風光麗し長居の里

 押照る難波の南、風光麗し長居の里。
 遠く遥かに生駒・信貴の山なみを望み、近くは大和川の流れも清きわが郷土。


保利神社遠景 終戦時には集落が点在するだけの田園地帯であった長居の里も、高度経済成長とともに宅地化が進み、 現在は一戸建住宅や高層マンションが建ち並ぶベッドタウンとなっています。JR阪和線や地下鉄御堂筋線で 難波まで20分、梅田まで30分と交通の便に恵まれ、大阪国際女子マラソンやセレッソ大阪のホームスタジアムとして 知られる長居陸上競技場をはじめ各種のスポーツ施設を有する長居公園に隣接する、緑豊かで閑静な住宅街です。
 当神社では平成のご造営を記念して、『長居郷土誌 堀村・前堀村小史』を発行いたしました。ここではその冊子から抜粋して、 わが故郷である風光麗し長居の里の風土と歴史を紹介します。

1.堀村と前堀村のあゆみ
明治22年当時の地図 現在の住吉区長居東1〜4丁目、東住吉区長居公園の一帯は、かつて堀村と呼ばれていました。 寺岡村の東に位置し、南は前堀村です。「摂津志」に「堀属一邑」、「追分茶屋 寺岡・堀二村出戸」とあり、 「摂陽群談」は「掘村 在出在家茶屋」と記しています。字三軒家(現在の長居小学校附近)がその地で、 慈光寺と2軒の茶屋の三軒の建家があったのが字名の由来と伝えられています。追分というのは、 堺と住吉に向かう分岐点にあったことによっています。
 堀村の地名は、集落の周囲に濠をめぐらしていたことが由来とされています。里伝によれば、 「堀村は昔、足利時代に周防守某なる者が集落の周囲に幅五十尺(15m)深さ六尺(1.8m)の濠を掘り、 さらにその内側に竹薮を植え込み、全部を取り囲み築城して城廓とした」とあります。堀村の字地には、 栴壇城
(せんだんじょう) ・大門・鉄砲島などがありました。集落の周囲の濠は昭和15〜6年ごろ まで残っていましたが、逐次埋め立てられ、現在は道路になっています。集落内の道は狭く、辻々みなT字型に なっています。これは攻めにくく守りやすい造りにするためで、今も昔の村の姿が残されているといえるでしょう。 慶長17年(1612)の水割符帳(田中篤家文書)に「かけの郡ほり村」とみえ、水懸高六二〇石とあります。 享保20年(1735)の摂河泉石高帳では、下総古河藩本多領で高六八六石余とあり、同藩領として幕末に至りました。
 現在の住吉区長居東1〜3丁目、苅田1〜2丁目の一帯は、かつて前堀村と呼ばれていました。堀村の南に位置し、 村域は東西に長い三角形をなしています。村名は集落地の前に堀があることに由来するとされています。 天正11年(1583)の今井宗久宛知行目録(「今井町史」所引)によれば、「摂州欠郡内五ヶ荘」に含まれており、 文禄3年(1594)の摂津欠郡蔵入目録(称念寺文書)には、「八十壱石五斗壱升五合 前堀村」と記されています。 慶長17年の水割符帳によれば、水懸高一一六石余。享保20年の摂河泉石高帳では同高、幕府領となっています。 文化9年(1812)に相模小田原藩領となり幕末に至りました。
 明治4年(1871)4月の廃藩置県を経て同年11月に大阪府住吉郡に編入されたのち、明治7年(1874)には 大阪府下摂津国住吉郡第二区第七大区小区堀村・前堀村と称しました。明治22年(1889)には堀・前堀・依羅の3村が 統合されて依羅村となり、大阪府摂津国住吉郡依羅村大字堀・大字前堀と改称され、明治27年(1894)には 堀・前堀・寺岡の3村が統合されて長居村となり、大阪府住吉郡長居村大字堀・大字前堀と改称されました。 さらに、明治29年(1896)には大阪府東成郡長居村に改称され、大正14年(1925)まで続きました。 大正14年4月に大阪市に編入されて、堀村は大阪市住吉区東長居町、前堀村は南長居町、寺岡村は西長居町となりました。 昭和35年(1960)ならびに昭和56年(1981)の住居表示変更を経て今日に至っています。

2.長居の地名の由来
摂津住吉名所図会 長居の地名は、明治27年(1894)に堀・前堀・寺岡の3村が統合されて 長居村となった際に誕生しました。村名は、その頃まであった大御池の別称長居池から採ったとされています。 大御池は、JR阪和線長居駅から西北西300mほどの場所にあった周囲七町弐拾余り(約720m)、広さ7万平方メートルの池で、 当時は貯水池として活用されていました。水は流出して細江川にそそぎ、安立町の西で十三間堀につながってました。
 「摂津住吉名所図会」には、今から約七、八百年前に詠まれた長居にちなんだ和歌が掲載されています。


  啼き捨てて 急きなすきそほとときす
     長居の里の名をそ頼まん
   法師覺寛(夫木集)
  住吉の 岸もせしとや小夜千鳥
     長居の潟へうらつたひ行く
  信實(夫木集)
  君か代の 千年くらへをせさりはや
     長居の浦の松と鶴とに  
  茲鎮(千載集)
  すめらきの 長居の池に水澄みて
     のどかに千代の影そ見えける
 常陸(堀川百首)

 長居の浦や長居の潟という名があるように大御池は、細江川の入江のようになっていました。近くには大町池 ・池田池・今池・上の池もあり、このあたりは水際の景勝地であったようです。住吉街道を旅する人々は、のんびりとした 美しい景色にしばし足を留めては、いつまでも長く居たいものだと思ったことでしょう。そうした想いに因んで長居と 名づけられたそうです。大御池には片葉の葦が茂っており、片葉の葦は珍しいということで有名であったと伝えられています。
 今はもう池は残っていませんが、緑ゆたかな長居公園は市民の憩いの場として親しまれ、豊かな自然に恵まれた のどかな雰囲気は、今に受け継がれています。

3.長居の風土
 長居の農産物は古来から主として米麦でした。明治10年代には綿の栽培も盛んに行われ、 平野や堺に出荷していました。菜種や大根の栽培も盛んで、掘出大根・田辺大根・横門大根が木津・天満の市場に出荷され、 市民の台所を潤しました。西長居町では、夏菊・日々草・千日紅・日廻菊・秋菊などの草花の園芸栽培が盛んで、 花問屋に出荷していました。宅地化が進む昭和30年代以前までは、昔と変わらぬ農村の生活が営まれていたようです。 のどかで人情味あふれる風土は、こうした生活から生み出されきたのかもしれません。

4.長居公園のあゆみ
長居陸上競技場  長居公園は、大阪国際女子マラソンの舞台として、またセレッソ大阪のホームスタジアム として知られる長居陸上競技場をはじめ、長居第2陸上競技場、長居球技場、長居障害者スポーツセンターなどのスポーツ施設を有する 運動公園です。また、公園の東部にある長居植物園は、242,000uの敷地内に、バラ園やアジサイ園などがあり、訪れる人々の目を 楽しませています。
 長居公園は、昭和3年に公園整備計画がはじまり、昭和14年から市と住民の交渉が始まり ました。公園用地の東側は鷹合町、中央部は東長居町、北西部は西長居町に属しており、敷地の大半を占める中央部は旧堀村でした。 昭和15年に旧堀村の三分の二を占める土地が大阪市に買い上げられ、公園用地となりました。昭和18年4月に旧住吉区が住吉 ・東住吉・阿倍野の3区に分割された際に、公園の範囲や名称、担当区役所などが決定されました。
長居公園通りから生駒を望む 戦争の拡大に伴って戦時色が強まり、公園の一部が防空陣地に転用されるとともに、市内貯水池用ネンドとして掘り出され、 その他の土地は農園化する状態となりました。終戦後、公園整備が復活しましたが、逼迫した市の財源を確保するため、 一時は競馬場・競輪場が設けられました。七百万平方メートル(二一万坪)の広い土地をいかに活用するかが再検討され、 市民の憩いの公園をめざして昭和30年度から整備工事が着工されました。同34年に第一期五カ年計画、同39年に第二期計画が スタートするなかで、大阪競馬場は昭和34年に廃止、大阪中央競輪場は同37年に廃止されました。その後、長居第2陸上競技場の建設や 長居陸上競技場の建て替えなど、広大な構想のもとに、総合運動公園、緑深き憩いの公園として整備がはかられてきました。平成14年には、地下駐車場が建設され、盛大に2002年ワールドカップが開催されました。


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