雪だるま
セリアは今日は大人しく、自分の部屋にいた。見晴らしのいい東の棟の最上階、富豪の1人息子宜しく青を基調にした、広くゆったりとした部屋だ。南側の窓に大きく取られたテラスには、陽光がキラキラと反射している。ただ、テラスへの入口には深い青のカーテンがきっちりと閉められていて、その強い光が部屋の中まで届くことはなかったけれど。
部屋の中にも、さほど温かみのあるモノはなかった。今、自分がうずくまっている簡素なベッド、壁際の本棚と小さな机、イス―――――家具なんて、ほんの数秒で数えられるほどしかない。何もない――――光を遮る黒いカーテン以上に、何かがこの部屋に沈んでしまっているような――――ここはまるで、ほんの一筋の光さえ届かない深海の洞窟の中のよう。夜、ひとりでここで眠るようになってから、自分は何度そんなことを考えただろう。
街有数の資産家のひとり息子が、こんな質素な部屋で寝ているなんて街の人が知ったら、きっと驚くんだろうな、などとセリアはいつものように乾いた表情のまま、ベッドの隅でハハと笑った。別にいい、と思っている。これは僕自身が望んだ部屋なんだから。
ベッドのすぐ脇には小さな窓があった。やはり青いカーテンがかかっていることが多かったが、それさえ開ければそこから広々とした中庭を見渡せる。暇つぶしなら、この窓で充分出来た。季節によって、見せる姿を次々に変えてゆく窓の外の中庭の景色。セリアの、部屋で唯一のお気に入りが、この窓だった。
僕のために用意されたぬいぐるみやおもちゃなんて要らない。僕が気に入ると思って飾られた名画や彫刻なんかより、僕の意思とは関係ないところで鳥や動物が遊んでいるところを窓から見ている方が、ずっと楽しめる。
自分とは関係の無いところで物語が進んでいくような、別世界のジオラマ。自室にいる時、彼の心は此処に在らずなことが多かった。意識はいつも、窓の外の世界へ向けられる。雨が降っていても雪景色でも、殺風景な海の底のようなこの部屋よりは、窓の外はいつもとても暖かそうなところだった。
今の自分には、すごく酷く遠い場所 。
それでも自分はこの窓から、何度あの場所へ戻りたいと願ってきたことだろう?目に映るのはいつもと変わらぬ夏の庭だが、セリアはいつかの冬の日、父親とともに雪が積もった中庭を眺めたことを思い出していた。
庭の隅には、セリアが近所の子どもたちと作った雪だるまが寂しそうに残されている。
今より少し幼い自分は、父親の服のすそを引っ張って言った。『雪だるまが可哀想だよ。中に入れてあげよう』
彼がそう言うと、父親は残念そうに言った。
『家の中は暖かいから、雪だるまは入れないんだよ』
『
雪だるま はね、暖かいところにいられないんだ』『ずっと独りで、寒いところにいなきゃならないの? 可哀想だよ・・・』
庭の隅っこで静かにたたずむ小さな友だち。その寂しそうな姿は憶の中でだんだんと形を変えて、いつの間にかその頃知った優しい「氷の女王」の姿に変わっていた。
「可哀想だね、氷の女王」
父親に、初めて絵本を読んでもらった少し幼い自分は、そう言った。
絵本の中で、優しく微笑む「氷の女王」。会いたいくせに、会えないと旅人を拒む悲しい人。僕はあの時、氷の女王の何をわかってたって言うんだろう。
女王の本当の辛さや悲しみなんて、何一つわかってなかったんじゃないだろうか。
女王の、旅人に『会えない』と言った時の気持ちや、『出て行って欲しい』と言った気持ち、会うことを許した時の気持ちとか。きっと、誰も考えてない―――――――女王のことが好きだった旅人でさえ。女王が本当に悲しかったのは、もしかしたら誰もそんな気持ちを理解してくれないことだったんじゃないだろうか・・・・・・
「―――――?」
眠りかけていたセリアは、ふと身を起こした。暗い部屋の入口を見る。さっきとなんら変わったところはない。――――でも。
音はしなかったが、誰かが部屋の前を通り過ぎていった。しかも、たぶん何かを部屋の前に置いて。
根拠は何もないのだけれど、こういう時の自分のカンは、大概当たっている。
セリアは気は重かったが、身体は軽い。ピョンとベッドを下りて扉を開けた。
廊下にはすでに誰もいない。足元に、白い封筒が落ちていた。薄い花柄の珍しい模様。拾うのは一瞬ためらった。
自分への見舞いの手紙か何かじゃないか? 一瞬だけ、そう思ったからだった。セリアは思い直した。―――――そうじゃないかもしれない。
父さんやマリア、エルダやセイジ。この人たちは当然知ってる。僕が、そういうの、
絶対にいらない って言ってること。
この人たちが知っていれば、大抵のことは屋敷のみんなに伝わるようになっている。
少し例外的なのが、レイド―――――旅から帰ったばかりで知らなかったみたいだけれど、病気のことは今朝誰かに聞いているはず。だから、知ってる・・・大丈夫―――――。セリアは自分に言い聞かせた―――――これは、僕への見舞いの手紙なんかじゃない。
きっと、エルダあたりが事務的に――――例えば、今日の夕食の時間とかを時間がないから紙に書いて――――震える手を、少しずつ封筒に近づけていく。指先が手に触れた瞬間、息を止めた。手紙を掴んでしばらく待つ。・・・良かった、なんともない。ホッとする。緊張が少しほぐれた。いつの間にか、冷や汗をかいていた。
しかし、封筒を裏返した時、それは食事の時間を記した紙などではないことが明らかになった。
差出人の名前は、エルダでもセイジでもなかった。「サザン・・・?」
知らない名前だった。そう言えば、部屋の前から去っていった人の聞こえない「声」も足音も、自分の知っているものではなかった気がする。父親はもちろん、知っている人ならたいてい「わかる」のに。
あれが、サザン?セリアは、封筒を開いて中を読んだ。短い手紙だった。
――― Dear セリアさま ――――――――――――――――――
はじめまして、セリアさま。突然のお手紙、ごめんなさい。
ご病気で、直接ご挨拶できないってエルダさまに言われてるから、手紙にしました。
私、サザンっていいます。15才です。2週間まえから貴方のお屋敷でメイドとして働いています。
お屋敷に来てから、ずっと貴方とお話したいなと思っていました。私と年の近い人、お屋敷にあまりいないから・・・
でも、セリアさまは、お父さまとも中々お話ができないんですってね。ずっとお部屋で一人ぼっちなんて、さぞお寂しいことでしょうね・・・
でも、諦めないで下さい。お屋敷のみんなが、貴方のご病気が1日も早く治ることを信じています。
私も、お元気になった貴方とお会いできることを楽しみにしています。
そのときは是非、お友だちになってくださいね!
―――――――――――――――――――― From あなたの友だちサザン ―――
「・・・・・・ふ」
思わず、笑いが零れる。
手紙には、何度も何度も消しては書きなおした跡があった。きっと、字を書くこと自体に慣れていない人がすごく悩んで書いたんだろう。そんな思わず笑ってしまうような不器用さや、「オマエ誰だよ」とか、「勝手に友だちにすんな」とか、色々くすぐったいとこもあるけど―――――やっぱり嬉しいと思う。
・・・病気自体は酷いものじゃないけれど、やっぱり辛い時は辛いから。
同時に、少し懐かしいと思った。こんな手紙をもらったのは、本当に久々だったから・・・病気が酷くなったのは、ちょうど2ヶ月くらい前。その頃から、誰も見舞いに来なくなっていた。
誰かが訪ねてきたとしても、自分も会おうとしなかったし。忘れかけていた大切な人たちを、少しだけ思い出した。もう、誰も自分に手を差し伸べてくれることはなくなったけど、まだ僕にも友達がいる、好きでいてくれる人がいる。それが思い出せただけで、充分嬉しい―――――
セリアは、しばらく手紙を眺めた後、ゆっくりと閉じた。
丁寧にたたみ直して、封筒に戻す。
部屋を見渡し、そして、失くさないように―――――机の、あの引き出しにでも仕舞おうか―――――――――― そう思った その時だった 。
「!!」
セリアはハッとして胸を押さえた。胸の奥で、小さな、衝撃。それを、セリアは感じ取ってしまっていた。
彼が少しでも幸せな気分に浸れたのは、そこまでだ。「う・・・っ」 ゾクリと背筋に悪寒が走って、セリアは思わず手紙を投げ捨てた。けれど、遅かったらしい。
―――――― 来 る 。
そう直感して、セリアは扉の前でうずくまった。身体を固くして、来るべき衝動を先に押さえ込んだ。
胸の奥で、小さな衝撃の塊が徐々に大きくなってゆくのを感じ取る。
間違いない、忘れようもない。
ここ最近は、父さんたちが気を使ってホトンドこうならずに済んできた、あの衝動。
毒の塊を一気に飲み込んだような吐き気と腹痛。膝が震え始めた。
全ての痛みと苦しさが、徐々に大きくなってきた。もう、数秒すれば、喉にまで達するだろう、死にそうなくらいの絶息。知ってる吐き気、わかってた気持ち悪さ。本当はわかってた。差出人の名前を見た時に、もしかしたら、こうなるんじゃないか。手紙を広げれば、この衝動が突き上がってくるんじゃないかっていうことも。
それでも。
広げたかった、読みたいと思った。もうずいぶん、触れてこなかった気持ちに触れられると――――――「・・・・・・ッ ぅ、ぐ・・・!」
その時を、少しでも遅らせようと、いつもの無駄な努力をする。
息を止める、腹を押さえる、柱しがみついてさらに身を小さくする。無駄だと分かっていても、サザンの手紙を力任せに引き裂いた。皮肉にも、ビリビリという無情な音が今の状態で一番耳に優しい。
それでも、衝動が収まらないことを知っていた。喉の奥で膨れ上がる黒い塊のようなもの。それが爆発した時の、理不尽な衝撃は、もう絶対に経験したくないのに。「ぃ、やだ・・・助け、て・・・ッ」
どんなに押さえ込んでも、その時を避けて通れない。せめて、―――――せめて誰にもバレずに、このまま衝撃を押さえ込むことが出来れば、まだ―――――
「―――――ッッ!!」
目の前の鮮やかな、真っ赤な置時計が、急にやたら目障りに見えた。
セリアは力任せにそれを掴み、窓ガラスに投げつけていた。