弥八っあんは 葬式・墓いらん!
お釈迦はんが言わはったそうな 「私が死んだら葬式はするな、体を焼いた灰はガンジス河へ流してくれ。また私の教えを伝えるために教団を作ってはならぬ、それは争いの基になる。」
今の日本の 仏教寺院・僧侶 は葬式商売に忙しく、本来の使命=釈迦の教えを説き広める活動に熱心でない。私は葬式は商品になっているから一切購入しないでもらいたい。亡き骸は密かに極く簡素に火葬にして、安治川に散骨してもらいたい。大阪の中ノ島の一番西の端 堂島川(大川)と土佐堀川との合流点=船津橋との端建蔵橋の繋ぎ目から安治川に向かって遺灰を流してくれることを希っている。
そこは私が永年お世話になった中央卸売市場の傍であり、私の生家
雑喉場魚市場の蛸問屋「大勘」にゆかりが深いからです。淡路阿波讃
岐から蛸を積んできた船が百軒掘り川を通って大勘の桟橋へ付けるの
が大混雑して暇要るので伝馬舟(小舟)で若い衆がここまで瀬どり(小
口荷引き)に来た場所なのです。
宇宙のあらゆる存在はお互いに関係しながら生成し発展し衰微し消滅するものである。これほど確かなものはないと思われる大地(地球)も宇宙の塵から凝り固まってできたもので、何時しか解散し散らばっていくものなのです
われわれ人間の体も宇宙の散りが原子分子組織となって形造られています 因縁の仮和合(ケワゴウ)と言います。人間が死ぬと言うのはこの因縁が解けて散っていくことです、それらの塵がまた何処かで寄り凝まって何かの
生物になることもあるかも、これ偶然。色即是空 空即是色!我というのも無数の縁の結ぼれ目に過ぎないのです。我が実態ではない=無我観 確実にあるのは縁のむすぼれだけなのです。実在するのは無数の諸関係です。諸法因縁生。この真理を眼をそむけず誤魔化さず直視すること=明らかに観ること=あきらめ(明らめ、諦め)。
この真理を肚に叩き込むこと=般若を会得すれば怖いことは何もない。・・・この境地に至ることを 禅では大悟徹底といい 浄土門では向こうから救われる という。オウム真理教ではバジラヤーナ=暴力的救済というのか?
大体こういうことを説いたのが釈迦の教えらしい。地獄へ落ちるとか 罰あたるとか 言って善人を脅迫するのは
みな迷信です。地獄というのは 地獄・餓鬼・畜生・阿修羅・人間・天上 と言う絶えず迷いうろつく人間の精神的
情況境遇をいうのであって この六つの精神世界をグルグル巡っている=六道輪廻の迷いの世界を逸脱するのが仏陀の世界への命がけの飛躍=悟り・覚悟です。何十万何百万出して大そうな戒名を付けて貰うのが仏
への途ではありません。残された者の死者への先祖への思いを掬い上げ煩瑣な佛儀をでっち上げたのは むしろ
道教や儒教の影響でしょう。一切の先見先入観因習を排して、真の真の真理に直入すべきでしょう。
だから 弥八は葬式は無用だと言うのです。墓は祖先を大事にする自然の心情から出るものであればあえて排するものではありませんが、親類の眼に気兼ねして強迫観念で渋々護らねば・・・と悩むのはどんなものでしょう。
一般に言って墓はやがて無縁になるものと観ずべきでしょう。墓も形あるものであるかぎり必ず滅びるの大原則から逃れるものでないでしょう。だから私は散骨風葬を提唱するものです。
葬儀はしなくても お別れ会のようなものをしてくださるなら、義理でなくホンに気持ちがある方だけで寄ってくださって、みんなで「般若心経」を詠んでくださったら有難いです。なんなら私が心経をテープに入れておきましょうか。心経は私が17の年から親しんでいるもので(そのくせ未だに暗誦できません)、釈迦の教えを伝えるに必要にして充分なお経と言えましょう。後は三味線を弾いて歌うなり、酒を飲んでドンちゃん騒ぎするなり、極くにぎやかにやって貰えばこれまた結構。
なにしろ自分の死んだ後に残ったもののすること私の自由にならぬことですが、ひたすら乞い希うのみです。
合掌!
戦闘的釈迦原理主義者=弥八 拝
1:散骨希望場所 4:郵便局跡(今マツダ自動車)
2:雑喉場橋跡 5:府庁跡(今工業試験所)
3:魚問屋(大勘) 6:中央卸売市場
トップページへ