ひとり言

アルバム魚拓眺めつつ 良かった昔を思い出し ブツブツブツひとり言 (2003-09)
釣の話はもう止めよう 自分史的な出来事を思い出してはひとり言 (2005-03)

 

  

ひ と り 言

54

  獅子身中の蚊と蝉

06-07-31

 

  

 

51

  麻雀 Ⅳ

05-10-05

 52

  同窓会

06-06-10 

48

  麻雀 Ⅱ

05-06-27

50

  麻雀 Ⅲ

05-08-27

47

  愛車列伝-13台

04-09-24

48

  麻雀 Ⅰ

05-03-22

45

  飲酒運転 Ⅰ

04-09-06

46

  飲酒運転 Ⅱ

04-09-08 

43

  駐車違反 Ⅰ

04-08-05

44

  駐車違反 Ⅱ

04-08-06

41

  スピード違反 Ⅰ

04-07-11

42

  スピード違反 Ⅱ

04-07-12

39

  カラスとの150日 Ⅲ

04-06-04

40

  ホンダ S600

04-06-12

37

  カラスとの150日 Ⅰ

04-04-08

38

  カラスとの150日 Ⅱ

04-05-05

35

  年末ジャンボ宝くじ アタッタ!

04-01-10

36

  ソフマップの値札毎日変わる?

04-02-11

33

  ヌで始まりチヌで終わる

03-08-03

34

  西野

03-11-10

31

  串本大島の危ない

02-10-24

 32

  8.28 羽越水害

02-11-28

29

  奄美へのダッチロール

02-09-15

30

  日振島の海を渡ったねずみ

02-09-23

27

  セルのコチドリとハネ

02-08-06

28

  佐渡の民宿「ニタリガイ」

02-08-29

25

  セルのコアジサシとの180日 Ⅰ 

02-07-15

26

  セルのコアジサシとの180日  

02-07-21

23

 甲浦と宍喰のクラセ

02-03-24

 24

  愛車ボロボロ

02-05-31

21

 甲浦の救われた?クエ

02-03-03

22

  甲浦のウニえさ

02-03-21

19

 チヌと水中カメラ  Ⅱ

01-12-04

 20

  阪神大震災の日 新日鉄奥

02-01-17

17

  島廿日市 白バイ 51km

01-10-26

18

 矢櫃で落ちて真っ赤か

01-11-02

15

 徳島 オービス 70,000円

01-08-22

16

 運転免許試験場の長い1日

01-09-27

13

 茨城県鹿島港  (人名救助

01-07-10

14

 香川県蔦島  (人命救助

01-07-26

11

 粟島の蚊

01-06-18

12

 日置の蚊

01-06-22

 磯釣りと酒

01-05-30

10

 津田のおじいさん

01-06-04

 粟島の30年前

01-05-15

 粟島の磯撤収

01-05-19

 チヌと台風

 

 奄美大島の接待

 

 チヌと水中カメラ

 

 チヌの成長

 

 チヌの日本記録

 

 チヌの性転換

 

 

 

 

 


    釣りに関してのことわざで「鮒で始まり鮒で終わる」と云うのがある 自分も海辺で育ったのであるが10歳の頃は やはり野池でミミズで鮒を釣ったこともあるが あくまでも海が荒れて行けなかった時の事で エサのヤドカリ持って漁港近くでチヌの子を釣っていた ウキはそこらに落ちている木っ端を結んで サオは七夕の翌日海に流した笹を拾い 枝を自慢の「肥後の守」で落としただけの簡単な物である 釣り方はエサを落して足元の砂をどんどん撒いて海を濁し寄せて釣る 秋口には10cm程度のチヌがよく釣れた また漁師の息子が親父から伝馬船を借りた時はキス ベラを釣っていた 瀬戸内海は干満の差が3m程あるので 出発は漁港からは潮が満ちて来ないと出られない その間にエサのヤドカリを採り これを割る為の小石を各自持って船に乗る 釣った魚は同じ生け簀に入れるので尾びれの上下 胸びれ等を各自噛み千切って印を付けて生け簀に放す 自分が釣った魚を持ち帰るので 下手な子はそれなりの量しか持って帰れない
    話を元に戻すと「鮒に始まり鮒で終わる」とは子供の頃は近くの小川や野池で釣りを始め 磯釣り 船釣り等いろんな釣りをやった後 年をとったので近くの釣堀でヘラブナの繊細なアタリを楽しむと云う感じだろう 自分の場合はこの年になり 磯釣りも止め船釣りもしなくなり 近くの堤防でチヌのフカセやシラサでのウキ釣りに替わり 短気になったせいか ウキを集中して見続けるのが面倒になっていた時 落し込みでのチヌ釣りを教えてもらった この釣方は目印が沈む間のせいぜい20秒 程度を集中していればいいので 自分には向いるのだが最近では2-3時間が限度である 足腰弱くなっても釣りたければウキ釣りでやはりチヌを狙うかもしれない ならば
    「チヌで始まり チヌで終わる」と云うことになる

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    昨晩西野と久し振りに難波で会った。今日競馬で12万円勝ったとのことで、テッチリを法善寺のすし半でご馳走になった。
    この男とは45年来の友人であるが現在東京で住んでいる。会社をやめさせ仕事も一緒にやったが、この事は彼のキャリアに汚点になっているかと思うと、すまんと思っている。
    釣り・競馬・旅行・麻雀・パチンコ・酒・等々 遊びはいつも一緒であり、思い出話に話がはずみ、出た言葉を書き出してみる。

    競馬・・・・
    トウメイ・タニノムーテイ・グレイトヨルカ・ルピナス・スズガーベラ・ファインローズ・キングスピード・キーストン・ヤマピット・シバフジ・コクセンプー・カブトシロー・等々(この男ナンバイチバン・イチシャチホマレで万馬券とっとる)
    釣り・・・・・
    奄美大島・隠岐・田井・甲浦・日振島・出雲崎・串本大島・三木里・大引・等々
    旅行・・・・・四国一周・九州一周・三方五湖・大台ケ原・等々
    その他・・・赤玉ポートワイン・
    雷光・福助・どんぞこ・いらぁしゃまぁせ・東海倶楽部・国士無双・カンロク・トイトイの徳・タイメンの豆腐屋・タータガスのトンダ雨山・関西本線今宮駅・
    ちんまん・等々

    西野は今日は沖縄に跳びゴルフの予定、全国の競馬場10箇所全て回ったらしい、今年定年で時間はあるし年金は入るし、嫁はんとあっちこっち旅行しまくってええなあ羨ましい。

    写真 左奄美大島 右日置             top

  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

    昨年12月14日天王寺に買物に行った帰り、地下街で宝くじの売り場が目につき、年末ジャンボ宝くじを33枚購入した。初体験である。家に帰り机の奥深くしまい込み、蛇の夢を見ようと頑張る。これは宝くじが当たる秘訣とは「何か用事のついでに買う、机に大事にしまう、蛇の夢を見る。」であると何かで読んだからであった。蛇の夢を見ようと思っても見られるもんではなく、見ないまま抽選日の大晦日になった。

    当せん番号をPCからダウンロードし、ワクワクドキドキコソコソ調べると
    アタッタアタッタ!ラッキー賞1万円
    嫁はんに当たりくじを自慢しながら見せ、当選番号表を渡した。最初の袋を見て「アタッテルで!」の声、なんと
    ラッキー賞が二枚もである。嫁はん今年は大阪駅前第4ビルで、思い切って66枚も買うとる、気合が違う。嫁はん期待しながら残りの袋を次々開けていったが、結局当ったのはこれだけであった。嫁はん毎年ジャンボくじを30枚買うとるけど、当たったのは3,000円が最高であるが、今回は二人で99枚、購入金 29,700円 当選金 30,900円 儲け 1,200円。 これは1億円いや2億円が近づいてきたのかも、今年はいけるで億万長者になれそうな気がする、これはえらいこっちゃでほんまに!

    今回初めて買って感じた事は、300円・3000円・10000円を当てようと買うたのではない、あくまでも1億円がねらいなのである。これらの等級を廃止し、全て2等 1億円にした場合を計算してみると、1ユニットで1億円が10本増え11本に、今年の年末ジャンボ宝く
    じ発売枚数は約 7億6266万枚であるから 760本が増え、1億円以上の当せんは 914本になるのである。
    下記の表は、上段が1ユニットの当せん本数で下段は今回発売の76ユニットでの当せん本数を示している。

1ユニット  発売枚数1000万枚、発売総額 30億円、賞金総額 14億2990万円  (47.66%)

今 回 規 定

5・6等・ラッキー賞を無くした場合

等   級 賞 金 本 数 賞金総額

当選確立

賞 金 本 数 賞金総額

当選確立

1 等

2億円 1本 2億円 1/1000万 2億円 1本 2億円 1/1000万

前後賞

5000万円 2本 1億円 1/500万 5000万円 2本 1億円 1/500万

組違賞

10万円 99本 990万円 約 1/10万 10万円 99本 990万円 約 1/10万

2 等

1億円 1本 1億円 1/1000万 1億円 11本 11億円 約 1/91万

3 等

100万円 10本 1000万円 1/100万 100万円 10本 1000万円 1/100万

4 等

10万円 100本 1000万円 1/10万 10万円 100本 1000万円 1/10万

5 等

3000円 10万本 3億円 1/100

6 等

300円 100万本 3億円 1/10

ラッキー賞

1万円 4万本 4億円 1/250

 


76.266
ユニット
発売枚数 約7億6266万枚、発売総額 約2288億円、賞金総額 約1090億円  (47.66%)

今 回 規 定

5・6等・ラッキー賞を無くした場合

等  級 賞 金 本 数 賞金総額 賞 金 本 数 賞金総額

1 等

2億円 78本 156億円 2億円 78本 156億円

前後賞

5000万円 156本 78億円 5000万円 156本 78億円

組違賞

10万円 702本 7020万円 10万円 702本 7020万円

2 等

1億円 76本 76億円 1億円 836本 836億円

3 等

100万円 760本 7億6000万円 100万円 760本 7億6000万円

4 等

10万円 7600本 7億6000万円 10万円 7600本 7億6000万円

5 等

3000円 760万本 228億円

6 等

300円 7600万本 228億円

ラッキー賞

1万円 304万本 304億円

 

飲んだ帰り天王寺のソフマップへリーダーライターを買いに寄り、店員に型番を見せると売場まで案内してくれた。パッケージに張ってある値札が3979円である 「メーカの定価が3200円やで、それより高いなあ」 「私どもでは毎日値段が変わっております」 「昼にソフマップのHP見て来たんやで、昼と夜ではあんたとこ値段が変わるんか?」 「ちょっと待って下さいレジで調べてきます」 その間他のパッケージ見ても同じ金額が張られていた。しばらくして店員 「今日は2879円になっています」 「そしたらこの値札はどうなってんの」 「これは昨日までの値段です」 ソフマップで長く買物したことがなかったので毎日値札が変るとは 知らんかった。(画像は証拠写真?)
ソフマップが日本橋にやってきた時(15年前頃)は、他店よりびっくりするほど安いのでよく行った。自分はソフマップの商売のやり方は好かんので行かなくなっていたが、5年前に息子の希望でザウルスへPCを買いに行った時の事である、4階でPC・プリンタ等一式買うと、台車に全て乗せて、「台車お貸ししますので自分で持って行って下さい」 「前の駐車場に停めているのでせめて1階まで運んでや」 「今店が混んでいますので行けません」 おまけに一言 「
台車を4階まで返しに来たら領収書を渡します」 自分の買物なら止めとるで。エレベータの前に付いたら防犯ブザーのデカイ音が鳴り、店員が飛んで来て何かを外した様である。頭が熱くなり顔が赤くなるのが自分でも解かったが、息子はソフマップをよく利用しポイントも集めているので大きな声も出さずにエレベータに乗ったことがあった。大阪の客も東京のやり方に慣らされてしもうて、和光デンキ・マツヤデンキ潰された。ニノミヤさんがんばってや。

 

 

鳥インフルエンザウイルスに感染したカラスが大きな問題になっているが、自分は20年以上前にカラスを飼っていたことがある。5月の連休に嫁の里で巣から落ちた、未だ産毛も生え揃っていない丸裸で異常にデカイ足と嘴をした、カラスの雛をもらったのである。いろんな野鳥は飼うたがカラスは初めてであるが、なんとかなるやろうと持ち帰った。暖房の為10wの裸電球を付けたダンボールの箱に入れ、九官鳥のエサを水に浸けて柔らかくし箸で与えた。1ヶ月も経つと産毛も抜け始め、翼も生えかけたのでベランダに1m弱の小屋を作って入れた。腹が減るとガアーガアーと催促するし、口の中にエサを入れてやるとガウガウと犬のような大きな鳴声を出し実にやかましい。6月末には産毛もとれ緑黒びかりした立派なハシボソガラスの成鳥になったが、エサは未だ自分では食べられない。小屋は開けっ放しにし、洗面器に水を入れて小屋の前に置いてやると、出て来てカラスの行水どころか丹念に水浴びをしとる。自分でエサも食えるようになり、子供等と屋上で遊んだり、近所の屋根に飛んでいったり、路上に降りたり一人遊びが出来るようになったので、もうそろそろ巣立ちかなと思っていた。朝早く何処かへ飛んで行き、腹が減るとエサを食いに帰って来たり、1日中近所で遊んだりしている。友達が出来たのか近くでは遊ばなくなり、そのうち朝出ると夕方まで帰らなかったり、時には夜中の10・11時頃帰って来てベランダの窓をコツコツと突付き部屋の中に入れろと催促もする。部屋に入れ、風呂に入ったりビールを飲ましたりして遊んでやったら、家の中の止り木に止まって寝ている。ある朝、8時頃近所の奥さんが「おたくのカーコチャン山阪神社で歩いてたよ」と言いに来てくれた。そこは家から1.5km離れた場所であるが放っとくわけにもいかず、車に鳥かご積んで捜しに行くと昨晩は夏祭りであったらしく、菓子の食い残し等のゴミが散らばっている。境内の高い木の上にカラスは居るが自分の顔を見ても反応が無く、「カーコ」らしいのは見つからない。車まで戻ると道路を歩いているカラスがいるので、「カーコ」と呼ぶと立ち止まったから、うちのカラスやろと手を出すと乗ってきたので持って帰ってきた。しかしあの奥さんなんでうちのカラスと気が付いたか不思議なことである。                                                             

 

 

 
カラスは賢い鳥であるといわれているがそれだけだは無い。 自分で石ころを空中から道路に落とし、それを咥えて飛び上がり又落とすことを繰り返しする遊びを考えたり、女子供の後ろから近づきかかとを突付く等のいたずらもする。 人間の顔は確実に覚えるし、エサをあっちこっちに隠したり、いろんな物の収集ぐせもある。
屋上には何処からか盗ってきたスリッパ・洗濯バサミ・ハンガー・石ころ・菓子袋等が散乱していた。 そこで
金儲けを思い付き、カラスに100円硬貨を咥えてきたら菓子を与える芸をしこんだらすぐ覚えたのだが、しかし翌日には飽きてしまったのか全く興味を示さない。
その他に拗ねるとか恨む等の感情も持っているように思っている。

ある日小屋の掃除をしていたら腕を突付かれたので反射的に
カラスの頭をたたいてしまった。 カラスはギャーと叫んで小屋を飛び出し何処かへ飛んで行った。 その晩は帰って来ず、翌日は朝から小雨が降っているのに、小屋には居ない、昼も過ぎ帰って来ないので叩かれたのを恨んで、巣立ったかなと思っていたら、晩飯を食い始めたとき、ベランダのすぐ前の電線に留まって部屋の中を覗いているのに気付いた。 嫁はんが「カーコ」と呼んだが降りて来ない、目を白黒させてじっと見ているだけである。 「カーコ」とエサを見せると、こちらに尻を向けて留まり直しアッチを向き知らん振りしてる、しばらくて裏の方向へ飛んだので裏の窓を開けると20m程離れた電線に留まりこっちを見ている、名前を呼ぶとやはりソッポを向き、無視をしているようなので自分も頭に来て窓を閉め飯を食い始めた。 しばらくして暗くなりかけた頃ベランダの電線に飛んで来て部屋の中を見ていたが、自分も無視してやったら何時の間にか居なくなっていた。

夜中にベランダに降りてガラス越しに覗いているのに気付き、開けてやると入って来た。 羽が雨に濡れて寒いのか振るえているので、
風呂に連れて行きカラス専用の大型洗面器に湯を入れてやると、自分が湯に浸かっている間は、いつもと違い静か温もって居る。 風呂から上がりドライヤーで羽毛を乾かしてやると、落ち着いたのかエサを食い始め、その後いつもの様にビールを飲ましてしばらく遊んでいたが、壁に作ってある止まり木で眠った。
こんな事があったのでカラスには感情があると自分は確信しているのである。

鳥インフルエンザで何処かの役所が大きな檻を何個か造り、中にエサを入れて捕まえようとしていたが、簡単にカラスが騙されるわけが無いよ、余りにも馬鹿にし過ぎてるよ。

 

  

犬猫を好きな人は多いけど、カラスの好きな人は少ないと思う。
「お宅の“カーコチャン”が昨日晩ご飯食べていたら、窓から入って来てテーブルに上がり、おかず突いたり食べたり
茶碗ひっくり返して帰っていったよ
「赤ちゃん寝かしといた二階の部屋に入ったら、布団の周り歩いておりびっくりした。もしもの事があったら怖いので、
カラスを小屋から出さんようにして下さい」
重い病人が寝ている家の屋根で、カアーと一声鳴いたら家族は気分悪いやろなあ」 等  いろいろ嫌味を嫁はんは言われており、ある朝郵便受けに差出人の無い封筒が入っていた。中にはチラシの裏に「山に返してやれ」と鉛筆で書かれてあった。
それでもいつか出て行くであろうと、小屋の扉は開けっ放しは止めなかった。

8月になって広島県福山の建設現場に、半年の予定の出張が決まっていたので出かけた。この現場は住宅街から離れており自然も多いし大阪よりええやろうと思い、現場事務所の窓に屋外にも出入口の付いた立派な小屋を作った。9月の始め頃に鳥かごに入れ現場に連れて行き、蒸し風呂のような事務所に入った。クーラーの電源を入れ、窓を全て開け放ち空気を入れ替えた。カラスも暑さと5時間の長旅と見知らぬ所へ連れて来られて、口を開けハアハア息づかいも荒く興奮している様子である。洗面器に水を入れて事務所の窓を閉めてカゴの扉を開けてやると、外に出てカゴの回りをしばらく歩いていたが、閉め忘れていた事務所のドアから飛び出し、
空高く東の方角に飛んで行った

それからは仕事の合間には探しに歩いてみた。夕方になると建設中の工場の屋上にカラスが数羽ほど集まっている、時間が経つとともに数が増えてそのうち、一斉に東方角に飛び立った。国道2号線を東に行けば直ぐ岡山県笠岡市に入る。海辺に面していてここでも海岸の石積み等に数羽ほど集まり遊んでいる様に見え、ここでもしばらくすると数羽ずつ集まって来て、十数羽の群れになり飛び立った。もう少し東に行くと
カラスが大群で夕方の空が真っ黒になるほど、やかましく鳴きながら小さな山の上を旋回している。ここがカラスのねぐらであろう。ここで感じた事、カラスは朝ねぐらを一斉に飛び出すが、数羽ずつ好きな餌場に飛んで行き、夕方になるとあっちこっちの集会場で落合った十数羽ずつがねぐらの山の上で集まり、大群になって騒いでいたのだろうか?定かでは無い。

これだけの数でもカーコなら自分を見分けられるであろうと何度もカラスの集会場に通ったが寄って来るカラスはいなかった。週末には大阪に帰っており、万が一にも帰って来るかと望みを抱いていたがやっぱり伝書鳩と違う、帰っては来なかった。

これがカラスとの150日である、近所の皆さんは安心したであろう。

  

 

1965-5-1 21歳の時、女友達と大阪を夜汽車で発ち松江に早朝に着いた。駅前のホンダレンタカーが開くまで松江城など見学し時間を潰し、店が開くのを待ち予約していた憧れのホンダs600と対面した。排気量606cc全長3.3m全高1.2m重量695kgでオープン2シーターの外装白・内装黒・幌黒とシンプルなデザインである。
s6は前年の1964年に50.9万円で発売され5月の鈴鹿のレースでは1位から6位まで独占した事もあり人気のある車であった。

店員に送られ国道9号線を西に向かった。この車は今までに経験のない出足及び加速であり、その頃は交通量の少ない片側1車線の国道をオープンカーで片っ端から追い越しながら突っ走るのは気持ちが良い。この日の予定は出雲大社・日御碕からUターンして県道431号線を経て関の五本松を巡り皆生温泉に宿泊である。
美保関から境港に向かうフェリーは、対岸にいるので手を振ると迎えに来てくれ、
筏の回りに手すりの着いた渡し舟という感じで、車を載せると船頭が竹竿で境水道を渡ったと記憶しているが、数年前来た時には境水道大橋が掛かっており、水道の幅は300m以上ありそんな事はあり得ない事だと解った。

翌日は皆生温泉を昼前に出て大山に向かったが途中スピードが落ちs6も辛そうであり、おかしいと車を止めて分かったのは、長い直線道路でかなりの勾配がついていたのだ。大山を降り鳥取に向かう頃から雨が降り出し、幌をセットした。
この頃は国道を離れると舗装されていない砂利道が多かったので、車内は砂埃だらけである。国道9号線を鳥取に向かって山道に入った頃、雨は土砂降りになった。その時クラクション鳴らしながらかなりのスピードで、挑発するように右側スレスレに追い越して行ったトラックがあった。しばらく走って道が右カーブを曲がった所であの
トラックが国道を塞ぐ様に横転しており、運転手がまだ中に居るのか姿は見えない。自分は面倒な事は嫌で、先程の事もあり、何事も無いように走り抜けた。後で気になり後悔している。

雨は一段と激しくなり、そのうち右肩が冷たく感じた。
幌の縫い目から雨が浸みこみ雫が落ちていたのだ。手ぬぐいで応急措置をしたが止まらない。夕方鳥取のホンダレンタカーに着いた頃にはシャツだけではなくズボンもビシャビシャに濡れていた。
この日は鳥取温泉に泊まり、翌日は汽車で大阪へ帰った。今回は憧れの通称s6が運転ができ良い旅であったが、次は名神高速で思いっきりアクセルを踏んでみたいとの思いは実現しなかった。
名神高速はこの年7月に全線開通し、通称ヨタ8と呼ばれた
トヨタs800が翌年発売された。

 

 

スピード違反も多かったが、特に印象に残っているのを書いてみた。

  1. 2001年  徳島市 オービス 30km 罰金70000円 運転免許試験所で長い一日

     
  2. 1966年頃 和歌山市 パトカー サイレン追走してスピード違反
    和歌山市では当時走っていた市電の敷石の上を、サイレン鳴らしながら走るパトカーを追走した。パトカーが突然スピードを落とし停まれの合図で、スピード違反の切符を切られた。
    当時はよく救急車や消防車を追走していたのだがパトカーはあかん事をはじめて覚え、二度とパトカーのケツは走らなかった。
    あのパトカーは緊急出動ではなかったのか、今考えてみると後方走る車をスピード違反で捕まえるのは、おかしな話で説教だけだったのかも知れない。
     
  3. 1967年頃 大阪市法円坂 ネズミ捕り 100円札200
    大阪市法円坂のネズミ捕りは年の暮れに発売間もない真赤の「サニー1000」に乗って、信号待ちをしていた。青に変わり右のトラックが先に飛び出しその後を走ったのにやられたのである。「トラックが先に行ったやろ、何でワシやねん?」警官「目立ったからや!」納得。
    罰金は2万円位(?)であったと思うが定かではない、その頃は法円坂に簡易裁判所が在りその日の内に判決が下り、罰金を払うので現在と変わらない。裁判はストーブの効いた部屋だったが、罰金払うのは寒い廊下で並ばされた。
    あらかじめ板垣退助の100円札を1枚ずつクシャクシャにして上着やズボンのあっちこっちのポケットに用意していたのを、自分の名前を呼ばれた時、ガラスの小さい窓口から全部放り込んだ。職員は200枚余りの板垣退助をゆっくり拾いながら「こんな事して気が済むんか?」自分「ちょっとはなあ!」一枚ずつ皺を伸ばし重し代わりに灰皿を乗せて数えていたが、「一枚多かったで」と百円返してくれた。ええ人やったんやこの人、悪いのはネズミ捕りの警官や。

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  1. 1969年  阪神高速 覆面パトカー 38km 神さまみたいなお巡りさん
    この時は母を乗せて新潟を早朝発ち、夜8時頃に豊中で名神高速から阪神高速に入った。空港方向から走ってくる車と、原因は覚えていないが抜きつ抜かれつの競争になり、環状線に入り相手は守口方面に向かい、自分は天王寺方面に入りスピードを落とした。
    本町出口付近でサイレンを鳴らして覆面パトカーに停められたが、何故停められたか分からなかった。年配の警官が降りて来て
    「98kmで38kmのスピード違反や」自分「出してない」警官「わしらは守口に向かった車をマークしていたら、あんたが豊中から割込んで来て競争しだしたんや、その時から追尾しており98kmはその時のスピードや」パトカーに連れこまれてメータを見せられたが、確かに98km出ていた。
    車検証・免許証を見た後、「この道路は”阪神低速“と呼ばれとるんや、この時間帯に、スピード・割り込み・左側追越し等、違反繰り返して事故が起こさんかったのが不思議なくらいや」全部見られていたのだ。広沢虎造のカーステレオを聞かせていた母に「息子さんの運転、怖かったでしょう」母「何時もこんなんです」と笑いながら答えていた。
    母の新潟見物・朝4時出発・道中土砂降り・16時間かかった等いろいろ聞かれた。年配の警官が「
    親孝行に免じて見逃してやる、事故せんように帰れよ」ウワー神さんや!仏さんや!(?)ワシ二度と交通違反せえへんで!と腹の中で誓った。運転していた若い警官が「98kmですよ、〇〇さん!」と不服そうに年配の警官に言っていた。
    この時代は人情味のあるお巡りさんも多かったが、今は事務的で違反は違反やで味噌も糞も一緒くたである。ちょっとはこっちの言い分を聞いてくれてもええちゃうの。
     
  2. 1970年  熊本市 ネズミ捕り 翌日 広島県廿日市町 白バイ 11km

     
  3. 1972年頃 阪神高速 パトカー 2車身追越し説教20
    これも阪神高速で、今と違いあまり車が多くない、この時代に四ツ橋を過ぎた頃全車線がいつもと違い同じ速度でゆっくり流れている。先端に出てみると道路の中央を一台のパトカーがキッチリ60kmで先導するように走っていた。自分は急いでいたので一旦後方に下がり、空港方面行きの左端の先頭に出てゆっくりとパトカーを二車身ほど追越した。もちろん65km以上は出していないのにサイレンを鳴らされ停められた。免許証・車検証を持ってパトカーに連込まれ20分ほど説教され、反則切符は切られなかったが人迷惑なパトカーであった。
     
  4. 1972年頃 香川県多度津町 パトカー おんぼろプリンスグロリア スーパー6
    多度津の時は深夜に丸亀港へフェリーで着く兄を迎えに行った時のことで,車は「コロナマークⅡGSL」である。
    泥酔して喚き散らす兄を乗せて、深夜の県道21号線を走行中、ライトを上目のままで後方をつけて来る車がある。ライトが室内を照らし眩しいのでスピードを落とし、追越せの合図を送った。その車は追い越しもせず一定の距離を保ったままついてくる。パトカーではないと判断し振り切ろうスピードを上げたが、距離は離れても相変わらずついて来る。今度は停車寸前までスピードを緩め又追越せの合図をしたら回転灯が回りサイレンが鳴った。
    プリンスグロリア スーパー6のパトカーで、一度は乗ってみたかった高級車である。クソッ狙い撃ちやられたと思っていると、警官はスピードが上がらず追抜けんかったと言った。その通り車内に入ると外見と違いおんぼろパトカーだったのを覚えている。
    自分のナンバープレートは新潟の“新”であったので警官が「新居浜か?」自分「新潟や!」多度津の警官は新潟ナンバー見たこと無かったらしい。

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  1998年 浪速区戎本町 PM506  信号無視  9000円   (浪速警察)
  1999年 浪速区日本橋 PM450 駐車違反 15000円   (浪速警察)
  2000年 徳島県松茂町 AM538 速度違反 70000円   (徳島県警)
  2001年 浪速区難波中 PM600 駐車違反 15000円   (浪速警察)
  2002年 浪速区敷津東 PM545 駐車違反 15000円   (浪速警察)

今手元に残っている反則切符は上記の5枚で毎年のように捕まっており、4枚が浪速警察でその内3枚が駐車違反である。
午後5時以降で交通量の無い裏道でやられ、今思えば国道26号線のような交通量の多い道路の方が良かったのだろうと思う、警察官も命が惜しいんやろうから。

駐車違反もスピード違反に比べて忘れられないのも多い。

1971年は東区北浜のK工業に出向しており、この頃始まった様に思うレッカー移動で5回持っていかれた。保管場所は東警察で1km程と後で書く西警察と違い、歩いても楽な距離である。
時間帯に依って取締まりの場所が変わるので、10時・昼飯・3時と見回って場所を移動していたのにやられた。
3度目やられた後は車の左を建物の壁にピッタリ寄せ、前は電柱にバンパーを付けて、ハンドルを右いっぱいに切って停めた。
東警察の駐車場で念入りに点検したが傷は付いていない。後に持って行く現場を見ていると、台車を車体の下に入れ持ち上げて引っ張り出すのでどんな停め方をしようが無駄である。
それならばと就業時間の二時間前に行き、ビルの玄関の駐車場に止めた。
ビル内の放送で自分の車番が呼ばれ直ぐ玄関前に来るようにと何度も放送されたが行かなかった。
仕事が終わり車に戻ると警備員がバケツで水を流している。「どうしたのですか?」警備員「あんたの車から
ガソリンが漏れて危険なので、朝から洗い流しているんや、何度も放送していたのに聞いてなかったんか?」「すいません、知りませんでした」
この駐車場はビルから道路に向かって下り勾配になっており、昨日ガソリンは満タンにしてので前向きに駐車していた為給油口から漏れていたのだった。
この年の暮れに観音寺市の商店街で買物を済まして車に戻ると、後ろに路線バスが停まって長い行列が出来ている。この狭い道路にバスが走ると思っていなかった。お巡りさんも来ていたが、ひどい渋滞なので「直ぐに移動して交番所へ来い」と場所を説明されたが、知らん土地だし行く気も無くはっきり聞いていなかった。
ところが商店街を抜け幹線道に出ようとウロウロしていると
丁度交番所の前で、運悪く自転車で帰って来る先ほどのお巡りさんに会ってしまった。これで減点6一ヶ月の免停である。

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1977年も続けて捕まった年である。この頃よく通っていた小料理屋のオーナが西区汐見橋のマンションで住んでおり、行く度に送っていき泊まっていた。
ここで一年間に6回もレッカーで持っていかれたのである。オーナの話で「今日は午前中やから大丈夫や」「今日は雨降りやから大丈夫や」「今日は土曜やから大丈夫や」の話であったが全て当たらなかった。
雨降りの土曜は安心して夕方に出かけようとしたら車が無い。6回目なので免停になる。
オーナに「お前も運転しとるんやから...........」と頼んだ。
レッカーの保管場所は阿波座の民間の駐車場で、免許証は車の中に置いてあるのでまずタクシーで駐車場に行き免許証を取り、タクシーで本田の西警察まで行き手続きを済まして又タクシーで駐車場まで戻らねばならない。多い日は7時間の駐車料金を取られた事もある。
罰金・レッカー代・タクシー代・駐車代でこの年はえらい目にあった。
マンションは西区にあり、ここでは安心して眠れないので浪速区なら大丈夫だろうと、汐見橋を渡り浪速区で停めるようになった。
この時は浪速警察に世話にならなかったが文頭にもあるように20年後には、仕事の打合せで週2回大国町に行く様になってからは、度々世話になる事になる。
ある晩いつもの場所に左側を壁に付け、ドアロックを掛けて右から出たのであるが、翌日キーが入らない。実は前の晩自分のガレージで
車上狙いにあい、右ドアのキー穴にドライバーのような物を突っ込まれ穴が潰れてキーが入らなくなっていたのだ。2ドアハードトップだったのでどうしようもない。
自分は狭くて車の左側には入れないので小柄なオーナに入ってもらい、それでもきつそうである。
やっとのことでドアを開いたが、隙間から手を入れ、その頃は未だ手動であった窓の取手を回して開けるのも苦労し、その開いた窓から自分が
屋根に登り足から滑り込んで車内に入ることが出来た。
オーナは営業用の服が壁と車のボディーで真っ黒に汚れてしまい着替えに帰るはめになった。
このマンション通いは1978年の3月まで続いたのである。

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40年間の運転で幸いにも飲酒運転で捕まった事は一度もないが検問にかかった事が二度ある。

1.       1971年頃 年末の深夜に西野と梅田で飲んだ帰り、御堂筋の突当りの難波球場を左折しガードを潜り右折し南海電車と平行している道路に入った。
前方50m先で赤い回転灯が見えたので「こらアカン」と左の細い道路に入ると
例の黄と黒の柵で封鎖されている。 バックして元の道路に戻ると、お巡りさんが走って来た。「飲酒運転の検問をやっています。はーっと、息はいてください」「飲んでますね。ここに車を置いて、免許証持ってあの車まで歩いて下さい」と白いライトバンを指差し自分は後から着いて来た。
その頃は風船を膨らましてアルコール検知器に風船の口を繋げて測定していたが、現在はどうなっているのか知らない。
測定器に風船をセットして、数値が出たのを見せられた。「0.2に上がったで、飲んでるやろ!ほんまやったら正月をブタ箱で過ごさなあかんとこや」「??」「これ警告書や、休んで帰れ」と言われたが理解できなかった。その後直ぐ柵等を片付けライトバンに積み込みんで、自分等を置いたまま何も言わず行ってしまった。
西野に「休んで帰れと言われたけど朝まで休むんかな。今帰ってもええやろうか?」と心配しながら発車した。(現在は0.15mg/ℓで飲酒運転)

2.       1974年頃 西宮のS氏宅で将棋を指しに行きご馳走になって帰る途中、午後11時ごろ阿倍野近鉄百貨店の南側の一方通行道に入った所で、お巡りさんに停められた。
「はーっと、息はいてください。もっと強くはいて下さい」「飲んでますね」「いや、飲んでないで」「目が赤いですよ。こっちへ来てください」と交番所に連れ込まれた。
口を水で漱ぎ風船を膨らまし、測定器に掛けたら数値は0である。「この測定器は故障していますので、別のを取り寄せます」「ワシ飲んでへんで」お巡りさん無線でパトカーを呼んだ。最初に来た阿倍野2号のパトカーには測定器は積んでいなかったので、また別のパトカーを呼んだ。これは積んでいたので風船を膨らましたがこの測定器もやっぱり0である。
「メータは上がらんかっけど、飲んでるのは確かや、警告書を出しとく」交番所を出たのが午前2時ごろで3時間も交番所に止められていたのだ。ここから自宅までは1.5km程である。交番所を出て500m程は狭くて速度20kmの一方通行道路で途中に踏切もある。パトカーが交番所から距離置いて、家の前まで付いて来たけど知ってたよ。

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他に飲酒運転で思い出すのは

a-     朝車に乗ろうとガレージに行くと、運転席側のフロントガラスに「迷惑駐車は止めて下さい……」と書かれた紙が貼ってある。昨晩は天神橋で飲んで貼り紙に気付かず運転して帰ったのだ。目の前に紙が貼ってあるのにどんな運転して帰って来たのやろう、この紙は全面に糊が塗られており、乾いていたので剥がすのに手間が掛かった。

b-     道頓堀の近くに車を止め飲んで明け方、車に戻ると四輪全部パンクしている。駐車場の向いの、家の塀に停めていたので店の者にやられたのだろう。結局「JAF」に連絡して修理してもらい入会させられたが翌年からは止めてしまった。

c-     1979年1月26日(金)難波で麻雀した帰り13号線の阿倍野交差点で、何台ものパトカーの回転灯が回り大掛りな検問をやっている。今回は完全にやられたと思っていると、南行きを通行止めにしていただけであった。家に帰りテレビを付けると後で言われる「三菱銀行北畠支店・猟銃人質事件(梅川事件)」が中継されており、朝まで見てしまった。

他にも思い出も多いのだが、差障りがあるのでここでは書く事は出来ない。
2002
6月 道路交通法(飲酒運転)が改正された後は全く飲んで運転はしなくなり、週二回の仕事の打合せも地下鉄に乗るようになった。
今まで違反も事故も無かったのは、ただ運が良かっただけで、ちょっと間違えば大事になっていたのだと、この歳になって気付いたのは怖い話である。

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これまで購入した13台をアルバムから探してみたが、車の写真はほとんど撮っていない。
一枚も無いのが2台あり、7台は一枚のみでそのうち西野に撮ってもらったのが4台である。
写真が一枚でもあれば当時を思い出されるのに残念なことをした。 

代目

写真

車種

 期間

 

購入年

1

マークⅡ

 2年

 コロナ・マークⅡ初代 1600SL
この車は新潟トヨペットで購入し「新ナンバー」でこの頃は関西で珍しかった。西野と九州一周・四国・山陰とカーステレオ聞きながら走りまくったので写真は多い。

1969年

2

コロナ

 2年

 コロナ 4代目 2ドアハードトップ1700SL
この年マークⅡがフルモデルチェンジするので、グレイドを落として買った車。
写真は西野と甲浦へ釣行時の写真これ一枚しかない。

1971年

3

マークⅡ

2年

 マークⅡ 2代目 4ドア2000GSL
新潟トヨペットで購入し大阪へ帰る途中、併走中のダンプカーから石が屋根に落ち、雨水が溜まる程天井がへこんだ不運な車だった。写真は西野宅を訪問時に撮ってもらった。

1973年

4

マークⅡ

 1.7年

マークⅡ 2代目 2ドアハードトップ2000GSL?
この車では西野と若狭 和歌山 四国と釣りに通った車であり、写真は西野と日置に行った時でこの日初めて年無しのチヌを釣った。この車は一番好きな車だったのに写真はこれしかない。

1975年

5

マークⅡ

 2年

 ナマークⅡ 3代目 2ドアハードトップ
大阪トヨタの社長についで、大阪では2番目の車で、実物は勿論カタログも見ずに予約した車である。
これも西野宅を訪問時に撮ってもらった。

1976年

6

スカイライン

 2年

 スカイライン 5代目 2ドアハードトップ
初めて日産の車に乗ったがハンドルは重いし、マークⅡに比べ座席も固い。またクーラーの吹出し口が灰皿にの下にあり、阪神高速で吸殻が燃え始め、車内は煙が充満し窓を開けむせびながら走った思い出がある。

1978年

7

マークⅡ

 4年

 マークⅡ 4代目 4ドアハードトップ
ボデイカラーが「アーバン・トーニング」のツートン、これも好きな車で乗り始めて車検を受けたのが初めての車だった。 

1980年

8

マークⅡ

4年

 マークⅡ 5代目 4ドアハードトップ
写真は納車日にガレージ内で撮ったと思うがこれしかない。サイドミラーがドアに付いたので、運転しずらかった以外あまり印象には残っていない。

1984年

9

 

マークⅡ

 5年

 マークⅡ 6代目
白いマークⅡであったのは間違いない何故なら下取りが高いと云う理由で白以外は買うことが許されなかったからである。写真もないので、スタイルも思い出せないし、印象に全く残っていない車である。

1988年

10

マジェスタ

 4.5年

クラウン・ マジェスタ 初代
税務署で申告した後、ムカムカしながら帰る途中、日産のシーマーを見に行ったが店員の態度悪かったのでやめた。次にセルシオを見に大阪トヨペットに寄るも置いていなかったが、展示されていたマジェスタが気にいったので、衝動買いをしてしまった。

1993年

11

マジェスタ

3.5年

 クラウン・ マジェスタ 2代目
車検時に前後のバンパー取替えて半年後、一旦停止を無視した19歳の子供にあてられた。売れた金額60万円・降りた保険が36万円・馬鹿にすな。大阪トヨタ・三井住友は購入時は客であるが、事故したらやっかいもんか?二度と買わんで、あんたんとこ。 事故時の写真しか無い。     (詳細は「愛車ボロボロ」参照)

1998年

12

エスティマ

 1.5年

 エスティマ 2代目
マジェスタの事故で車高のある方が、あてられた時は安全であると馬鹿な考えで買ってしまったが、やっぱり運転するのも乗るのも乗用車がええ。写真はアルバムには無いので釣仲間のHPから拝借した。
大阪トヨペットの事故後の対応が悪く、1年半で走行距離5000kmであったがセドリックに乗り換えた。

2002年

13

セドリック

 

セドリック 10代目
スカイライン以来の2台目の日産車である。内装及び装備はマジェスタに劣るが客より保険屋を大事にするトヨタの車に乗っているよりは気分がええ。

2003年

                                                                      top 

 

 

 

 

 

兄の法要が終わった夜に兄嫁ら身内で麻雀を打つ事になり、酒を飲みながら金も賭けずに気楽に打つのは楽しいもんである。
麻雀は高校時代から打ち始めたが、全く打たなくなって20年以上にもなるのに、役も点数計算も打っている内に思い出してきた。

あの頃でで忘れられない事は、期末試験中の事である。 学校帰りに、西野等いつものメンバーと天王寺の行き付けの雀荘
「東海倶楽部」で、タバコをふかしながら打っていると、教師が4人入って来るのに気が付き卓の下で、タバコを素手でもみ消した。 教師等は何事もないように打ち始めたので、自分等はこそこそと支払いを済まして表に出た。 平日の昼間から学生服姿のまま打っているのを見逃さられるはずもなく、西野等は翌日呼び出され一週間の停学処分になるのだが、自分だけクラスが違うので免れた。
その後は誰かが
大阪市大病院裏の狭い路地に薄汚い雀荘を見つけてきたので入ってみると、料金は安いし教師が入ってくる心配も無いのでここを遊び場に決め、学校帰りに寄るといつも誰か居るのでよく通った。 ここは雀荘と言っても一階は3卓あるが1卓は階段の下で洗濯機も置いてある。 二階にも3卓あるが、隣の客と背中がすれるほどの狭さで実に打ちにくい。 しょぼくれた親父がやっていたが、親に似ず可愛い高校生の姉妹が居たのでこれが目当てでもあった。

表通りの旭町商店街はかなりガラの悪い場所で、売春防止法が施行され赤線青線がなくなっても、生残っていた白線地帯である。 おばちゃんがいたる所に立っており 
「兄ちゃん学割りきくで」 「マッチ一本10円でええで」 と声を掛けられる。 マッチとは、おばちゃんがしゃがんでスカートをめくり股を開き、マッチを付けて火が消えるまで見せるもので、指先が火傷するまで見せて貰った。 金がない日は飲み屋の表の縁台で50円の焼酎を飲んで帰り、金があれば店の中に入りビールの大ビン付きでイッパツ500円であるがおばちゃん上手くて2分は持たない。 これは店の二階に上がり座布団の上にズボンを膝まで降ろし仰向けに寝ると、おばちゃんにスカートを着けたまま跨られるもので、身体は触らしてはくれない。 オカマは良い服着ているのが多いので見分けがついたが、中には引っかかる奴もいる。 俗にいうスマタである。
卒業後久し振りに、メンバーと待ち合わせ旭町商店街の真新しい雀荘に入ると、店は20卓程が並び客も多く繁盛していた。 タバコの煙で霞む中に見覚えのある、あの薄汚い雀荘の親父を見つけ、話を聞くと最近この店を買いオーナーになった言う。 可愛かった姉妹も昔の面影はなく濃い化粧で派手な服を着て客に尻触られキャーキャー騒ぎながら注文をとっており、妹は高校を中退したとの事である。 この後もこの雀荘にはこのメンバーと打つ時はよく通った。

西野以外のメンバーに 「トイトイの徳」 「タイメンの豆腐屋」 「ダジャレのザキ」 「トンダアメ山」 「バタ」 等々・・・・おもろい奴ばかりである。
トンダアメ山は待ち合せには1時間以上遅れても必ず来るので、メンバーが足らない日は待たねばならない、こいつは約束の時間に家を出ていたのだ。 この男で思い出すのは、結婚する積りの彼女に振られたので、「今までプレゼントした荷物を取り返しに行くから一緒に来てくれ」 と頼まれ彼女の家へ車で行った。 彼が中に入ると直ぐ二人の大声で罵しりあいが始まり近所の人が集まってきた。 その中をガスレンジやガスコンロ等使っているのはガス管をはずして持出し、車に積込み自宅まで運んでやった事がある。 

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HP 「voosyo A」 を立ち上げるのに手間取り3ヶ月振りのひとり言である。

最初に就職した東区のY商事を半年で辞め八尾近くのK鋳鋼所に就職した。 この会社は麻雀が盛んで仕事が終わると和室の集会所に集まり、毎日3-4卓が囲まれており、自分も仲間に入った。平日は就業の4時から午後9時ごろまで打ち、土曜日はその後工場近くの仲間のアパート行き徹夜し、日曜の晩に家に帰る習慣になった。 ある月曜の朝、工場の門で前日に大負けした奴が、メンバーを集めて居りそのままアパートに行き麻雀を始め、結局この日も徹夜になった。 翌日の昼過ぎドアをノックをされたので全員が手を止め静かにして出なかたが、麻雀仲間が4人無断欠勤しているので課長が様子を見に来たらしく、翌日相当怒られたらしい。自分は課が違うので高校の時同様助かった。 メンバー足りないときは各自知り合いの軍手屋・ブローカー等いかがわしい奴を連れて来て新しい麻雀仲間が加わり、場所も今里の旅館とか吹田の農家とか工場外での回数は増えていった。
この会社は気が合わずいずれ辞める積もりでおり、雨が降ればズル休みして近所のパチンコ屋へ通い、昼食の後で芝生で寝転がってお陽さん見ていると仕事が馬鹿らしくなり早退をしていた。そんな時いつもの連れが 
「今日は住之江のさよなら競輪やで」 と誘われてサボって住之江に行った。昭和39年5月12日(火)のことである。今は競艇場のメッカとなっているが当時は競輪の人気にはるか及ばなかった。ちなみに子供の頃から親しんでいた長居競馬場は昭和34年に廃止になった。

この日は二人共当たらず、げん直しにスタンドを降りビールを飲んだついでに予想屋から買った5-2、2-5を各100円を車券売場から買ってスタンドに上がった。ところが予想屋の 
5-2 が入り配当金19310円である。
それまでは車検を買うのはスタンドでポケットに札束いっぱい入れた、前掛けしたおばちゃんから買っていのである。と云うのも1枚90円で買えるし、スタンドを降りて窓口へ買いに行く手間も省けるためであるが、配当金は1万円以上が当たっても1万円しか払って貰えなかったのである。あの頃はのみ屋がスタンドで堂々と商売をしていたのだ。
予想屋にチップを渡し二人で難波に出て「夢の国」に行き今晩の予約をし、時間つぶしに飛田でイッパツ、平野でイッパツしたら難波に戻る気合も抜け平野で連れのアパートに泊まった。

話を戻し、この春の定期昇給で時間給が52円になった、これは全従業員中最低である。庶務課に辞令を持って行き課長に 「これ一桁間違っていますよ」 言うと辞令見ながら課長 「間違ってない」 「そんなら会社辞めますわ」 「そうか 辞めるか」 「今年のボーナスは貰えますやろな」 「そら支給日まで働かな出せん」 「そんなら支給日まで休みますわ」 「今日辞めてええ。 やるから支給日に取りに来い」 とわずかなボーナス貰ってここも半年で辞めた。
月給は6~7千円も無かったが麻雀の金が月給の倍以上は入ったので小遣いには苦労していない。

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K鋳鋼所を辞めた後もこの連中とは続いており、又偶然知り合った見ず知らずの奴とも打っていた。そんな時、自動車教習所で知りあった喫茶店のオーナとその連れと霞町で打ってえらい目にあったことがある。打ち始めて時間が経ってからであるが、不自然な会話が多い事に気付いた。自分がリーチを掛けても安い手の仲間に打つ、自分が親になれば必ず闇聴の安い手で飛ばされる、仲間が聴牌ると他は降りる、あきらかに「清一・ 混一・対々」を狙っているのに鳴かす等々である。組んだ三人と打てば勝てる分けがないこと、こんな麻雀があること、自分は世間知らずだったことに目覚めた夜だった。これに懲りメンバーも選ぶようになり、麻雀の練習にも熱が入った

H設計の社長と知合い、このメンバーとやり始めた頃には盲牌はもちろん積込みも少しは習得していたのでソコソコの小遣いは稼いでいた。この連中はプロの雀士なみで本業はソコソコにして朝からでも囲んでいた。何処からか探してきた東淀川の淡路商店街の店主達とも打つようになり、商店街の休日の前夜には徹夜麻雀になった。この頃の一般のレートは点3か点5が普通であるが
ここでは点ピンで、ハコ点になると3000円の負けになる。サイの目が全てケン牌・ヤキトリ・ハナ牌等かなりのインフレ麻雀でオヤ満振り込めばイッパツで終了である。店主達はあまり上手くない上に金は持っているので自分等にはいい客であった。昭和43年頃である。

その日もH設計に行くと見覚えの顔がいたので話してみると、中学・高校と同期だった永原で、6年振りの出会いだった。この男真面目で頭もよく就職したのは大手のS金属であったが、若くして結婚し子供もでき岸和田に家を建てたので、実入りの良い設計士になったらしい。この後、永原とは西野等と仕事・釣り・酒等でよく遊んだ。西野と和歌山方面へ釣りに行った帰りは必ず寄って、飯をよばれ将棋をさしていた。西野と「嫁はんもらうなら、あんな女がええなあ」と話していたが、若くしてなくなった。永原とは五年ほど前まで付き合っていたが今は年賀状のやり取りだけになっている。

その頃
「週間大衆」主催の麻雀全国大会をやっており、H設計のメンバーは大阪大会で強豪の「X生命」「X銀行」についで3位だったか5位かに入賞したが、全国大会に行けなかったと、社長に自分らの写真が載っている週刊誌を自慢げに見せられた。社長はこのメンバーの中では下手な方で 「社長の代わりにワシが入っとたら全国大会には行けてたで、何で黙っとたんや、来年は誘えや」 と悔し紛れに言ったが翌年も声は掛からなかった。サラリーマン麻雀ではこの連中に勝つのは難しいだろう。 

この頃は
「自分流ろっけん積み」も積める様になり、サイの目「5」を出す練習、上牌を人差し指で押さえ下牌に軽く擦って牌を読取る練習等もやっていた。今思えば出来る訳のないあほな事を毎日々真剣にやっていたのである。

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ろっけん積み

 

上山

下山


どらばく

 

上山

下山


分流 ろっけん積み

 

上山

下山


ぶっこ抜き

 

上山

下山

自分が特に練習していたのが「ろっけん積み」で、図のように積むとオヤの時にサイの目を出せば「小三元」確定である。同類の「どらばく」がある、これもオヤの時にサイの目の時は1索、を出せば2索がドラ及びウラドラがコーツで手の内に入る。
これ等を元に
「自分流ろっけん積み」を思いつき練習した。
これは牌を集めるのが比較的に楽で積み込みも簡単である。サイの目
ならばドラの四萬・東が対子、を出せばドラの5萬が対子入る程度の地味な積み込である。
上手く積み込んだとしても肝心のはサイの目であり、
5・9の目を出さない限り何の意味もなく、悪いことに敵に流れるで始末が悪い。サイコロの練習はいくらやっても思いの目が出ない。そこでやっていたのが今で言う「置きザイ」「すべりザイ」である。これは字の通りサイコロを振るふりして置いたり、滑らしたりするのである。常にこの振り方をして自分の癖であると、相手に認めさせてなければならない。後にサイは対面のヤマに当てようではないかと、いうことになり積み込みは出来なくなった。

他に積み込みとはいえない
「ぶっこ抜き」がある。これは積み込みの技術は全く要らない。山を整える振りして自分の手牌の右端4枚と入れ替えるのであるが、徹夜麻雀等の時はよくやられるので気を付けなければいけない。自分は積み込みはしたがこのようないかさまはしなかった。

色々やってみて確実なのは自分のヤマは少しの稗でも確実に覚えるのが一番である。これならば相手に入った稗が分かり手の内が推理しやすい。ヤマをきっちり17列並べ、やたらに早く積み終わる相手は積込んでいるとにらんで間違いない。
その後3人内が主流になり、全自動卓が出てきて前ほど儲からなくなり、このメンバーとは回数も減り、誘われなくなり麻雀はやらなくなった。

その後今の仕事に就いて週末に仕事仲間と始め、レートも点5で遊びの麻雀である。今までバクチ麻雀では酒は飲まなかったが、ビールを飲みながら
「引っかけ麻雀」で楽しくやっていた。その内しらふの人間には勝てなくなり、積み込んだ牌も忘れるようになり、メンバーも集まらなくなり全く止めてしまった。

数年後に近所の散髪屋で店を閉めた後、2-3卓囲んでいたのが足らん時に誘われてメンバーになり、毎晩「ワンカップ大関」持参で通うことになった。この連中は覚えて一年もたたない素人で、自分が打ってきた、親しい仲間とやる
「遊び麻雀」と違うし「バクチ麻雀」とも違う。何というか「乞食麻雀」みたいなもんで面白みがなく誘われても行かなくなり、 20年程前から麻雀も全くやらなくなってしまった。

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久し振りのひとり言 七ヶ月ぶり

05月27日高校の同窓会あり、出席したのは15人であるが覚えているのは半数程で、自己紹介の後でも顔と名前が一致しないのが数人いた。
この前の同窓会は12年前で自分はすっかり忘れて釣りに行き、その夜ラグビー仲間のS君からの電話で思い出したがもう遅い。その前が新世界の「ずぼら屋」と思うが、自分が運送屋でトラックに乗っていた時だから35年振りである。
自分のクラスのD組の連中とは学校時代からあまり付き合いがなく、B組の西野達と麻雀等の遊びが多かったし、ラグビーの仲間も来ていないので、自分だけ浮いた感じを受けた。
B組の幹事を西野とやりB組の同窓会には参加したことはあった。

二次会はY君の馴染みの店でカラオケ、三次会はS君の店に行く、この時には数人になっていたと思うが覚えていない。タクシーで送ってもらったのはかすかに記憶にある。

翌日右手のこぶしが腫れて痛い。ああえらいことやってしまったのではないかと、まずはお詫びの葉書をS君に出した。翌日S君から電話あり彼もあまり覚えていないようであったが、店には迷惑かけていなっかたらしい。ただ行く途中赤いスポーツカーと何かあったらしい、そう言わればボデーを殴ったような気もする。
Y君にも、ただ飲みした侘びのメールを入れる、返事は優しいお言葉があり。タクシーに同乗していたと思われる会計士のT君にもメールを入れるが返事がない。
来年また同窓会をやるらしいが、もし誘われたら酒を控えめにせねば。外では酒に気を付ける為に買った指輪をはめていたのに!

この年になって酒が弱くなり体力もないのを解っているのに、どうしょうもない奴だと、思いっきり反省するがもう遅い。こんな事で今まで何人かの友達を失った。広い世間を狭く狭く生きてきたこの人生、死ぬまで治らんやろ。

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最近耳鳴りが大きくなったように思う、また目の中は以前の飛蚊症と違う何者かが飛び始めたようだ。

春頃までは耳の中には、
ニイニイゼミが住みついていた。こいつとは 長い付合いがあり、気にならない存在であって、眠るにも気にならなかった。
ところが、クマゼミが侵入してきたのだ。 気にすると昼でも シェッシェッシェッシェッ と鳴きまくり実にやかましいし落ち着かない。
クマゼミのおかげだ眠る時はテレビを付けたまま眠るときもあるが、ほとんど酔ってるので気にならないが、やっぱりやかましい。

これも同じく春頃、目の中には透きとおったようで濁ったボウフラが動いていた。天気の良い昼間に窓から外を見たり白い壁を見つめていると、上の方からから下の方へ次から次へと落ちて来るのだ、このボウフラが。
それが今では蚊も入ってきて、2・3匹が目の動きに合わせて上下左右に飛びまわるので実にうっとうしい。 
黒いゴマツブのようなもので、どちらかと云うと蚊よりコマバエの方が近い。 窓を開けた時コマバエが入ってくることがあり、顔を動かした時にはコマバエが目の前を横切ったと勘違いして、思わず手で払ってしまう。
今では嫁はんの手前かっこ悪いので知らん振りをしているが、正直いってわずらわしい。
ボウフラは日中の屋外では相変わらず落ちてくるし、明るい場所では目をつぶっていてもコマバエはブンブン飛んでいる。
今もパソコンの画面の前を左に右に飛んでいる、これは本物か?嫁はんおらん、よし 「フマキラーA ダブルジェット」 をシュウシュウとイッパツ。

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にんがぼ推計

西暦

総数

新生児

2006

123,263,000

1,110,000

2050

92,808,903

504,063

2100

43,199,731

293,091

2200

9,529,766

54,650

2300

2,104,643

11,736

2350

974,794

5,834

2400

460,223

2,597

 

県別特集出生率

順位

都道府県

出生率

1

沖縄県

1.71

2

福井県

1.47

3

宮崎県

1.46

45

京都府

1.13

46

奈良県

1.12

47

東京都

0.98

 

2005年(平成17年)の統計局の発表に依ると特殊出生率がとうとう1.25になってしまった。 1992年(平成4年)に出生率が1.5になった時に簡単な計算をやってみたが、この時の結果は2400年には日本人はゼロになると出た。今回は1.25の数値で、統計局HPの「年齢(5歳階級)男女別推計人口」のデータからより詳しく計算してみた。結果は2400年には46万人になったが(左上表参照)大きな狂いではない。この数字は現在の90歳以上の人口77万人より少ないのである。2200年には1000万人を割ってしまい2350年には日本人は100万人になってしまうのだ。

1992年頃は銀行のバブル崩壊で100兆円の不良債権を抱えており、国は公的資金を60兆円注入すると発表したが、(これは自分の思い違いかも知れない)この60兆円を生まれた赤ちゃん一人に500万円のお祝金を、プレゼントすれば人口は減らないし高齢者社会も来ないのではと思った。 60兆÷500万=1200万 なんと1200万人の日本人が誕生するのだ。 また4人も生まれればマンションの頭金には充分だし、 赤ちゃん一人が生み出す消費は80年も続くのであり、バブルなんか吹っ飛んでしまう。「金は貸さん利子も付けん銀行」助けるより、こっちの方がええやろ」 この頃誰彼にも喋っていたが、 真面目に話を聞いてくれたのは誰もいなかったようだ。1.25の数字が発表された時 「兄ちゃんが言っていたこと正しかったよ」と言った従弟がいた。 

生み終わった人に不公平・祝金を渡す時期が問題・子供を殺す親・ 
この14年間政府は何をしていたのか、少子化対策と声上げているだけで歯止めがかかると思っていたのか?

ちなみにお隣の韓国は世界一低い1.08であり、現在の人口を4800万人として計算すると2200年には370万になった。

 

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