弥八「大阪人」に載る −−2001年11月号 「大阪人の素」
{ 反骨の芸を貫くなにわの新内語り }
「亡ろびゆくから新内はうつくしいのです」
江戸の伝統芸を百歳までつずけた
故岡本文弥は言った。
文弥の弟子の・弥八さんは「亡びの美学」に
マッタをかけて、こう言う。
どっこい、大阪に新内あり」と。
新内流し十余年
いまの若い世代は新内いうものをどの程度わかっているのだろう。いや、程度以前にそもそも新内を知っているのか、不安になったので、試しに三十前半の友人たち(十人程)からアンケートを取ってみた。<新内>と書いて「これを何と読むか」−−。
自信をもって<しんない>と答えたのは二人だけだった。おおかたは初めて見る言葉だったようで<しんない?>と語尾上げの回答。もちろん内容については何も知らない。なかに一人<しんうち>と読んだ女性もいた。まあ、確かにね。しんうち(真打)は寄席言葉だし、寄席で新内を語った柳家三亀松という芸人もいたのだから、縁つずきといえばそうなんだけれど。
で、かく申すわたくしも、まともに新内を聴いたことはこれまで一度もありません。
−−正直にそう言うと、弥八さん、邦楽にとんと疎い素人に新内の歴史をレクチュアしてくださった。
新内、正しくは新内節。一中節に源を持つ浄瑠璃の一種で、江戸二百年の伝統芸といわれる。一中節の流れを汲む豊後節から派生したものが常磐津、清元、新内であり、これを豊後三派と呼ぶ。おもしろいのは常磐津、清元が歌舞伎と手を組んで高尚な音曲をめざしたのに対し、新内はあくまで男女の情念の世界を遊女の哀れを謳い、ひたすらわが道を突き進んだということ。いわば邦楽界における一種の異端で、正統派から蔑まれ、それがまたバネとなって独自の美学が生まれる。反骨、反権力に関しては筋金入りの古典芸能なのである。そうしたバックボーンをもつ新内に惚れこむだけあって、岡本弥八という人物はなかなかの粋人であり、風狂の人である。
「新内という芸は一段高いところでやるような芸ではないんです。」三味線を爪弾きながら遊里を流し、いくらかの投げ銭をいただく新内流し。あのスタイルこそが本筋だという。
「新内から流しを抜いたら何も残らない、というのがアタシの考え方でね。それくらい流しというのは重要な要素です。もともと日本の芸能のはじまりは大道芸でしょ。流し、門付けというのが芸能活動の本道。新内は、その伝統を純粋な形で受け継いでいる芸能なのですな」
その伝統を守るべく、弥八さんは昭和五十/六十代にかけてミナミの盛り場、陋巷(ろうこう)を流した経験をもっている。
「あの頃はまだあちこちに細い路地があってね。三味線を弾いていると、反響してええ音に聞こえる。カラオケの時代になってましたけど、かすかに浪花情緒は残ってました」
「ときたま一万円札を懐に入れてくれる酔客もいました。そやけど一万円も語れない(笑)。そうかと思うと、橋の上から十円玉をほうってくれる人もいる。十円も一万円もアタシにすれば一緒でね。お金を投げて聴いてもらえるのが有難かった。新内の稼業は地べた。地べたが一番。物事は地べたで考えたら間違いおません」
文弥師との出会い
川口町、雑喉場の生まれ。家業はタコを専門に扱う「大勘」という魚問屋の大店。四人兄弟の二番目であった弥八さんは、のちに「大勘」の三代目を継ぐことになる。幼少時は芸事好きであった父松次郎の義太夫と太棹を
子守唄に育った。この松次郎という人が豪快な遊び人で、当時の堀江の花柳界で名を馳せたお大尽。後年わが息子をつかまえて「どや、ちょっと儂の極道は後継げんぞオ」と見得をきったという。父親が義太夫なら母親は琵琶と日本舞踊、両親そろって芸事好きときているから、夜ごとわが家はドンチャン騒ぎ。「そんな家庭に育ったら芸事に進まにゃしゃあない」といった環境だった。
江戸堀小学校に入学した昭和五年、四級上に六代目(松鶴)がいた。「朝雑喉場の寿司屋で一杯ひっかけてから学校に通ってた、というのがあの人の自慢でね」。そのとき六代目、小学校五年生。ウソかホントか、のちの芸風を髣髴させる逸話である。三十代で小唄の田村派に入門。本格的に三味線を習いはじめたのは四十に手が届くかという頃、三味線豊吉門下の豊茂に師事し、職場のサークル「中央市場合唱団」で日本民謡のグループを率いた。両親のDNAを継いで芸事に励む一方、家業に手抜かりはなかったというから立派なものだ。
ざっと生い立ちを列記してみたが、紙幅に余裕がなく書き切れないのが残念だ。弥八さんが語る往時の雑喉場の人間模様などは、古きよき浪花の一景として別の機会に紹介したいほどである。
さて弥八さん五十一歳のとき、昭和四十九年に新内の師・岡本文と出会う。当時、東京から大阪に住まいを移していた文弥師の新内を聴き、すぐさま入門した。
「その頃、八十になってましたが、なんとも粋で、ハイカラで、艶っぽい人でしたな」。今里に稽古場があり、十二、三人の弟子がいた。その弟子たちも一風変っていて、「宝塚音楽学校のピアノの先生とか阪大の文学部長とかね。色街の看板屋の大将やら落語家の息子・・・なんせオモロイ人間が多かった」
百一歳で亡くなるまで現役を通した稀代の新内語り岡本文弥をご存じだろうか。反家元制度を標榜し、新内を「卑賤美の芸」と位地ずけて遊女のあわれ、哀しみを切々と語った反骨の人。あまり知られていないが、反戦を唱えた「西部戦線異常なし」朝鮮人慰安婦を題材にした「アリラン」などの創作新内を物したリベラリストでもあった。
それまで聴いていた新内に較べると、ちょっと上品な味わいでね。とくに声が良かった。文弥師に出会って芸に対する厳しさ、芸事の本質というものを教わりました。それに、アタシは人間文弥が好きだったんです。芸そのものより芸能精神を教わったとおもてます」
幼い頃から芸の下地をたっぷり貯めこんでいた弥八さんは、翌年には名取りとなり、文弥師から「弥八」の名を許される。ミナミを流して芸を磨いたのはとうどその頃のことである。
芸で固めたこのからだ
「では、ちょっと、さわりを・・・」
取材なかば、新内を聴いたことのない素人が相手で歯がゆく思われたのだろう、代表的な新内「蘭蝶」の一節を語りはじめた。弥八さんは今年七十八歳になるが、とても恰幅がいい。三味線をかまえた所作になんとも言えない色気がある。しかも、ポニーテール。これがまた、カワユイ芸人に年はないな、とつずく思う。よく通る裏声のはり、感情を抑えた節まわし。新内の良さが素人にわかるはずもないのだが、わからないままにフーッと気持よくさせてくれる。ああ、弥八さん、芸の肥やしが利いているな、と思った。
「オモロイことゆうた人がいます。新内はちっちゃなオペラやと。まず文学ですな。語るべき本があり、それを音楽で色ずけしていく。読解力と音楽的センスが必要です。そのうえで芝居を構成する演出力が求められる。文学と音楽と演劇を総合したもの。オペラの一人語りですな」
文弥師は新内のなかに「亡びの美学」をみていた人で「かってあった大阪新内はもう廃れてしまった」と言ったそうだ。「そやけどアタシは本当にええもやったら亡びませんとゆうたんです。弥八がいる限り大阪の新内は亡びない、いまはそうおもてます。アタシの新内は文弥から教わった文弥節が基本ですけど、大阪新内の精神も受け継いでいるつもりでおります」
「やっぱり芸どころは大阪です。すべて芸事は大阪から発信してきた。大阪にはもともと芸を育てる土壌、厳しさがあります。その厳しさに耐えたもんが一人前の芸人になれたんです」
芸事は一生もの。とりわけ、いまはその情緒さえ嗅ぎとることのできない遊里の世界を、男女のやるせない愛を三味の音にのせて語り継ぐことは至難の技であろう。孤独な芸道を突き進む弥八さんの姿勢に大阪人の心意気があらわれている。
撮影のために無理を言って連れだした法善寺で、弥八さんは快くポーズをとってくれた。粋な浴衣姿で横丁に立つと、さすがにピタッとキマる。「つねりゃ紫 食いつきゃ紅よ色で固めたこのからだ」という小粋な都々逸があるが、弥八さんの立ち姿からは、芸で固めた艶っぽさが匂い立っていた。

