朝鮮戦争と日本
-日本の朝鮮戦争にたいする人的協力を中心に-
                   吉岡吉典<編注1>
現代朝鮮論 頸草書房 藤島宇内・畑田重夫編  1966年発行に掲載

  
  一 朝鮮戦争と警察予備隊
  ニ  アメリカでの日本軍募集論議
○三 日本人の戦争参加
  四 「在日韓国人」義勇兵
○五 朝鮮戦争と占領軍労務者
○六 日本人による兵員物資輸送
○七 各種労働者の動員
○八 看護婦の召集

  ○の本文を掲載

三 日本人の戦争参加
 朝鮮戦争勃発にさいし、日本政府は、日本人が義勇兵として朝鮮戦争に参加することは憲法の建前から許されないという見解を公式に表明した。
 しかし、この反面、岡崎官房長官(朝鮮戦争当時)の「米軍の出動が国連の讐察措置である以上、一部の人が占領軍の命令によつて戦闘行為その他に従事することは当然であるという一九五〇年七月一日の記者会見での言明<原注4>のように、日本政府は「国連軍」の名の米軍の命令による日本人の朝鮮戦争参加は公然とみとめた。
 こうしてアメリカは、朝鮮戦争開始とともに、日本の領土、全産業を朝鮮戦争のために利用しただけでなく、マーフイ自身も認めているように多数の日本人を朝鮮戦争に動員した。その主なものは直接の戦闘員としてより輸送その他の戦争要員としてであった。
 しかしながら、今日なおその全容は明らかにされていないが、多数の日本人が戦闘員としても朝鮮戦争に参加した。米軍と日本政府はこれを否定しつづけたが、この事実は朝・中人民軍側が、しばしば指摘し、抗議したところである。
 朝鮮戦争開始直後の一九五〇年七月六日、朝鮮民主主義人民共和国人民軍総司令部はつぎのような発表をおこなった。
 「人民軍部隊の進撃に狼狽した敵は日本軍国主義者共を参加させている。水原東方で殲滅された敵屍体の中から三十余名の日本人将校が発見された」と。<原注5>
 同年十月十四日には、朝鮮民主主義人民共和国外桐が、国連総会議長およぴ国連安保理事会議長にたいし、「朝鮮動乱に数百名の日本兵が参加している」と通告、国際法、国連憲章違反だと非雑した。<原注6>
 たとえばまた「ワシントンニ日発UP=共同」によると二十五年十一月二日の極東委員会でソ連代表ウラジミル・バズイキン氏は、日本軍が朝鮮戦線で米軍に使われていると非難した声明をよみあげ、「朝鮮の軍事行動で日本軍が米軍に使用されていることはポツダム宣言および一九四七年六月十九日と同四八年二月十二日の極東委員会の決定に違反する」と抗議した。<原注7>
 このような日本人の朝鮮戦争参戦にたいする朝鮮、中国の抗議はあげればかぎりないほどである。
 またたとえば、一九五二年九月十七日、日本の国連加盟問題審議中の国連安全保陣理事会でマリク・ソ連代表も数々のアメリカは日本人を国連の名のもとに不法な戦争に利用していると非難した。<原注8>
 この国連安保理にオブザーバーとして出席していた村上公使は記者団に「マリク・ソ連代表は日本の警察予傭隊が朝鮮に送られ、すでに死傷者も出ているというが、それはまったくウソである。一名といえども日本人が朝鮮で殺された事実はないし、讐察予傭隊が巨済島に派遣されたという事実もない」と語った。<原注9>しかし、「一名といえども日本人が朝鮮で殺された事実はない」というのは日本政府自身が認めていることともちがう。このことはあとでのべる。
 国連軍捕虜のなかに日本人がいたことはたとえば一九五一年十二月十八日、朝・中人民軍と「国連軍」との捕虜交換合同委員会で人民軍側の示した「国連軍」の捕虜名簿中に日本人がふくまれていることでも明らかである。「共産側記者団」が述べたところとして報道されたところでは、
タニヤマ・ヨシオ(米第二十四師)
ツイ・キョヒト(同)
ヤスイ・タツクニ(同)
の三名の名前があげられている。<原注10>
 日本人捕虜について、「板門店にて八月十八日金宗淵特派員発朝鮮中央通信」は「アメリカ帝国主義者は日本軍閥を朝鮮戦争に利用しているー日本人捕虜、朝鮮申央通信社記者に語る」と題するつぎの通信を伝えている。
「アメリカ帝国主義者は朝鮮戦争を挑発したのち、かれらの占領下にある日本の頒土と港湾を侵略戦争のための陸海空軍の基地として利用したばかりでなく、かれらの庇護のもとに再生されている日本の軍需工業とともに日本の人的資源までも朝鮮人民に反対する侵略戦争にくりだしてきたということは周知の事実である。
 吉田政府をそそのかしてアメリカ帝国主義者が再生されている日本軍閥を朝鮮戦争に積極的的に動員させた犯罪的事実は、今般送還されるいわゆる国連軍捕虜のうちにふくまれている日本人捕虜たちの談話によっていちだんとあきらかに、あばきだされている。記者は某宿常所にとどまっている二名の日本人捕虜筒井清人(山口県下関市出身、当年二十三歳)と安井竜文(大阪府布施市出身、当年二十五歳)に会ったがかれらはアメリカ帝国主義侵略軍隊に参加して朝鮮戦争に出動してから捕虜になるまでの経過について語った。
安井は一九四九年末、アメリカ軍第二十四師団六十三部隊に編入されて朝鮮戦争がはじまった直後、自分の所属していた六十三部隊とともに朝鮮戦線に派遣されたが、かれが所属していた部隊だけでも数十人の日本人がいたという。日本人をアメリカ軍に編入させる徴集事業は各府県または市の行政機関を通じておこなわれ、府県、市、行政機関の推せんがあった者のみがアメリカ軍に雇傭され、月給は日本の貨幣で三千円であった。
 アメリカ帝国主義は雇傭した日本人たちを朝鮮戦争開始前までは軍隊内で炊事員またはその他の、雑役に使用したが、朝鮮戦争が起こってからは、軍隊内でも重要な位置につかせた。安井は、白分がアメリカ軍に参加したあとの経過についてつぎのように語った。
『わたくしは朝鮮戦争がはじまったのち、すなわち一九五〇年九月二十三日、大阪府でアメリカ軍に参加し、アメリカ軍第一師団第十一連隊第二大阪捜索隊に配属されて朝鮮戦線に派遣されたのち、偵察任務にあたるようになった。アメリカ軍は日本人の容姿と顔が朝鮮人とよく似ているので、われわれに"国防軍〃の服を着せて偵察隊に使用し、わたくしの属していた第十一連隊だけでも数十名の日本人が捜索隊に雇傭されていた。わたくしが一九五一年九月四日に捕虜になるその時まですなわち朝鮮に派遣されてから一年間に第二大隊捜索隊に所属されていた七名の日本人のうちわたしだけが生き残ってあとはみんな犬死にした。われわれを捜索隊に利用しながらもアメリカ軍はわれわれを人種差別待遇をした。捕虜になつたのちわれわれは朝・中側から優待されたが、アメリカ軍捕虜たちは同じ収容所内にいながら、われわれに差別的態度であたった。捕虜になってから二年近くの生活は、他国である朝鮮にきて日本人がなんのために犠牲になる必要があるかということをあらためて考えざるをえなかった。アメリカ帝国主義と吉田一味にだまされて朝鮮にまでひきずられてきたことを後悔したし、わたくしをだました連中をうらんだ』。
 筒井と安井の談話は、アメリカ帝国主義者が、日本を自分らの軍事基地として利用することにとどまらず、日本人民を侵略戦争の大砲のえじきに、すでに利用しているという事実をいっそうはっきりとバクロし、立証している。<原注11>
 日本人の朝鮮戦争戦死者について、日本政府が日米合同委員会でアメリカとその補償について協議した事実もある。戦死者は東京都港区赤坂北町二ー五、ペンキ業平塚元治氏の長男重治君で、一九五〇年十二月十六日平塚元治氏が外務省を通じてマツカーサーあてに出した遺骨と遺品の内地送還、国連軍兵士としての戦死の確認、補償金または慰謝料請求の上申書によると戦死にいたる経過はつぎのようになっている。
 重治君は一九五〇年一月二十日旧麻布三連隊跡の米騎兵第一純団E八中隊にペンキ塗りに呼ばれ、そのままま帰つてこなかった。中隊は三月二十日神奈川県座間に移りここで手紙の事務をとっていた。六月中旬母親が面会に行ったときは富士山に演習に連れて行かれていた。その後重治君と一緒に中隊で働いていた友人の話で、七月十日、米軍の制服を着、中隊とともに朝鮮に渡ったと聞いた元治氏は驚いて警視庁に届け、ついで法務省で内地送遠の手続きをとった。ところが十月十日中隊長ウイリアム・マリクレーン大尉夫妻が高原勇一通訳を同遣「重治君は八月三十日南鮮某基地付近の戦闘で相当数の敵兵をたおして戦死した。白分は十月十三日戦地にもどるが、重治君とともに戦った生残りの米兵二、三人をつれて帰りさらに詳しい事情を話す。重治君は国連軍将兵として手続するから待っているように」と話した。
 これにたいし一九五一年三月十九日、マツカーサーから命じられたとして副官のブッシュ代将から「重治君は日本占領当局が全く知らない間に当局の承認なしに国連軍兵士に変装し密航したものでい、九月四日南鮮の死者の中にいたことは確認されている。重治君の死亡場所は在長朝鮮軍当局の許可しないところで埋葬地や所持品はわからない」とあった。
 外務省は一九五二年八月十九日の日米合同委員会で平塚元治氏の訴えにもとづき、この問題について戦死確認と米軍からの見舞金を要求する覚書きを出した。<原注12>
 平塚重治君の死亡事件を報道した翌日の「朝日新聞」は「同じようなケースは大分県にも三人あり、このほか家族にはわからないでいるままのものもあるのではないかと外務省ではみている」と大分県の例を報道している。大分県の三人とはつぎの人びとである。
 別府市海門町一班 吉原嶺文氏 一九五〇年七月、別府駐屯米騎兵第十九連隊コックとして同部隊とともに朝鮮に出動して消息をたった。
 津久見市下青江 越智英一氏 米軍別府キャンプに勤務中吉原嶺文氏と同行して朝鮮に渡って消息不明。
 大分郡鶴崎町 橋本忠二氏 同様に朝鮮にわたって消息不明。
 越智英一氏の妻澄子さんが外務省を通じて調査してもらったところ一九五二年十月十四日極東軍司令部から日米合同委を通じて「いろいろ手をつくしたが不明である。同君の場含国連軍兵士として参加されるべきものでなく、あくまでも一兵士の個人的勧誘によって無分別な行為をとったもので、その兵士に対しては懲戒処分に付すべき性質のものである」との返事があった。<原注13>
 これは二、三の例にすぎないが、日本政府白身が日本人戦死者についての交渉をおこなっていたのだから、日本人の朝鮮戦争参加者はなかったとは絶対にいいきれない。同時にアメリカは日本人を戦争にかり出し戦死したあとは、″犯罪人扱い″したことを忘れてはならない。
 小山内宏「朝鮮戦争とヴェトナム戦争」(雑誌「日本」)によれば「驚くことは国連軍の損害中、日本人の戦死四十八名、捕虜三名さえあったことである」<原注14>とある。
 朝鮮戦争に参加した日本人は陸上だけでなく、海上から空軍にまでおよんだ。たとえば空軍関係旧軍人で現在日航の幹部K氏は朝鮮戦争がはじまった一九五〇年の冬、鶏鳴杜(戦後、翼を失ったパイロットたちが元田中飛行学校長田申不二雄を中心に組織していた団体)という発信人の電報を受収って、朝鮮戦争に参加したとつぎのような事実を明らかにしている。
 「電文は『ヒコウキニノレルスグコイ』というのだった。田中式の所にGHQのオコンネル中佐とV・コステロ大佐が来て、人員の召集を頼んだ。これはGHQの最高命令だ、飛行機操縦士の再訓練をせよ、月四万円から五万円出す。まず五人集めろ、飛行時間四千五百時間以上の経験者で人選は極めて優秀な者に限り、秘密を厳守せよ、と云った。そこで田中不二雄、中尾純利、佐竹仁、森田勝一、崎川五郎氏が集められた。集合場所は新橋の地下鉄駅前で、午後一時に行くと、ジープが迎えに来て、検須賀海軍病院へ連れて行かれた。そこでは異常なほど厳重な検査を受けた。七月三日、採用合格通知が来たが、森田勝一氏だけは適性失格で、結局、四人が合格した。七月四日、厚木へ連れて行かれた。白動車内は米士官たちが取囲み、日本人作業員や米兵に見せぬようにしていた。最初、リンク・トレーニングからはじめて訓練を受けた。用語が分らなくて困った。『コンタクト・ウエーザー』とは何のことか分からず、のちになって『有視界飛行』と納得するような始末だった。日木人には絶対に会うな、と云われた。食堂にも行けなかった。訓練後、平塚市の一軒家に隔離された。一月九万円を貰い、年二回、ボーナスが十万円ずつ出た。二十六年一月から、B26,B17などでマニラ、台湾、京城などへ空輸作業に使われた。これは朝鮮戦争が終るまで続けられたが、何を運ばされたか分かつていない。自分たちがやったことは絶対にしゃべってはいけないと厳重に念を押された。」

五 朝鮮戦争と占領軍労務者
 朝鮮戦争に参加した日本人が果たしたもっとも大きい役割は輪送と補給関係であった。これは直接砲火をまじえる戦闘行為ではないが輪送に当たった船員は現在ベトナム侵略戦争に参加しているLST<編注2>船員同様に、直接に米軍輸送隊に編入されて戦争遂行上重要な役割りを果たし、またPD<編注3>工場に働く多数の日本人が朝鮮にわたって兵器の整備補給に当たった。
 もちろん朝鮮に渡って働かされたものだけが朝鮮戦争に参加協力したわけではない。日本の国土、日本の産業がすべて米軍の第一級基地として、兵器廠として利用され、大部分の日本人が直接、間接に軸鮮戦争に動員されたわけであるが、いま直接米軍に雇傭されて働かされた占領軍常傭労務者数をあげると別表の通りである。
 表が示すように朝鮮動乱を契機に占領軍労働者の数は急増し、二六年六月一日現在では二十九万六千八百九十八人となっている。もちろんこれがすべてではなく、臨時やその他の必働者があった。
 急増したのは事務系統ととくに技能系統が目立っている。
朝鮮戦争でもっとも大きい影響を受けたのは港湾荷役関係であり、「とりわけ朝鮮への輸送最短距離にある門司港を中心とする福岡県における港湾関係役務は総動員され、従来横浜セカンド・メージャーポート(2nd Maijor Port)所在の極東地区司令部の支部として神戸に置かれていた軍側出先機関が新たに門司にも設置され、これを根拠に朝鮮向け軍需品の活発な輸送、荷下し(米本国からの輸送物資は一部門司港埠頭倉庫に陸揚げされた)等が行われた。この処理に当たって当時の福岡SPBは多忙をきわめ、小倉監督官事務所の増員と併せて新たに門司に同派遣所を設置するに至る等の事態を招来したのである。TOSCO関係役務(TOSCOとは輸送燃料

 朝鮮戦争前後の占領軍常傭労働者数<原注19>
系統別
年 月    総数  事務系  技能系  宿舎系  船員・水先案内系
25年5月 217.942  73.505  114.904  27.604   1.929
   6月 216.943  73.407  113.919  27.709   1.908
   7月 218.181  73.436  114.163  28.695   1.187
   8月 237.470  80.097  126.880  28.226   2.267
   9月 243.509  84.503  129.215  27.405   2.363
   10月 259.831  89.453  140.680  27.047  2,651
   11月 264.209  92.044  142.575  27.846  2.734
   12月 271.415  93.787  148.667  26.314  2.647
26年1月 271.415  95.718  146.749  26.340  2.608
   2月 279.680 100.260  150.402  26.168  2.850
   3月 282.954 104.160  150.707  25.948  2.885
   4月 288.449 107.418  152.910  24.948  3.173
   5月 293.273 110.627  154.718  24.631  3.297
   6月 296.898 112.719  148.299  32.598  3.282
   7月 226.173  81.528  140.923    980  2.730
各月一日現在,常傭のみ                

類の集積地で米本国から輸送された燃料のタンクヘの保存施設を有し、その荷役、その他施設のオペレーションおよびメンテナンス等を含む役務をいう)においても、重要軍需物資として横浜および佐世保地区の同施設はフルに活動したものである。」<原注20>
 車両修理再生役務は稼働時問が急激に上昇し、一週間四十四時間制であったものが、朝鮮戦争勃発以来一日二十四時間制、三交代制の稼働となった。車輛修理再生役務といっても、車輛に関係あるタィヤ・チューブ類の修理再生から、小銃・機関銃・高射砲等の兵器類の修理を総称するもので、その主なものは東京を中心とする京浜地区および一部を名古星、大阪等においてPDにより実施され、兵務部関係としてBIG5、第229部隊関係技術部関係としてBIG9、第598部隊関係にわかれていた。<原注21>
 BIG5のメインエ場である追浜プラント(講負業者は富士モータース)および第229部隊関係デポーの所沢プラントにおけるモーター・プール所属運転手は命令による輪送に従事し、モーター・プールを出発し約二、三日間位所属施設に帰還せずに働いたという。<原注22>
 このようにPDによる役務調達の労働者は「白動車、重機甲車、重車輛、鉄道車輛等の車輛修理役務関係PDによる要求が急激に増加その他弾薬庫の運営、兵器(なかんずく小銃、追撃砲弾等)の梱包・輸送・保管、ドラム缶の修理、JOSCOの貯油所受払作業等の需要が活発となり、また荷役作業、艀回漕<編注4>、機帆船<編注5>、水先案内等の港湾関係役務が急増している。
 また事変を反映して作戦用韓国地図の印刷、伝単の印刷、韓国航空写真の複製役務、韓国向け放送の実施も、弗契約と並行してPDによって要求されたのである。<原注23>
弗契約?
 当時の米第八軍司命官リッジウェイ大将は本国帰還後、回想の中で、「日本におけるPD調達による車輌修理および再生役務の実績なかりせば、朝鮮事変は三ヵ月間も維持できなかったであろう」とのべている。<原注24> 朝鮮戦争で日本が果たさせられた役割りがいかに大きいものであったかはこの一語をもってしても明らかである。
 しかも以上みてきたのはPDによる役務調達だけであり、いわゆる朝鮮戦争特需といわれた土嚢用麻袋、毛布、綿布、衣類など繊維関係、トラック、鉄道貨車、蒸気機関車その他の車輛、乾電地などの運輸機械類、ナパーム弾用タンク、航空機燃料タンク、有刺鉄条鋼柱、有刺鉄線、鋼製組立家屋、ドラム缶、燃料タンクなど金属製品などの兵器軍需品生産に従事した日本人労働者はふくまれていないのである。
 六 日本人による兵員物資輸送
 いまのべたところはPD調達による日本国内での米軍雇傭労働者についてであるが、これらの占領軍雇傭労働者の中には、調達庁史が「朝鮮作戦向け兵帯弾薬等軍需品その他の積載、輪送、警備、附帯事務等の兵站補給作業に従事したものも相当数にのぼったと推定される。一方朝鮮海域において勤務する船員や特殊港湾荷役等に従事する者に対しては、勤務の特殊性、危険性にてらして、SPAは連合国軍関係船員給与規程の外に新たに連合国関係特殊港湾荷役者等給与規定を制定し、昭和二十五年七月二日以降従来の給与のほかに特別の手当を支給した。」と書いているように、<原注25> 朝鮮にまで出動して米軍の作戦に直接参加したものも多数あった。
 しかも、調達庁の発表によっても三百八十一名の死傷者が出ている。調達庁の公表によるこれらの「特殊作業に従事した者のうち、二十六年一月までのあいだに、死亡、負傷、業務上羅病した者はつぎのとおりである。<原注26>
 (a)特殊港湾荷役者=業務上死亡‐一名、業務上疾病-七十九名、その他-二十一名(うち死亡者三名を含む)。計-百一名。
 (b)特殊船員=業務上死亡-二十二名、業務上疾病-二十名、私傷死-四名、私傷病-二百八名。計-二百五十四名。
 (c)その他朝鮮海域等において特殊輸送業務に従事中死亡した者-二十六名(港湾荷役-四名、船員-二十二名)
 わずか半年間の公表されたものだけで五十数名の戦死者があったのだから、朝鮮戦争全期間に戦死あるいは負傷した日本人の数はかなり大きい数にのぼったであろう。
 いわゆる「国連軍」の輸送部隊として日本人が果たした役割りについてのべよう。
 朝鮮戦争当時、商船管理委負会会長だった有吉義弥はその回想記「占領下の日本海運」でこのことをつぎのようにのべている。
「朝鮮事変の全期間を通じて、商船管理委員会所属の各船は、非常に忙しい思いをした。それだけ国連軍の活躍に貢献したわけであったが、これも船隊の大部分を占めるLSTが、大型の軍需機材の輸送や、僻地海辺の陸揚に理想的であったこと、日本人の乗組船員が朝鮮沿岸の隅々の地の理に精通していて、米国から遥々やって来た本国船員よりもずっと役に立'ったという理由による。
 仁川上陸のような大作戦があると、末永権六君など真っ先に連れて行かれて、現場の監督をやる。水船、工作船、動力船などの整理も担当させられると、徹夜作業でやり上げてしまう、というように万事に役に立った <原注27> 」と。
 朝鮮戦争の全期間を通じて米軍の軍事輸送に当たった日本人乗組みのLSTは約五十隻、乗組員は約二千名といわれている。このLSTは船長以下全員日本人船員が乗組み、佐世保、神戸、横浜から朝鮮のあらゆる港に向かって部隊、戦車、車靹、兵器その他の軍需物資を運んだ。そして仁川上陸作戦や、興南撤退作戦などにも参加した。
 当時LSTに乗組んで軍事輸送に当たったA氏(横浜在住)に仁川上陸作戦、興南撤退作戦に参加した体験を語ってもらおう。
 仁川上陸作戦とは「国連軍」と李承晩かいらい軍が人民軍によって釜山周辺地区まで追いまくられたとき、マッカーサーがこれをまきかえすためにおこなった奇襲作戦で、一九五〇年九月十五日、マッカーサーは太平洋におけるその全兵カならびに他の地域或の兵力の一分まで動員し、戦艦ミズーリ号以下七ヵ国の艦船二百六十一隻(その国別内訳は米国一九四隻、英国一二隻、オーストラリアニ隻、ニュージランドニ隻、フランス一隻、韓国一五隻、日本人乗組米船三二隻) <原注28> それを支援する軍用機五百機以上、四万人以上の兵力を投入した大規模な作戦であった。
 この仁川上陸作戦の部隊輸送に当たったA氏はつぎのように語っている。
「仁川上陸作戦に参加した日本人乗組みのLSTは五十隻。故障中のものもいそ
ここまで校正済み
いで修理して全部参加させた。これらのLSTは仁川上陸作戦の一週間ほどまえに神戸に集結され、米軍が接収していた港の岩壁につけた。そこへ第二次大戦で南方の作戦に参加した実戦経験をもつといわれる海兵隊の精鋭が一万五千トンの大型輸送船でテキサスからやってきた。この米海兵隊は神戸で輸送船からおろされ、戦車、車輛などとともに全部LSTに分乗させられ、朝鮮に向かった。LSTは全部まとまって船団を組んで出帆したが、米海兵隊員も、指探官も、船長も、船員も行く先は知らなかった。沖縄近くで急にコースを北にかえた。そこではじめて仁川上陸作戦に向かうのだと聞いた。船団のまわりを米、英、カナダの艦隊が護衛していた。その護衛している駆逐艦が仁川上陸作戦のことを連絡してまわった。米兵も、われわれ日本人もぴっくりした。そのころ釜山もあぶないときだったからである。
 仁川上陸作戦の前日仁川沖に結集した。そして上陸をまった。第六艦隊と航空機で激しい仁川攻撃をやった。そして翌日上陸した。われわれもそのあとで仁川港外の月尾島に上陸してみた。このときは上陸作戦がおわるまで一週間いてこの作戦に参加した」 <原注29>と。
 この上陸作戦のさい機雷原掃海のため旧日本海軍軍人が参加したこともよく知られたことである。それだけでなく、この上陸作戦そのものが、旧日本軍軍人の助言によるものだといわれる。

 興南撤退作戦とは、三十八度線を突破して鴨緑江近くまで北進した「国連軍」にたいし中国人民義勇軍の支援のもとに朝鮮人民軍が反撃に出たとき、大敗退した「国連軍」部隊が興南を徹底的な焦土作戦で破壊した作戦である。
興南撤退作戦は一九五〇年十一月二十七日から計画され十二月八日命令が出され、十一日から米第一海兵師団の主力が撤収を開始し、それから十二日間つづけられ二十四日に完了した。この間興南橋陣地から海路撤去したのは米第十軍団の米第一海兵師団、米第七、第三師団、韓国軍部隊あわせて十万五千の兵員と避難民九万一千、車両一万七千五百、資材三十五万トンにおよびダンケルク撤退作戦以来最大の撤退作戦であった。この撤収のため百九隻の輸送船がのべ一九三往復した。
 これを「成功」させるため、朝鮮海域にあった米第七艦隊艦船全部が興南沖に縞集し、撤退作戦援護のための艦砲射撃をおこなよい、直経十六キロに縮少された興南「防衛」陣地の周辺に弾幕を張って、人民軍の進出をはばんだ。戦艦ミズリー号も四〇センチ砲をうちこみ、米海軍がこの作戦でついやした砲弾は約二十万トンにおよんだ。また空軍も出動し、米海軍第七機動隊および海兵隊空軍はのべ六千回出撃した。 <原注30> 興南撤退作戦がどんなに大規模なものであったかが察しられよう。
 日本人船員の乗組むLSTはこの興南撤退作戦でも大きい役割を果たした。
 A氏はこの興南撤退作戦に参加した体験をつぎのように語っている。
 「興南から敗退撤去する″国連軍″部隊を海上から撤退させたのもLSTだった。私の乗ったLSTをふくめて十隻のLSTがこれにあたった。興南の沖合には米第六艦隊が停泊して朝中人民軍に艦砲射撃を加えているなかを日本人の乗組むLSTは興南に接岸して、米兵、韓国兵、民間人を収容してつぎつぎ南朝鮮の釜山近くまで運んだ。何回もこれを繰返したが、すぐ山まで人民軍がきていた。収容する順序はまず白人兵、ついで黄色人の韓国兵、そのあとが黒人兵だった。」 <原注31> と。
 朝鮮戦争の軍事輸送に参加したのはLSTだけでなく、占領軍調達史も明らかにしているように、調達庁が雇傭して米軍に提供した船員が、C1型とよばれる三千トン級の海軍貨物船、三干トン級のタンカー、小型のひきぶね船、FSとよばれる小型貨物船、LCM、LSMとよばれる小型上陸用舟艇などに配船され、戦争に参加協力した。その数は占領軍調達史では常備船員約三千名となっているが、一番多いときには神奈川県内だけで三千人ぐらいもおり全国では一万名にも達するだろうといわれている。このうち多いときは神奈川の船員だけで二千名ぐらいは朝鮮にゆきっきりで現地で輸送、警備、水先案内などにあたったといわれる。さきにふれた「戦死者」はこの作業中機雷にふれたりなどして死亡したものである。
 日本人労働者のなかには「いいもうけがある」とだまして朝鮮までつれていかれたものもいた。その一人B氏の話を紹介しておこう。
 「朝鮮戦争がはじまったころ小さな町工場に働いていたが、たまたま『職安にゆくと金になる仕事があるそうだ』といううわさを聞き、どんな仕事かも知らないまま、近くの職安に行ってみた。すると東京の五反田職安に行けと紹介状と電車賃をもらった。五反田職安に行ったら十人から十五人くらいまとめて職員が横浜の新港ふ頭につれていき『港内での船内荷役作業だ』といって大桟橋の八千トンくらいのアメリカの貨物船に乗せた。
 ところが職安職員の話とちがって、そこで毛布一枚と下着類、食器類をあたえられ、そのまま朝鮮につれていかれた。家族に連絡する方法もないままで。この貨物船には百五十人ぐらいの日本人がいた。日雇い労働者がおもだった。五日問横浜港の沖に停泊していた後、行く先きも知らないまま出港した。着いたところは仁川沖だった。ここで貨物船につんである弾薬箱や兵撚を満載したトラヅクなどをLSTに積みうつす仕事だった。アメリカの仁川上陸作戦の軍事物資の輸送、荷役でこの作業が十日近くつづいた。
 これがおわると横浜にひきかえし、こんどは一万トンぐらいの米輸送船でもう一度仁川に行った。これには千人以上の日本人労働者がのっていた。仕事は前回同様貨物船から弾薬箱やトラックをLSTにつみうつしたり、LSTから他の貨物船に弾薬をつみかえたりすることだった」。 <原注32>
 この話によってもどんなに多くの日本人が朝鮮戦争に参加、協カさせられたかがわかる。
 なおこれら日本人船員のあいだでさまざまの抵抗があったことも指摘しておこう。

 七 各種労働者の動員
 日本人労働者は海上輸送だけでなく、陸上での兵器の整備、修理、通信関係業務等のために、PD工場、LR工場からの出張という形で朝鮮にもおくられた。鉄道専門員も朝鮮に渡って戦争に協力させられた。その実態は明らかにされていないが、南朝鮮の各地に送り込まれたとみることができる。これは一九五二年中ないし一九五三年はじめごろまでつづいたものと思われる。なぜなら釜山地区の国連軍当局は一九五二年十一月八日、国連軍が当時朝鮮戦線の補給業務に使用している日本製設備と日本人労務者を米国製設備と韓国人技術者に切替える計画に着手し、国連軍要員日本人は引揚げさせる方針を明らかにしているからである。<原注33>                                                                              新聞報道によれば、これは李承晩の「戦争突発当時の混乱のため国連軍司令部は当初日本人技術者、労務者の使用を余儀なくされたが、今や韓国人の技術者と労務者を使用すべきである」という要請にこたえたもので、二、三ヵ月中に日本装備と日本人技術者を引き揚げることを計画しているとある。 <原注34>これがこのまま実行されたかどうかは別として、この時期まで日本人労働者がいたことはこれによっても明らかである。
 なおこのとき「韓国」政府が明らかにしたところによれば韓国人技術者は一定の訓練をうけたのち、発電所、とくに発電船の操作、釜山の製氷工場、京城およぴ大邱の電話局復旧、済州島の発電所建設の監督、海港における淡水補給輸送船、釜山、仁川、および群山の各港におけるサルベージ作業、仁川、馬山、群山および釜山における浚渫作業、印刷工場の設置、監督などに派遣されるとあり、 <原注35>これは日本人技術者、日本人労務者との切替えとみられるから、日本人の配置さきはこのようにひろい地域におよんでいたと推定することができる。

 米軍は電通労働者も朝鮮戦争に動員した。すなわち、一九五〇年七月、使用不能になっていた福岡ー対馬ー釜山間の「日韓間海底ケーブル」を朝鮮戦争で使用するため、米軍は総司令官覚書にもとづく総司令部通信命令で海底ケーブルの新設や修理を命じた。当時電気通信省は布設(=敷設)船千代田丸、釣島丸を出航させ、電通労働者に占領軍命令でその作業を強制した(修理の経費は米軍負担)。労働者は「決死の覚悟」で危険な復旧作業に当たらされたが、こうして復旧された海底ケーブルはその後米軍専用ケーブルとして使用されている。
 その修理作業時の模様を釣島丸(一一〇〇トン、乗組員六九人、釣鳥丸工事隊二〇〜二五人)に乗船して海底ケーブル新設に当たらせられた穴田開三氏はつぎのように語っている。
「昭和二十五年七月頃始めて釣島丸が朝鮮に行き海底線をひくことになりましたが、この時私は、こんなところへ行って生きてかえれるかと思い、その時貰った支度金や危険手当給料などをこの世の名残りだと思って東京や大阪でやけくそに全部使ってから出航したのです。その時の嫌な気は忘れられません。私は釣島丸が日本の領海で仕事をする船だと聞いて乗船したので、朝鮮へ行くなどとは、その時まで毛頭思っていませんでした。
 その航海では護衛艦がつき、哨戒機がたえず飛んでいましたが、釜山の近くについて仕事をしていると、韓国の警備艇がやってきて、工事現場を写していた鈴木工事長に日本語で『どこからきた、何しにきた』と警備兵が尋ねました。その讐備兵は鉄砲をかまえて居り艇の機銃などをこちらにむけていたので、どうなるかと思い、もうお終いかと感じました。鈴木さんは『日韓ケーブルを米国の依頼で新設にきた』というと、先方は『それなら何故写真をとった。講和条約もできていないのに、領海に入って、韓国の軍艦をとるのは不法だ』というので鈴木さんが『軍艦をとったのではなくて新設工事状況を報告するためにとったのだ』と答えましたが、どうしても納得しません。それで先方は『写真をとった者を軍法会議にかけるから連れて行く』ときかず、全くこちらは困ってしまったので、釣鳥丸にのっていた米軍の将校に頼んで『この船はケーブル船で、安全な船だから、そんなことはない』と繰り返し説得して貰いましたが、いうことを聞かず、とうとう写真を渡すことにし、鈴木さんは、米国の将校に写真機を渡し、将校がフィルムをぬいて通訳に渡し、通訳がそれを感光させて韓国兵に渡したので、漸く逮捕もされずにケリがつきました。
 私は終始側でこの様子をみていましたがどうなることかと気が気でなく、鈴木さんも私たちも逮捕されるのではないかと思いました。日本の船は日本の領土と同じだと聞いていましたが米国の将校がいなかったら、どうにもならなかったと思い、本当にみじめな気がしました。その後も、朝鮮海域に行ったとき、韓国の警備艇につけられたりしたことは聞いていますが、機関室の勤務で船の下艦の方にいるので、目撃はしていません。」<原注36> と。
 千代田丸も修理に従事しているとき、国籍不明機に銃撃される事件が起きるなどきわめて危険な状態のなかでケーブル修理の作業に当たらされた。同船に乗船してこの作業に従箏した五十嵐実氏はつぎのように語っている。
「昭和二十五年七月頃 <原注37> 千代田丸が壱岐を出て朝鮮に向って出航してからのことです。私が朝起きて、ブリッヂの下からタラップを上ってサロン、の前に行ったとき『バ、バ、ババーン』と空気のさけるような大きな音が近くにしました。私はサイパンなどで機銃掃射をされた時の経験から、機銃だと直ぐ分かったので、とっさに身をすくめてしゃがみまし一た。暫くして、音がしないので右舷側の甲板に出てみたら、乗組員が五、六人物かげに身をひそめていました。空をみると遠くに飛行機が一機みえ、爆音がしていましJ/こが、飛行機の型やマークは分かりませんでした。私は本当にびっくりして助かってよかったと思いました。」
同氏はさらに
「昭和二十五、六年のことと思いますが、釜山の裏側の『ガンナン』に千代田丸がケーブル修理のため碇泊していました時に、私たちが内火艇で作業中小銃で射たれたことがあります。横坂さんが艇長で私ともう二人が内火艇にのり『ガンナン』の湾内で探線作業(艇の後に電線をつけてはしり、海底線のきれた箇所を探す作業)に従事して居りました。艇が『ガンナン』の陸揚地に徐行して接近して行ったとき、突然『シューウ』と弾のとおる音がしたので、思わず私は頭をかがめて、キャンバスのカバーの下にもぐりました。少しの間、こわいのでもぐっていましたが、そっと頭を出して、横坂さんに『今の弾だね』といったら、横坂さんは『大丈夫だ』といいました。それでも私たちはこわいので、仕事をやめて急いで本船に戻りました。
 湾は山に囲まれています。又陸揚地には鉄条網があって韓国の武装兵がいましたが、弾がどこから飛んできたのか、誰がうったのかは分かりません。」 <原注38>と。
 なお千代田丸(一、八四九・五四トン最大搭載人員二一五名)の乗組員の配置状況は、甲板部三二名(内五名士官)、機関部二九名(内五名士官)、司厨一四名、事務部五名、船医一名でありまた、千代田丸工事隊には二三名の職員が配置されていて、協カして、作業をおこなう。この他千代田丸には独立機関として千代田丸無線電報局(局長および局員二名)が設置されている。 <原注39>
 千代田丸はその後、朝鮮戦争下昭和二十八年二月にも「日韓間海底ケーブル」(第三区間=長崎県棚木ー「韓国」池浦)工事に出航している。
 八 看護帰の召集
 朝鮮戦争には日赤看護帰も「国連軍」看護帰として召集された。日本はこの面でも朝鮮戦争に協カさせられたのである。
 共産党の苅田アサノ元議員が国会で明らかにしたところによれば、一九五一年九月二十六日の日赤第五十六回通常総会で島津忠承社長は「二十五年からはじまった朝鮮事変にたいして、日赤看護婦の派遣要求があったので本杜はこれに全面的に協力し、九州地方の各支部から第一次五十四人、第二次二十五人、第三次十七人を交替派遣し、現在六十三人が国連軍病院に勤務いたしております」と演説している。<原注40>注40
 全日本赤十字労働組合連合会のパンフレット「三矢作戦下の日赤」には召集された一看護婦Mさんの朝鮮戦争当陣の回想がのっている。それはつぎのようなものである。
「昭和二十五年のある秋の夜中、寄宿舎で寝ていたところ、突然インターホンで呼びだされ、『赤紙の召集令状』を渡された。中には、日赤県支部長(知事)の名で、何日の何時までに支部までこいという内容のことが印刷されていた。
 指定の日、指定の旅館についたら、同じ支部から一六名がきていた。いろいろと疑問を抱いた自分は、支部の日赤参事(当時参事殿とか書記殿と呼んだ)に対して、″身分保障はどうなっているか″と追及したところ、それに対しては逆に″これほど名誉なことはなく、そんなことを云い出すのはおかしい″と云われ、さらに″みんな粉骨砕身してくれると思ったのに″と、さかんに日赤精神を強調された。とくに支部長(知事)は、″日赤のめんつを立ててくれ、他の支部は全部行ってる手前もあるし、身分保障については、責任をもって検討する″という約束もした。こうして戦時服装をさせられ、″戦地に向かう気持で行ってくれ″と軍歌『ほづつのひびき』までうたわされてから、無理やりの形で列車にのせられ、博多に行き、直ちに米軍博多キャンプに収容された。
 医者は全部アメリカ人。召集された日赤出身の看護婦だけが看護婦としてアメリカのナース(陸軍看護婦ですべて尉官以上)の指示をうけて働いた。
 ほかに、全九州から約千名がきていたといわれていたが、日赤出身以外は補助婦としての仕事しかさせられず、その区別は厳密だった。なお日赤以外の看護婦は応募の形で集められたもよう。
 これら何百人という看護婦は、日赤出身もふくめて全部一部屋に入れられた。軍隊用の簡単な折りたたみ式のベットが見渡すかぎりつづいて、カーテンもなにもしきりというものがなく、まるみえの部屋だった。
給料はわりあいよかつた。当時の国立勤務の待遇以上であったことはたしかだ。三交替制で、患者は全部アメリカの軍人で、韓国人は一人もみかけなかった。なお負傷者、病人には黒人兵が多いのもめだった。
雑用は一切やらない。それらは全部アメリカの衛生兵がやったので、仕事そのものは楽だった。
(中略)
因みにコック、雑役に従事する男の日本人が何百人かいた。それも別棟の大きな部屋にひとまとめで起居させられていた。手術室に配雄された自分のみた範囲では、手術は凍傷、骨折、性病が多く、骨折はパラシュートで降下したときのケガであったように思う。しかし、手術室も日本人の入れない範囲があって全部をうかがい知ることはできなかった。
 こうして召集され、応募の形で集められた看護婦の中には、米兵のオンリーとなったり、身をもちくずしてだらくしたものが多かった。後日、日赤支部に対して、こうした仲間たちの状態について保障を要求したが、支部は″なにもパンスケになれと頼んだ覚えはない″とこたえた。(以下略)」
 博多キャンプだけで約千名の看護婦がきていたというから全国ではかなりの数にのぼる看護婦が米軍に動員されたであろう。
 日赤は朝鮮戦争勃発と同時に米軍協力体制をとったのである。開戦直後の一九五〇年七月二十日付「日赤新聞」で伊藤副社長は「朝鮮問題と日赤の進む遣」と題するっぎの談話を発表して、救護班派遣、医薬品輸送などの方針を示した。
 「日赤が戦傷病者や一般戦災者救済のため救護班を派遣するということは人道主義から当然である。また韓国人の一部から熱烈に希望もでている。生活様式も著しい相違がなく、言語も容易に通ずる日赤救護班が歓迎されることは当然であろう。
 ただ朝鮮は南北とも赤十字条約に加盟しておらず、派遣救護員への条約上の保障がないので、日赤としては現地資任当局の何らかの保障をとりつけておきたい。また派遣員に対する食糧の調達、宿舎の準傭等も整えておかねばいけないし、医療薬品、衛生材料の輸送も事前に十分な見透しをえておきたい」と。
 この方針が日赤看護婦の赤紙召集となったのである。日赤はこのほか、朝鮮戦争開始半月後の七月十日には横浜港から止血剤、強心剤など三トンを韓国赤十字あてに送り出したのをはじめ、「国連軍」将兵のための献血運動などさまざまの医療協カをおこなった。
 一九五〇年九月二十八日には、国民運動として献血運動を開始したが、米侵略軍に日本人の血液を提供する大宣伝のために、献血第一号にときのミス日本山本富士子、第二号にボクシング界の王者ピストン堀口といわれた堀口恒男、つづいて経済安定本部の周東長官、岡崎官房長官、同夫人、さらに自由党、民主党、社会党の代議士を動員して献血させ、国民に、それにつづくことを求めた。
 同年十月五日号の「日赤新聞」は「国連軍将兵に日本人の血を捉供し、感謝と協力の意を示そう」とよびかけた。
 今日しばしば問題になる「血液銀行」 <編注6> も朝鮮戦争のなかで生まれたのである。
連合車司令官リッジウエイは日赤あてに「日赤は朝鮮動乱勃発いらい重大な危機にさいして、米国赤十字及びその軍事福祉活動のために物資と人員を供給して熱心な協カをしめした」とメッセージを送って感謝を伝えた。<原注41>
 以上朝鮮戦争における日本の人的協力についてのべてきた。このほか日本は米軍の作戦基地となり、日本の工業は米軍の兵器および軍需物資の生産と修理のために全面的に動員された。
 日本はアメリカの全面的占領下にあり、朝鮮戦争参戦国になっていない。もちろん朝鮮戦争に派兵した「国連軍」十六ヵ国のなかにはいっていない。しかしながら朝鮮戦争で日本が米軍に協力して果たした役割は、わずかの兵カを派兵した「国連軍」参加国よりもはるかに大きいものだったのである。        


 それはアメリカの高官がいろいろと言明しているように、日本の協力なくしては朝鮮戦争は不可能だったとはっきりいいうるほどの大きい役割だったのである。

 原注
注4 一九五〇年七月二日、「産業経済新聞」
注5 「日刊建設通信」、一九五〇年七月七日号
注6 「朝日新聞」一九五〇年十月十六日
注7 「朝日新聞」一九五〇年十一月十四日
注8 「朝日新聞」一九五二年九月十八日
注9 同右
注10 「朝日新聞」一九五一年十二月十九日
注11 「朝鮮通信」一九五三年八月三十一日号
注12 「朝日新聞」一九五二年十一月十三日
注13 「朝日新聞」一九五二年十一月十四日
注14 一九六五年七月号、六〇ぺージ
注20 調達庁『占領軍調達史ー部門編ー役務ー』二四六ぺージ
注21 同右書、二四七ぺージ
注22 同右書、二四七ぺージ
注23 調達庁『占領軍調達史ー基調編ー』五七七ぺージ
注24 同有書「役務編」二四七ぺージ
注25 同右書「基調編」五七五〜五七六べージ
注26 同右書五七六ぺージ
注27 『占領下日本の海運』二〇ニページ
注28 「朝日新聞」一九五〇年九月十七日
注29 筆者、聞きとり
注30 「朝日新聞」一九五〇年十二月二十六日
注31 筆者、聞きとり
注32 同右
注33 「朝日新聞」一九五二年十一月九日
注34 同右
注35 同右
注36 昭和三十一年二月米軍が使用中の「日韓間海底ケーブル」(第ニケーブル)に障碍が発生、米軍の要求で電共公社は、布設船千代田丸を「李ライン」内に出航させて修理に当たらせようとしたのにたいし、電通労組木社支部は生命の安全と危険手当を要求、公杜はこの要求に応ぜず、組合が千代旧丸の出航を拒否したため、本社支部の三役が解雇された。この千代田丸事件の裁判資料の穴田氏陳述書
注37 この銃撃事件について、昭和二十五年七月といっている人も何人かあるが、千代田丸機関長として乗組んでいた河井正見氏は二十五年八月二十七日午前七時五十分頃、壱岐、野北間の朝鮮海峡第一区
間第ニル…トの修理に従事していたときといっている。同右、河井氏陳述書
注38 同右五十嵐氏供述調書
注39 三十二年当時海底線施設事務所長木村光臣の陳述書、同右裁判資料
注40 衆議院厚生委員会議事録、一九五二年六月二日
注41 「日赤新聞」一九五一年五月十七日、「医療協力」については全日赤労組「三矢作戦下の日赤」に
よる。

 編者注
注1 吉岡吉典氏は赤旗編集局長を経て、現共産党参議院議員
注2 LSTとは米軍の戦車揚陸船のこと、Landing Ship Tankのこと
注3 PDとは調達命令、占領軍命令のこと
注4 艀回漕→はしけ船(陸と停泊中の本船との間を往復する小舟)による運送
注5 機帆船→発動機(機関=エンジン)と帆を備えている小型船
注6 阪南中央病院労働組合のHPを参照せよ      薬害エイズの部屋

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