西本願寺・東本願寺
ってなぜわかれているの?


本願寺が東西に分かれるきっかけは四百年前に逆上ります。日本中が激しい領土争いにゆれていた戦国時代には本願寺もその時代のうねりから無関係ではいられませんでした。当時の本願寺は農民層を中心にかなりの社会的勢力を誇り、有カな戦国大名と同等の力を有していましたので、その存在は、天下統一をめざす織田信長にとっては放置しておけないものでありました。また石山本願寺のあった大阪(現在の大阪城の場所)は、信長が中国、四国、九州へ勢力を拡大する上からも戦略的に必要な土地でありました。そして1570年に、本願寺と信長は戦いをはじめました。これが最大の一向一揆でもある石山戦争です。戦いは10年にわたり、ついに1580年、当時の本願寺宗主である顕如上人は、信長との和議を結び石山本願寺を明け渡すことを受けいれ本願寺を退出しましたが、ここで顕如上人の長男である教如上人は和議を拒否する姿勢を示し、徹底抗戦を支持する門徒とともに本願寺に残り戦い続けましたが4ヵ月後にはカ尽きて教如上人も退出を余儀なくされました。この時の姿勢の違いが、のちに本願寺が東西に分派する要因となっています。その後天下を統一した秀吉は、1591年、本願寺の京都移転を決め、京都六条に土地を寄進しました。これが現在の西本願寺(本願寺派)であります。移転の翌年、顕如上人が亡くなると継職をめぐって教団内部の顕如派と教如派(石山戦争時の和睦派と徹底抗戦派)の対立が表面化し、秀吉は長男の教如上人を隠居させ、本願寺は顕如上人の三男である准如上人が継ぐことになりました。秀吉の没後、教如上人は徳川家康と親しくなり、やがて家康は天下を統一した後、1602年に教如上人に京都烏丸七条に寺地を寄進し一寺を建立させた。これが現在の東本願寺(大谷派)のおこりである。家康の寺地寄進の理由は、本願寺を弱体化させるためだったという説や教如上人への同情からだったという説などさまざまな説がありますが定かではありません。現在、真宗には浄土真宗本願寺派、真宗大谷派の他に真宗高田派、真宗仏光寺派、真宗興正派、真宗木辺派、真宗出雲路派、真宗誠照寺派、真宗三門徒派、真宗山元派がある。親鸞聖人のお弟子たちがそれぞれの土地で御同朋として育てられる中で、伝道方法などに特色を見せながら成立・発展したこれら十派は、現在は真宗教団連合を結成して、教学面などで互いに学びあいながら交流し、共にみ教えを伝えるために協カ関係を作っている。


光西寺ホームページへ移動