「 行 雲 流 水 」ーーー旧制高校の追憶
   大阪商科大学予科修了50周年記念文集「我が青春」への寄稿
                  入江国太郎(弥八)   1990
 商大には寮がなかった。中学同窓で大高や三高ヘ行った友からストーム・寮雨など痛快な寮生活の話を聞かされて羨ましく悔しい思いをさせられていた。その高校生活に不可欠ともいえる寮生活を、予科で感じさせてもらったのが生の場合、体操クラブの合宿生活であった。生は中学では体操部に入っていたから、当然体操クラブに入ったのだが、驚いたことに、入学早々度肝を抜かれた「予科入学歓迎会」のスター 「血盟歌」の伊達陽さんが体操クラブに居るではないか。しかも蹴上がりがやっと出来たと小躍りしているのである。、聞けば学生左傾化対策として文部省がとったスポーツ奨励に対抗して、「スポーツしながらも頭を空っぽにされないように抵抗して思想を練るため切磋琢磨し合おう」というのが趣旨で同志が集まったのがたまたま体操クラブであった。体操部員にしては演技は下手でも、哲学・文学・宗教等々の論議にはいつも熱を帯びて躍動していた。合宿には、歓迎会で天の一角を見詰めて永遠の生命を説いた松川青鬼さん、寮歌の鬼・多羅尾さんなどが部友として参加し、これぞ予科生活というようなコンパをやってくれた。合宿といっても体操はそこそこにコンパこそメインイベントである。かつ飲みかつ食い、歌いそして踊る。果ては「偉大なる馬鹿になれ」とばかり、あらん限りの大声で「原始人」の叫びを発する。そして移動しないがその場でのストームとなる。夜を徹して論じ去り論じ来たり、想いを人生・宇宙に馳せる。気宇広大にして信ずれば千万人と言えども我往かんの気概を養ったのである。

 生ら四修(5年制中等学校の4年終了で高等学校に進むこと)の者にとっては予科生活は特に飛躍的激変であった。同クラスに年齢差が六、七才ある兄さんと言うよりは殆どおっちゃんが居る。みんな文学を論じ哲学を語る。哲学はおろか小説すら読んでいない生にとって恐慌であった。別枝教授が地理的環境論の中で紹介される洋の東西にわたる必読の書、立野さんの若々しい社会論・恋愛論、などにめくるめく思いであった。いつかの休み時間に永井君がなにかの拍子に岩波文庫の書名を黒板に書き上げ始めた。黒板の余白(?)は少なくなり、字はだんだん小さくなっていく。他の者も参加して補っていく。とうとう黒板が一杯になった。そのうちに次に講義の先生が見えたが、ホウという顔をなさって黒板を消さすのをためらわれるほどであった。そういえば永井君は通学の電車の中で毎日違う岩波文庫を読んでいる。遅読の生には神業に見えた。そんな時に末川先生が勇気を与えて下さった。末川さんも萩の田舎から四修で三高へ入って生らと同じ経験をされたそうだ。そこで同級生に負けじと他の誰もやっていないものを研究しようと考えた末、文楽の研究を始められたという。わが意を得たりと生が始めたのが禅の勉強である。一時は出家を考えて、親戚筋に当たる禅寺に入ったことがある。親父の母親の長兄で 難波駅長であったのに四十になってから出家し権大僧正になり東大寺戒壇院の住職として二修会を導執行するまでになった人で、その超俗の人柄を親父に聞いていたせいもあったであろうか。ところがその飛び込んだ寺が尼寺で、その内輪で話している内容が「俗より出でて俗より俗なり」で、こんな商売坊主の世界はわが求めるところにあらず。自分の行く道は「市井の仙」なりと決め込んで娑婆へ帰ってきたのである。予科2年のことだったとおもう。自分では結構、人生を深刻に悩んでいるつもりであったのだ。とにもかくにもこの禅学の素養と、戦後 特に「国立堺大学!」留学中?に得たマルクス・レーニン主義の学習との、二つが生の世界観の二本柱になっている。そしてこの二つは、全現象を全面的関連においてとらえ、全存在は生成発展消滅するものであり、しかもすべて反対物へと転化する変化こそ本質であり、恒に変わらず存在するのは、関連そのもの=縁のみである。そこには一切の例外はない、と観ずる所に共通点があると考えた。禅は「仏に会えば仏を殺し釈迦に会えば釈迦を殺す」といい、一切の権威を迷信せずして自らの大悟を追求するという革命的気迫からして、言葉の正しい意味での無政府主義無神論だと思っている。二つの思想は自分の意識の中で、二つの思想は自分の意識の中で、一つの観の、意識と社会への適用として矛盾することなく補完しあって共存している。 やはり生のバックボーンは予科のあの時のあの雰囲気の中で形成されたのであろう

 生は人前でものを言う時には、顔面は火を噴いたように真っ赤になり、目には涙が一杯溜まって世間が滲んで見えなくなるような子供であった。その生が商大60周年記念祭の運動会でP1Aクラスの応援団長になったのである。体操競技で人前で演技をする度胸が付いていたのかもしれない。家にあったお稲荷さんの大太鼓をちょうど合宿に持ち込んであったのを高い台の上に載せ、体操で鍛えた身軽さにものをいわせてその上に飛び乗り、三三七拍子の扇子を振った。その出で立ちといえば、絣の着物に母親がつけてくれた大きな赤丸紋付き、それに親父の義太夫の着付けの上下をつけ、日の丸扇子を頭に巻きつけ、両手に日の丸扇子をもって打ち振る姿は、川上音次郎のオッペケペエにもさも似たりであったろうか。新内家・岡本弥八への途が開かれたのか。閉会のとき河田学長に冷やかされた。「あの応援の姿はエスカレートすると女の長襦袢になるのでは・・・・」と。学生は学生らしくというご教訓は謹んでお受けするけれど、遊芸を教養と考える下町の素町人の感覚とアカデミズムとはズレがあるように思った。「着物に裃姿がどうして下品な長襦袢姿につながるのか」と。カルチャーショックである。
 クラス別の応援はやがてP1のABC合同応援団となり、その感激は運動会が済んでも静まらず、有志で市内へ繰り出すことになあった。杉本町から移動した一隊は、例の大太鼓を先頭にして難波から寮歌を歌いながら御堂筋側を北上した。一杯機嫌で「富士の白雪」を歌いだしたころ、ずっとついて歩いていたらしい私服刑事が「もうちょっと学生らしい歌うたったらどう・・・・」と言い寄ってきた。酔った一人が食ってかかってあわや組み打ち、公務執行妨害・緊急逮捕の口実を与えかねない事態になった。何人かが割って入って話をつけ、高歌逍遥は続けられた。長堀通りを過ぎてからUターンして、今度は心斎橋筋を高い枋歯の下駄を履いて南へ・・・・。後から考えるとあれは戦前最後の自由主義デモでなかったのか、そして誰かがオルグしていたのではないか、と思う。当時は高校生活の自由も圧迫されて、長髪はならぬとか、下駄履き登校はならぬとか、帽子の顎紐はつけねばならぬとか、大高でも守らされるようになっていたなかに、大阪商大予科ではまだまだ自由が保証されていた。河田学長の受け入れた京大事件の退官教授の先生方のつくられた学風はおそらく全国でも最後の自由の風であり、それをわれわれは享受していたのである。 ある朝登校すると誰々君が警察へひっぱっていかれた、本棚に並べてあった本が引っ掛かったそうだ、マルサスの人口論まで持っていかれたとか、学生間に恐慌が走った。「商大事件」である。[追補:徴兵猶予停止・学徒出陣に対する全国的な学生の反対運動の拡がるのをおそれた権力と特高の先制攻撃であったと見られる。大阪商科大学は反戦運動の最も尖鋭な拠点と目されていた。] 学園の自由は全国から払拭された。あとには学徒出陣が待つのみだった。末川先生は後に学生を戦場に送り出したことを悔い恥じておられたが、学内運動場であの日の出陣壮行会の時、腕を後ろに組み頭をうなだれて行ったり来たりされていた末川先生の姿を忘れない。
 軍隊から帰って、餓え乾いたように「さあ大学へ帰って勉強や」と思いきや、杉本町学舎は米軍に占領されて学部の半分しか残っていない。米兵と学生のトラブルをおそれた大学当局が境界線に太い高い杭を打ち込んだ、これに刺激されたか、口実にしてか、米軍は全域立ち退きを言い渡してきた。学舎は南区竹屋小学校に仮住まいすることになったが、大宝小学校に移転することになった図書館が大変である。五十万冊といわれるゾムバルト文庫を初めとする大部の蔵書を移さなければならない。期限は三日間である。学生が動員された。米兵と学生の共同作業である。学生は大事な本を丁寧に運ぶ、十八才だといっていた教養の無さそうな米兵がエレベーターの穴を使って四階から下まで投げ飛ばす、学術雑誌の日付を見て「1865?TOO OLD!」と言って明るく陽気に窓から放り投げる。「こんな野蛮人に負けたのか!そういえば戦争に勝つのは野蛮人の方だナ」呆れたり感心したり!
 竹屋小学校に移ってから 学内民主化運動がはじまった。`45年晩秋である。どうゆう手続ずきか忘れたが学生委員会が構成され、まず戦時中に民主的教授の追放に協力した反動教授の追放が提起された。そして追放教授リストと復帰教授リストが提案された。提案はどこかで作成されたらしい手際の良いものであった。「趣旨に反対ではないがリスト作成は赤いトコロテンで白いトコロテンを押し出すようなやり方でなく,,あくまで学者として有能で学問的意欲があるかどうかを基準とすべきではないか」と発言したところ審議は止まってしまった。しかし追放リストは結局提案どうり通過し、後日学生大会で決議された。本庄学長はすで辞任しており恒藤新学長に学生大会の決議を提示することになった。忘れられないのは、ゼミナールの先生だった四宮教授が地下鉄の階段を降りながら言われたことだった。[入江君 血で血を洗うようなことはもう止めようじゃないですか」と言われる教授の名は追放リストにあったのである。生には言葉もなかった。 もう寒くなった京都の恒藤学長の宅を訪ねてリストを手渡して学生大会の要求を受け入れて貰えるようお願いした。学長からは学生大会の意向を尊重して善処する旨の回答を得た。 全教授は一旦辞表を提出して学長の裁定に協力した。この様な素早い対応は全国でも珍しいことと言われている。戦前の商大事件が伏線になっていたと言えよう。
 厚生委員長に選ばれたが、厚生委員長としての仕事と言えば、大学ノートの安売りと喫茶コーナー開店、ぐらいのものである。 ノートを受け取りに行ったのが下味原であり、曳いて帰ったリヤカーはボロで重みに耐えきれず天王寺の逢阪で車輪が壊れ難渋するうち、やっと通りかかった商大生に救援を求めて竹屋町から引取りに来てもらった。翌日配給したノートは物のない当時であり学生諸君に喜んでもらった。 もう一つの喫茶コーナーはテーブル一つだけ置いてコーヒー・紅茶程度を売ろうと言うのだが、経営が成り立つのか危ぶんでいるうちに卒業してしまった。 後になって学生生協の活動を目のあたりにして感慨に耽ったものである。
 戦後復学してから卒業までの一年足らずは慌ただしく空き腹を抱えての学生生活であったが、通学できるだけ恵まれていたわけで、約二年の軍隊生活による空白の後だけに砂地に水が沁み込むように勉強が身に付くように思えた。 高畠訳の「資本論」五冊が本屋の棚に並んでいるのが欲しくても金がなく、思わず万引きしそうになるのを抑えるのに苦労した。やっと手に入れて読んだときの興奮は相当なものであった。全部精読したつもりだったが、社会に出てから現実にぶつかり、「国立堺大」所内でノートを取りながら二回読んだ時から見るとその理解は浅いものであったのだが・・・(あれは具体的な権力構造との対決の中で読むにかぎる。)

 今は地平(じべた)に活きるクグツ精神を追求している[新 内 家](しんないや)である。