仲買口銭は足し算か引き算かーーー農林省との闘い
自給自足の暮らしから余裕が出来て、余分になった品物は 市 へ出てくる。自分の手元にない他の欲しい物を持っている人に出会ったら、そこで物々交換になる。品ーー品(W−−W)である。市に出回る品が増え、市の規模が拡大すると物々交換では相手を見つけるのに手間取るので、誰でも欲しがる品ととりあえず交換して置けば、いつでも自分の欲しい品と交換できる。「誰でも欲しがる品」が長い時間かかって無数の経験のなかで 金 に決まってくる。物々交換は金を介する交換となる。品―ー金ーー品(W−−G−−W)となる。これが頻繁になると、それまで仲介になるGが交換の目的になる、つまり(G−−W−−G)商業交換(商品交換)となる。GではじまってGにおわるのにGとGとが同じ分量ならその交換に意味はない。交換の結果GがG+g (=G`) にならないといけない。しかし何時もそうはいかぬ、どちらかが損しているか、欲しい度合いが違うわけ(不等価交換)。こんなことは何時までも続かない。連続していくためには、Wの価値が増えていなければならない。商業交換では価値は増えない。G−Wの交換で手に入れたWで物を生産したとする、このWは材料や工作器具(=生産手段 Pm)と人手(=労働力 A)とから成っている.Pmの価値は変わらないが生産過程の中でAと出会い生産物になると、新しいW`として価値が増えているからこそ等価交換W`−G`しても、G`は始めのGより大きい。
      G−W[Pm+A]・・・P・・・W`−G`   (資本制生産)
G`(G+g)の g (余剰価値)は P(生産過程)の中で造られる。Gを投資した持主(資本家)は g はGが産み出した 利潤 だと意識する。  とにかく資本制生産をグルグル繰り返してGはどんどん大きくなる(拡大再生産=資本増殖)。
このようにWの交換流通過程の中では価値が増殖することはない。個々の交換は多少の不当交換があっても、社会全体としては大数法則で等価交換が行われていると見なしてよい。とにかく流通過程では価値は生産されない。
マルクスはこうして、商品の交換社会から説きはじめる。
Wの交換価値(価格)は全社会の総需要と総供給とが出遭って決まる。交換社会は人口の増加 輸送交通手段の発展によって拡がり、普通 国民国家の規模で国民経済が形成される。普通の商品の場合 一国市場・一経済年で測られる。
 ところが特殊な商品がある。日本の生鮮食品(特に 鮮魚)である。それは日本の歴史的な食生活・食習慣に規定されている。日本では魚を 生か 生に近い 状態で食べる。消費者は魚を生で手に入れ自分で調理して食べるのを常とした。豊かな水産資源に恵まれた瀬戸内海に面する大阪を中心とする近畿圏の消費地に雑喉場王国と言われる魚市場が形成された。(東京、名古屋、福岡などの消費地を中心とする魚市場が形成されたが、雑喉場市場はその高度に発展した取引機構とそのため備わる価格支配性の点で全国的王座を誇っていた。)淡路、明石、岡山、香川、徳島などの生産、集散地から集荷された魚は原則として翌日までに消費されて仕舞わければならないのだ。一般の商品のようにゆっくり1年のスパンで需要と供給を見合わせて価格を形成する余裕がない。火急の間に兎に角価格を決めて流通させねばならない。拙速を尊ぶのである。W−G(販売)の命がけの飛躍の段階を 卸(s1) 仲買(s2) 小売(s3) の3つに分けて、それぞれに責任と危険を分散・分担させたのである。
     G-W[Pm+A]・・・P・・・Ws−Gs1:Gs2ーWs2−Gs2:GS3−WS3−Gs3
Gs3(小売値)ではじめて商品価値が実現するのである。s3は自分の口銭(利潤)だけ安くWs3を買っておかねばならない、s2も同様自分の口銭だけ安くWs2を買わねばならぬ、s1はs2へ卸した値から問屋口銭(卸売手数料)を差し引いて荷主(漁師や産地仲買人)に支払う(仕切る)のである。つまり仲買(s2)口銭は引き算なのである。足し算なら遠い所からより高い運賃を掛けて来た品はそれだけ高く売れることになるはず。実際は同じ品質の商品はどんなに運賃を掛けて来ても同じ価格でしか売られない
仲買は小売が扱える量より大きな単位で纏めて買い(自己の責任において)銘々の小売にそれぞれその得意先のその日の要望に応じて品質・程度など相性良く、マッチした価格で売り渡す。今日の客(小売)の需要の状態を予測・把握してセリに立って必要なだけ需要にマッチした値で仕入れしていなければならない、その市況の判断を誤ると口銭がない値で売るか、下手をすると損をする。それを仕入れ(セリ)と自分の店での販売の両方の場面で競争して営業し生き抜かねばならない。しかも小売には現金ばかりでなく殆ど 次回現金 から 1月、中には何ヶ月約束手形で売りたて、卸会社には原則翌日現金で支払わなければならず、支払いを滞らせれば売り止めにされる 厳しい条件で商いをしている。こうして仲買は価格形成機能と金融機能を果たしているのである。生産資本の回転を助けているのである。  この様に仲買はそれ相当の流通過程での社会的役割を果たしているだけの程度において口銭をとることが出来るのである。社会的にその役割が必要なのに、仲買を無くしても、誰かがその役割を果たしてそれ相応の口銭を取るのであり、 それがより合理的な組織でなければ口銭はむしろ高くなる。それは戦時を含め統制時代で証明済みである。農林省(農水省)は伝統的に生産省的発想に立っているから、足し算に見えてくるのだろう。しかも仲買を廃止し仲買口銭を無くせば消費者価格は下がると主婦連に宣伝する。彼らは仲買口銭を中間搾取と言う。中間搾取といえばなんだかマルクス経済学的だと錯覚する。マルクスは生産過程(P)の中での労働力(A)の対価(労賃)が不等価交換であること(A=労働力の価値以上の労働をさせて Pの中での労働の価値は労働力=Aの価値より大きい Aの分だけしか労賃として支払っていない) を (生産過程における)搾取と言っているが、「流通過程における搾取」という言葉は「資本論」のどこにもない。それはどうも ソ聯に隣り合せで社会主義統制経済にかぶれた満州官僚(東条英機、岸信介=東条内閣の商工大臣で仲買を廃止した、60年安保の時の総理大臣)の社会主義の生齧りの所産らしい。(満州国に新天地を求め理想を夢見た2.26の残党や統制派と言われた青年将校や、治安維持法に追われたマルキストが 左右ごじゃまぜの改革論者が満州国官僚や満鉄職員として雪崩れ込んでいた。お隣のソ聯邦の社会主義政策の影響を諸に受けて、王道楽土を築こうと意気込んだ。その気鋭が内地へ帰って東条内閣の中核となった。この統制派の戦略が敗戦を経ても岸内閣に繋がり、その系統を引く小泉、福田、阿部に受け継がれているようである。岸総理は 統制経済を初めてやり成功させたのは私である と誇っていた。)
 仲買は市場に張られている(展示されている)品物を、開市前に(早い人は何時間も前)に来て、自分に関係ある物だけでなく市場に入って来ているあらゆる品物を見て回って(直接間接競合する物だから)肚(自分の申し込み価格、付け値)を固めていく。前日までの売れ行き、今日の天候・紋日、自分のとこの取引先=得意先の回り具合、同業者の昨日までの売れ具合、その付け値の予想 等などいろいろを勘合して自分の肚を決めて行く。セリ開始時間が迫るに連れて刻々変わっていく、市の昂揚する時は気配で判る、ジワ(ざわめき)が興る、市の停滞している時はシーンと静まり返る。開市数秒前になっても付け値を修正しなければならないときがある。太物(まぐろ、かじきなど)はセリ順の番号が振ってあり、買いたい物を下見して、尾の上の部分を切開して指(乃至 腕)を突っ込んで、色・味・脂の乗り具合を目で見、舌で味わって見て付け値をメモに記録していく。(東京では身を切る事は禁止されているので、腹を引き明けて懐中電灯で目視する)市が始まっても自分の予想した市況と違う場合は、慌てて魚を見直しに走るそして必要なら自分の付け値を修正することがある。(これだからさかなの展示してある場所と離れた階段教室でコンピューターで電動入札せよという農林省のセリ改革は 画餅に終わったのである。お上の視察の日とか、主婦連の参観の日とかには役人の懇請によって、コンピューターせりを実演して見せたが、普段は全然無用の長物=お高い無駄な投資であった。既に私が市場長に公開質問状でそうなることを指摘し反対していたに関わらず・・・。かくも活きた魚のセリはビビットな生きものである。
 セリの入札申し込みは手符牒で行われた、迅速を尊ぶため原則一回セリである、それは入札の迅速化だからだ、(農林省は何度でも左右往復してセリ上げるよう指導した、時間を食い、現場を知らぬ指導) あまり値の出ない時は右から左左から右と往復し見渡すことは許された、しかし下手なセリ人が時間を掛けて値を絞っていると、市がだれてだんだん値が下がっていく。上手いセリ人は始め少し安いと思っても早い目に落とし(落札)ていく、仲買は案外安いので慌てて買いに殺到するので恐慌を起こし、結局値が釣り上がり全体として高値に回ることになる。こんなセリの名人が居った。名人のセリ場には荷主が詰め掛ける。荷主は問屋(卸売業者)よりもむしろセリ人個人を目当てに荷を送る。 今は大阪では手符牒に代えて名刺大の黒板にチョークで3桁の算用数字を書いて入札申し込みをすることになった。符牒では部外者に判らず不公正だと言う主婦連の注文で実施されるようになった、馬鹿げたお役所話である。談合しようにも生きもののセリだから、談合してみても瞬間の出来事だからすぐ気が変わって成立しない。参加している関係者がお互いに監視し合っているからセリに関する限り不公正は行われない、不正が行われたら直ちにその場で抗議されセリが止まってしまう。善意の誤りはその場で、入れ合わせされて解決する。自由な発言が民主的に保証されている限り不正は行われ難い。(私は変なことが行われたらセリ人に立ちはだかりセリを止めて抗議をした。) 3桁の数字と言うことは1000分の1の差で争うことになる。それでも同値でテッパル(拮抗する)ことは常にある。その時はジャンケンで即決する。何万円の儲けが掛かっているかも知れないから必死である。大の男が何人も目を吊り上げてジャンケンする様は異様である。 こうして競り合って1円でも嵩くないと落ちないのを買ってきた商品は、1分でも早く店に持ち帰って売らねばならない。今度は1銭でも安く売らんと、売り負けして売れ残ったら、翌日は余程の時化(シケ)で荷物が全然入らない限り、二束三文に値下がりしてしまう。買出しの小売商もプロで厳しい値引き交渉に出てくる、商品知識と市況把握に勝った者が勝ちである。激しい相対交渉を和らげ有利に成立させる為の笑いの中の話術に優れた者が有利となる。大阪人は2人寄ったら漫才になるというのもこうゆうところに根ざすのだろう。「あんたには敵わんなア もー」と言わせば勝ち。 こうゆうわけで 同じ程度の品物を同じ値で仕入れて帰っても、店店によって儲かる程度は様様である。得意先の回り具合によっては損をするときさえある。 仲買は自らの判断で自らの付け値で買い取った以上、儲けるも損するも己が力量とまん(間?)=回り合わせ`である。即ち如何に市況を過たず判断して己が店のその日の状態に見合った買いもんをしたかに掛かっているのだ。 魚と言う商品はその使用価値(物)が人それぞれによって違う、その合い不合いは殆んど相性と言って良いぐらい個性的である。河豚などは当たって死んでも食べたい人と、人によっては使用価値0 と言うようなものもある、これは極端だが。その魚の1番 性(相)のあった相手に出くわしてその価値を実現するのは大変な出会いと作業を必要とする、しかも限られた時間内に! だから市場内の競争はお互いには比べにくい不完全競争といえる。しかし全体総体としては競争原理が働いているのである。 結果として適当な価格で適当な量を、社会的に適正価格より自分の口銭を確保できる程度に安い価格で落札出来たか にかかっている。勿論一人一人の仲買がこのことを意識して商いしている訳ではなく、一寸でもよけ(余計)儲けたろーと、買った値に少しでも多い口銭を上乗せして売り抜けようとしているだけであるかもしれない、自分では足し算のつもりでも結果として客観的には引き算をしているのである。 市の気配の具合で思ったより安く買えたか、または市況が期待以上に高揚したので思うたより高く売れたりして、思わぬ口銭が得られたり、また全く裏目に出ることもある。今日は損したが明日は儲けたる。そういうウエーヴの中に翻弄されながら平均して口銭を得るのである。総て平均総て結果から決まる。 仲買は自己責任で買い取る業者であるから、損も得も己がらである。どこからも保証はない。儲けられない者は市場から消えてゆく。だから 仲買 なのである、法律で 仲卸 とか名称を変えてみても、それ以上にもそれ以下にもならない。セリで仕入れ、競り合って売って、その修羅の巷で生き抜く。こういう社会的な境遇の中で社会的な洞察を働かせ、カンピューターで需要と供給を把握してこそ仲買として生き抜けるのである。つまり正しい引き算が出来てこそ仲買である。
 農林省・農水省は一貫して、この委託セリの制度と仲買が中核となって参加している卸売市場の取引機構を理解できなかった。主婦連に対しては仲買を廃止しその利潤を省けば消費者価格は下がると言い、荷主・生産者には仲買を飛ばせば手取りの仕切り値が増えると、言い含めてきた。昭和16年の岸信介商工大臣による仲買廃止で始まる、戦中戦後の統制経済で、その失敗は明らかなのに、懲りもせず 「流通革命」を言い張る似非経済学者を煽って、仲買の集中合併・大型化を行政指導で進めて来た。また大店法を改悪して(小売商市場、魚屋の独自の役割を評価せず 一方的に大型店の肩を持って)魚屋や公設市場を圧迫し、庶民の台所と懐具合にマッチした食情報を提供し、伝統的な食文化を護って来た生鮮食料流通機構を破壊した。そして公正な商習慣を無視して、安売りの皺寄せを納入業者(仲買・卸業者)に押し付けることによって、バイヤー優位の不当圧迫取引の上に立つスーパーを蔓延らせ、またその相互の過当競争によって経営基盤を弱めている。結果は流通における無責任体制は 今見るような商品の不当表示、不健康食品の氾濫である。まぐろ の産地表示に「太平洋」とある 落語のような様相になってしまっている。「あのおっちゃんの売る魚なら」大丈夫。「今日の魚は刺身は無理だす、煮付けにしとくなはれ」という信頼関係の上にたつ、HAND TO HAND の Hand chain はどこへいったの! Cold chain は Cold heat を産み、荒んだ chaildの満ち満ちる Dry worldを現出した。嗚呼!
 私は自分の商売の自主性が保てる限りでス−パーと付き合った。ライフは中央市場から出た業者で、安かろう 悪かろうの単なる安売り方針をとっていなかったので取引した。お陰で売上は伸びたが、ライフも大きくなるに 連れ市場の商習慣を知らない気心の判らないバイヤーがのさばるようになり、売上がこちらの規模の半ば以  上になりかけたので、このまま行くと下請けか仕入れ部門として支配・吸収される怖れありと警戒していたとこ  ろ納入額の1%を上納せよと言う要求を突きつけてきた。何故かと聞くと「ダイエーがやっているから」という。こ れは最早正常な取引でない、公正取引委員会に提訴すれば違反の判決が出るはずだがどうせ取引停止にな ること、ここが潮時と取引を止めた。下手すれば設備投資・人員拡張で過剰投資で経営破綻に追い込まれると ころであった。このときダイエーは危ないと思った。

  そしていまや中央卸市場の中で値決めは出来ず、市場の川上と川下で値が決められてしまっている。委託された商品の価格が仲買がフリーな立場で参加するセリによって民主的に公正に決定されてはじめて(少なくともこの原則が支配的である限り)そこが中央卸売市場だといえるのである。この機能が支配的でなければ同じ市場の建物(ハード)であっても、中身(ソフト)は中央卸売市場とは言えない。仲買はもはや死態で水産商品二次取次店に堕してしまっている。 だから私は「中央卸売市場は死んでしまった」と言っている。(個人的には、30年前にこのことを見通していたので、息子には店を継ぐのを断念させたし、自らも機を見て倒産する前にリタイアーしたのである。)  
 W−G−W や G−W−G は単なる物の交換・代謝関係だけではない、その両側に人間が居るのである。どちら側の人間が得するかと言うことである。「経済とは誰が誰を!」と言うことである。大抵の場合 一方が他方を圧して不等価交換を行うのである。「資本論」はここまで突っ込んで読まねばならない。マルクスを口にし「資本論」を説く人の果たして何分がここまで読んでいるのかナ。

 むかし細かい漁師が銘々魚を獲っていたが、自分で消費するだけでなく 金に換えるようになる。漁の技術が進むに連れて漁具・漁船が高度化しそれらを手に入れるには それまでより多くの元手(資本)が要るようになる。終には漁師の手には負えなくなって、資本を出してくれる人に頼るようになる、つまり網元資本の出現である。網元は複数の漁師に網を、漁船を現物で貸そ与えて、漁獲物は独占的に支配し売り捌く。網元は商業資本であるが、生産を支配して漁業資本(産業資本)の性格を兼ねる。網元は産地に資本の支配を伸ばす、集中した生産体系(技術は手工業的なものでマニュファクチュアという)を持つから、集中マニュと言える。漁場でしかも沖合いで獲れた魚を買い取る「沖買い」をしたり、浜へ揚がった魚を買い集めたりする産地仲買が産まれる。それらが荷主となって雑喉場へ出荷するのである。荷主は漁師の階層が分化して比較的富裕な漁師が荷主となる。雑喉場へは瀬戸内をはじめ紀州、伊勢、山陰、九州等から荷が集るようになる。消費地大阪近辺の人口が増加して集荷量が増え より広い遠い範囲から魚が集るようになる。漁業技術の高度化は産地の網元では手に負えなくなり、雑喉場の資本に頼らざるを得なくなる。雑喉場の問屋は方々の産地に漁船、魚網、燃料などのかたちで資本を卸し、その生産を支配しその漁獲物を独占的に出荷させ従属させることになった。あちこちの産地の漁業を支配する資本を問屋制資本と言う、また前貸し問屋とも言う。問屋制資本は彼方此方に散らばる生産体制を総合的に支配するから分散マニュファアクチャー資本と言える。商業資本でありながら生産を支配しその技術は手工業的あるので前期的(資本制生産の前段階の)資本と言われる。マルは(大洋漁業)も雑喉場の魚問屋「綿末商店」に従属した産地仲買の一つであった。(私の生家 魚問屋「大勘商店」には後に大をなした淡路の漁業会社の発行した借金の証文が反故となって沢山あった。また資本投下した漁船の船卸の時の大漁旗があった。桂ざこば師匠の襲名披露の時 記念にその大漁旗の一琉を贈ったことがある。  他方問屋は傘下に仲買(その多くは問屋の番頭の独立したものが多かった)を従属させ支配した、また売掛金を貸し付けることによって仲買・小売商までも支配した 雑喉場王国とまで言われた魚問屋組合17軒は徳川政権の庇護の下に 対立市場ができると大阪城代の権限で弾圧してもらい、替わりに上納金を増額してきた。明治政府になっても雑喉場の鼻の先にあった西の政府(大阪府庁)の顎の下に入っていた。日露の役以後大阪一円の人口は膨張し、資本制漁業会社(マルは、日水、日魯など)が興り、雑喉場に集まる魚は溢れ、市場の南側の橋の上や路上に 立ち売り業者(仲買)が増加し、そこにあった大勘商店を中心として南雑喉場魚市場が出来た、この雑喉場魚市場にとっての場外アウトサイダー市場は後進性の強い競争力で旧市場を圧倒する勢いであった。丁度その頃お上から中央卸売市場が提案され、それに飛びついたのが 旧問屋筋であったとみられる。大正11年に制定された中央市場法は 実は商工省や農林省など経済関係省ではなくて 治安関係省である内務省が提起したものであった。つまり警察のお仕事であったわけ。1917年(大正8年)に起こったロシア社会主義革命とその影響下におきた米騒動に脅えた内務省が日本人の主な副食物=農水産物を統制下に置き、有事?に際しては戦時下の食料の安定供給を図ったのである。「市場法」は初めから統制法であったのである。経済統制法の嚆矢をなすものであった。 かくて 雑喉場、天満、木津の三市場に加えて南雑喉場市場の四市場が統合されて中央卸売市場になったのである。兎に角これで半封建的問屋制度は無くなり、問屋はその暖簾を新魚会社に売って廃業した。農水産物の卸売り段階は近代化された。新魚会社は内実 旧魚問屋の番頭が半独立採算制で売り場を主管し 元 問屋の傘下にあった仲買を半ば支配下に置いたままであった。封建遺制は大戦後も続いた。仲買が完全に独立した業者となったのは昭和30年代になって若手の仲買が「青年経営者協会」を組織して、仲買協同組合と業界の民主化運動を起こしてからと言えよう。