりだ。
そのことをウィリアム老人に話すと、彼はやはり渋い表情をした。茶の渋みでそんなカオなったのだと誤魔化したいようだったが、長年の茶飲み友だちのベラを誤魔化せるはずもない。
「イイ男が2人もあの離れで何日も真剣勝負だろ。騒がれるはずだ」
と、ベラは言った。
「色男がもうひとりいるのに気付いてないのかねぇ。これでもわたしも若い頃は」
ウィリアム老人のシャレになってない冗談を、ベラは無視した。
「レイドさんもアレで結構顔がいいからねぇ。なんか、旅から戻って一段とイイ男になってないかい? あんなにイイ男だったっけ、レイドさんて。旅に出る前って、もちょっと太ってた気がする」
「さぁ・・・? 私は、どっちのレイドさんでもかまわないけどね。・・・そんなに、前より戻ってきた方のがいいの?」
「だって、メイドが騒ぎ出したのって明らかに帰ってきてからの方だろ。まぁ、おんなじ頃にもう一人、イイ男が来てるってのも大きいんだろうけどさ。今朝も若いのが騒いでた、昼の弁当を誰が離れまで届けるかでねぇ」
ベラがそう言うと、ウィリアム老人はやはりあからさまにマユをしかめて言うのだ。
「なんならわたしが持ってくよ」
「おやおや、屋敷一の面倒臭がりがよく言い出したもんだ。一昨日も、屋敷嫌いのじいさんがシェゾさんトコまでなんか届けに行ったんだってね。ほっつき歩いてるメイドの1人でも捕まえりゃ、揚々と引き受けてくれたろうにさ。どういう風の吹き回しだい」
ベラは悪戯っぽい笑いを満面に見せて言った。
「最近、足腰が言うことを聞きゃしないんでさ・・・ちったぁ鍛えにゃと思ってさぁ」
ウィリアムは茶をずずずとすすった。下手な誤魔化しが好きな老人だ。当然、それはベラには通用しない。
「ジジィが今さら何言ってんだい。若造の仕事の邪魔をしないで欲しいだけなんだろ」
「・・・・・・」
ウィリアムは、湯飲みを置いてしばらくぼぅっとした。
色々な考えを浮かべては消して、何となく思ったことがまとまってきたところでゆっくりと言った。
「何と言うか・・・見てて、あの2人は真剣なんだよねぇ。何だかんだ言ってああいうことが好きなんだね。化石を分析する時なんかさぁ、本当に夢中になってるよ。世界が違うっていうのかねぇ・・・普段、ホトンド表情を見せないシェゾさんも、なんだか楽しそうでさぁ。他に何か抱えてるみたいだけど、あの時間は好きなことをさせてやりたいと思うね」
「じいさんもそうだよね」
「ん? 何が」
「あの若いのが初めてここに入って来た時、じいさんの弟子かと思った」
「へぇ、なんで?」
「じいさんもさ、普段無気力で寝てるか食ってるかってカンジだけど、彫刻が絡むと人が変わるだろ。そんなんも含めて似てるような気がしたのさ。些細なことをさも重大なことみたいに悩んで、おやっサンに笑われてた頃のじいさんに」
ウィリアム老人は、小さく苦笑しただけだった。
「さっきの話。何か抱えてるみたいだって、どういうことだい」
ベラは、聞いた。ウィリアムはやはり苦笑している。
「全然わかんないよ? なんだか途方もなく次元の違うところでで迷ってるようにも見えるし、すごくつまらないことでつまずいているようにも見える」
「?」
「なんにせよ、そこにあまり他人に踏み込んで欲しくないんだと思うよ。そんな気がする」
「ふぅん」
老人の話を聞きながら、ベラは数日前の朝、食堂に現れたシェゾに、どことなく腹を立てたことを思い出していた。誰に話しかけられても表情を崩さない、食事を勧めても渋い顔をするだけ、それをただウザいと思っている風でなく、自分の領域に無為に侵入する他人を警戒しているように見えた。
ウィリアムもまた、そのようなシェゾに少しばかり歯がゆく感じているのではないかと思って、ベラは言った。
「・・・何をクヨクヨしているんだか知らないけどさ、1人で悩まなきゃなんないと思ってるところが、何というか若いよねぇ。どんな巨大な問題を抱えてるかわかんないけど、人を巻き込んじゃならない問題ってのは世の中そうないもんさ。しかも若いなら、どんどん他人を巻き込んで散々迷惑かけた挙句、こっぴどく叱られてしまえばいい」
「大嵐、みんなで渡れば怖くない?」
「そう、それ」
ベラは、無鉄砲な子どもの前では絶対に肯定すべきでないことを肯定した。
「若い頃ってそうなんだよね。勝手に問題を想像で大きくして、自分がこんな巨大なことで悩んでるんだって、どっかで酔ってんだ。で、何かの拍子にことを別の方向から見ると、そんなの大嵐でもなんでもなくて・・・ただの細波だったってこともあるんだからさ。子どもの目から見れば大嵐でも、大人が見れば細波だったなら冒険させるさ、いくらでも」
ベラの話を黙って聞いていたウィリアムは、最後に一度だけうーんと唸った。
そして何かを少し考えるように言った。
「・・・・・・ひとりで悩んで迷ってる気になってるみたいだけど、多分違うよ。本当に1人で立ち向かわなきゃならないんなら、もっと焦ってる。好きなことができて、こういう時間を持っている以上、誰かいるんだよ。こういう時間を彼に与えてやりたいと思って、わざわざ世話を焼いてる誰かがねぇ」
「? えらくワケ知り顔じゃないか」
ウィリアムは小さく頷いた。
「シェゾさんの話をよく聞いてるとね、わかるよ。家族とか、そういうんじゃないらしいけど・・・どうも周りに、“おせっかいな連中”っていうのがいるらしいよ」
「へぇ、あの仏頂面に“おせっかい”と言わせるなんて、その「誰かさん」は相当もどかしい思いをしてるようだね。しかも、“連中”ってことは・・・1人や2人じゃないねぇ」
ベラは、少し嬉しい気がした。偏屈さにかけてはウィリアム老人を凌ぎそうなあの若造にも、そういう人間がまわりにいて、彼に冒険をさせようと後押ししているのだとすれば、それはそれで面白いと思う。
ウィリアムも、ベラのそんな気持ちに近かったのかもしれない。いつもより、ほんの少し嬉しそうな表情で言った。
「そうだよ。だからきっと、わたしたちがどうこう騒ぎ立てる必要ないんだよ。彼には、たぶん居場所があるんだ。ここではない何処かにねぇ」
そう言って、ウィリアムは食事を終えてまた湯飲みをずずずとやった。
「・・・旦那はさ、シェゾさんをここに留めたいらしいけど、わたしは無理だと思うんだよねぇ。どんなことをしても」
と、老人は最後にポツリと言った。
それは何となくベラにもわかると思った。
どことなく、こことは違う雰囲気を持つあの若者。彼が屋敷の庭園にたたずむ時、いつもその銀の髪色も黒い服も―――――庭園の色に染まっていない。まるで別の絵画から抜け出てきたような彼の空虚な姿は、元居た場所を求めてさまよう姿なき魂を想像させる―――――
仕事が終われば、彼はその元の居場所へ帰っていってしまうのだろう。
数度しか姿を見たことがないベラにさえ、それがわかった。いつも仕事で顔を合わせるこの老人がそれを感じていないはずがない。確かに彼は、この屋敷に長く留まるにはあまりにも不自然な雰囲気を持っていると思う―――――
「・・・・・・」
それでもなぜか、早く追い出してしまいたいとも思わないのも不思議だった。無愛想で何処か心ここに在らずな雰囲気を持つ青年。それでも惹きつけられるのはなぜだろう。彼はなぜここに居るのだろう? 姿を見るたびに、大きくなる、興味を惹きつけられる不思議な感覚。短い時間でも、あの若者がこの食堂の位置からでも見える中庭に出てくるときは、なぜかいつも目で追わずにはいられなかった――――セリアの坊ちゃんがよく懐いていると聞くが、その辺りに理由があるのかもしれない。
ベラがそんなことを考えたのとほぼ同時に、ウィリアム老人もまた何処か遠くの方を見た。老人が悟ったモノをなんとなく理解したベラは、ゆっくりと言った。
「・・・仕事は順調かい」
「ああ、順調だよ」
ウィリアムは静かに答えた。
「でも昨日やっと、どの骨が何なのかがわかって、リストが完成したばかりだからね。それをひとつひとつ組み立てて化石を復元していくには、やっぱりもう少しかかるんじゃないの」
ウィリアム老人の最後の言葉には、一種の期待もあったかもしれない。
食堂の窓からは広々とした中庭が広がっている。ウィリアムはずっと南の離れの方を眺めていたから、はやりこのジジィも自分と同じことを考えていたのだな、とベラは思う。
シェゾは好いている人間はこの屋敷に少なからずいる。しかし、だからと言って、少なくともこの老人は何もしないのだろうな、ともベラは思った。
「ん?」
ふいと視界の端で何かが動いた。真っ黒な毛並みの猫が、嵐でひどく汚れた中庭を横切ってゆくところだった。
少し以前から、中庭でよく見かける猫だったが、前は気にも留めなかった。ただ、今日はどこか――――あの淀んだような黒い毛並みが――――様変わりした庭園の雰囲気に、妙にハマっている気がして―――――
「あの黒猫、最近よく見るようになったと思わない?」
と、ベラは言った。
「・・・気のせいじゃないの?」
ウィリアムは、相変わらずのほほんと言った。
一度だけ振り返った猫の目は、深紅の色だった。ラミアやヴァンパイアに多い赤い瞳は、悪魔の目と言われている。人を惑わすことが得意だといわれる悪魔の力―――――ベラは一瞬、白昼夢を見たような気分になった。
しかし、その横でウィリアムは全く別のことを言った。
「キレイな目だねぇ。深紅の炎――――幸運を呼ぶ宝石 みたいじゃないか。一度、磨いてみたいねぇ」
彫刻に加えて、石を磨くことも好きなウィリアムらしい発言だった。