山本義久・人生の第二のステージ

 この手記を書く前提として、現在の私には長文作成という作業は大変困難である。そのためにこの手記の文章編集は、倒れてから現在まで私の介護を担当してくれている介護福祉士のS氏と妻と私の共同作業であることを了承の上、読んでいただければと願っている。

  平成14年3月9日、私の人生の中で最悪、いや良い方向で考えれば第二の人生のスタートとなった左脳内出血(左被殻出血)が私をおそった忘れられない日である。それまでの私の人生は順調で、我ながら満足のいく人生だった。私は医者としてだけではなく、インターネットを使いこなし電子カルテの作成などに、余念がなかった。権威が欲しかったといえば、うそではない。しかし権威というより私は医学に対する情熱だと思いたい。私は努力を惜しまなかった。朝の診療は20から30人ほどの患者さんを診察する。午前の診療を終えるとすぐに電子カルテ作成に入り、その関連の会などに、積極的に参加した。また、日本内科学会認定専門医(FJSIM)、米国内科学会(ACPASIM)フェロー(FACP)、日本腎臓学会、日本透析医学会、日本臨床内科学会、日本プライマリ・ケア学会なども参加した。しかし、私は忘れていた。自分の身体が肥満群になり、血圧は最高になっていた事を。

  この日、大阪国際交流センターには電子カルテ作成のために30人ぐらいの医者が集まっていた。はじまってすぐ自分の身体が「なんかへんだな」と思ったとたん、私は意識を失った。気が付いた時は大阪警察病院の集中治療室だった。倒れた日から3日がたっていた。私の記憶は完全に失なわれていた。ここがどこかも妻の顔も心配そうに覗き込む息子たちの事も、そしてなによりこの自分が誰なのかも、含めてすべてわからなかった。なにかを話そうとすると口から出てくるのはただの音、言葉ではなかった。言葉は完全に失われていた。言いたい事、聞きたいことがたくさんあるのに言葉が出ない。私はただうなっていたように、まわりは思っただろう。これが全失語症である。そして右中枢性麻痺(重度右片麻痺)、拘縮(右足関節)、疼痛(右肩関節)、知覚障害(感覚)、言語障害(失語症 )これらがカルテに記入された病名である。

 大阪警察病院からボバース記念病院に移ったのは倒れてから1ヶ月後の事である。

このころになると車椅子での移動、ベットの柵につかまりながら立位の訓練など、リハビリの毎日であった。言語の方と言えば、ウエルニッケ失語〔流暢性失語〕であるから会話らしい言葉も出るようにはなったが、例えば「今日は何月何日何曜日ですか?」と聞かれると答える事が出来ない。「おはよう」と挨拶されれば「おはよう」と言葉が出るようになったのに質問形式になるとパニックになり、言葉を一向に思い出せない。絵カードで名前を声に出していう。又はノートに名前を書くという言語訓練が続く。それは、幼稚園児が言葉、文字などを覚えるのと同じで、たとえば、りんごの絵をみてリンゴとかく、それを毎日、飽きることなく、続けるのである。この時点での私は幼稚園児でさえもなく、きっと赤ん坊に近かったようだ。先ほどまでりんごの絵を見てりんごと言えて、そして書けたのに、次の瞬間、それが質問形式になると口からもそして文字にすることもできなくなる始末であった。

 数字の方はもうさっぱりで、とくに極端な間違いが多い。例えば1(いち)を100(ひゃく)と言ったりする。自分は正解の1と言っているつもりが口から出た自分の言葉は100になっているわけだ。現時点でもこの数字の間違いは多い。

 ある日、私につくヘルパー〔現在は介護福祉士〕と世間話をしている時、自分の言いたい事が口から出ず一向に通じない。あせると言葉がタコのように、くにゃくにゃと意味をもたない。その時、私の左手は意識のないまま紙切れに英単で記し、ヘルパーに「これ、このこと」と表現した。ヘルパーは英単から私の言いたいことが理解できたというふうに、過去に学んだ英語の記憶が意識のないまま文字〔スペル〕が出たりする。また小学生で学ぶ漢字がわからなかったりするのに英語がすっと読めたりする。ヘルパーは面白がって時折簡単な英語を話の中に入れたり、私が言葉を思い出せないと、英語のスペルで示したりと協力を惜しまなかった。しかしだからと言って毎回、英語が浮かぶかというとそうでない。私の記憶ははるか遠くにいたり又急に身近になったりの繰り返しである。

 この時期が私にとってとてもつらいものであった。過去の私が映っているビデオなどを見ると涙が止まらない。絶望感からは少しずつ逃れたものの、悔しさ、焦り、不安それらが入り混じって毎日、夜になると涙が滝のように流れてた。

 車椅子から杖歩行へと移行したのは初夏を迎えていた。この頃になると努力する事が日課であるかのように少しの時をも無駄にしたくないというように病院の廊下を何周も杖をついて歩いた。時には病院を抜け出し、妻の介助やヘルパーと共に町に出てみたりもした。この頃には会話らしきものは出来るようになっていた。しかし肝心な言葉が出てこず、やはり聞き手は理解し難い事が多いようだった。日常生活全般を今までの利き手(右手)を左手に移す訓練の中で今ではなんでも左手・左足でこなすことが出来る。

 夏を迎え、私は妻の友人の紹介で協和会病院に転院することとなった。杖をついて、歩くことにもなれ、順調に機能回復に向かっていた。協和会病院での言語訓練は非常に面白く私の視野を拡大させた。言語聴覚士である柏木敏宏先生には後に記載するが在宅になっても色んな体験をさせてもらい感謝の念に絶えない。当日の新聞の記事や天気など、相手に正確に通じるように説明する。当時の一番のニュースであった拉致事件などは私に大きな刺激を与えてくれたように思う。この頃、日課として短文、書字練習、日記を付けることや携帯電話の配列表で発音の練習し、パソコンを持ち込んで、過去の記憶を左手でまさぐるかのようにマウスを動かした。

 機能訓練の方はマット運動、立ち上がり、応用歩行、階段練習、15分のストレッチ。この頃になると日常生活はほぼ自立に向かい、しかし残されのはやはり言語面であった。この失語症という強靭でやっかいな壁との闘いを私はいつまで続けていくのだろうか。  こうして今年2月、在宅に不安をかかえ、我が家に約1年振りで帰ってきたのである。 在宅にあたり妻は私にコミニュケーションが必要と考え、学校に通うことを思いついた。しかし脳血管障害の私を受け入れる所は皆無だった。大阪市立第二工芸高校が編入制度を採っていると聞いて門をたたいたが、世間は甘くはなかった。妻とヘルパーは学校側と何回も交渉をもち、入学の許可を得るには長い時間を要した。障害を持つ者が学校に行くという当たり前の権利をも話し合いを重ねないと行くことができないという現実を味わった。そして第二工芸高校3年生に編入したのである。そして建築CAD(Computer Aided Design)を中心に、学んでいる。さらに、ホームページ(http://www.oct.zaq.ne.jp/afaae700/)を作成し「私の左脳内出血の人生の第2ステージ」として紹介している。また

聴覚士養成校で授業の一環として、柏木先生の主宰で失語症患者がモデルとなり、学生たちが失語症を学ぶ授業が開催され、私がそのモデルとなった。学生たちとふれあうことがどんなに私を元気づけたか下記、その感想文である。

 大阪リハビリテーション専門学校(大阪)、神戸総合医療介護福祉専門学校(神戸)、関西学研医療福祉学院(奈良)の言語聴覚士(ST)の養成学校、その他、行岡リハビリテーション専門学院(大阪)の理学療法士(PT)、大阪リハビリテーション専門学校の作業療法士(OT)から要請を受け、失語症の私たちと学生との交流会を通して、私は非常に明るい気持ちになった。それは自分の将来を真剣に考え、それを口に出して、しっかり語る学生たちに新鮮さを覚え、はちきれんばかりの若さに出会い、私は現在、47歳だが、若がえった気がした。なんといっても若い女性が多かったことがうれしい。私は失語症になった。いいたいことがたくさんあるのに言えないことのもどかしさ、文字を思い出せないつらさ。どうしても閉じこもりきりになる生活の中で学生たちは私を通して失語症を知り、学び、私は学生たちから生きる喜びをもらった気がする。おこがましいが社会貢献にもなったようにも思う。

2回目の夏、私は一人で町に出るようになった。重度の障害を持った人が一人で車椅子に乗って町に出ている姿が目についたり、今まで気づかなかった事が目に止まるようになった。そして障害を持つ者が町に出ることがどんなに困難であるか私は身を持って体験するのである。また、図書館で見つけた本に、現役の医師で、脳卒中を発病し、見事、克服された鈴木 信さんという方がおられ、その著書<脳卒中・あなたならどうする一完全復帰した医師の記録>に出会い、それに励まされ、また自信にもなった。

二人の子供たち、家内の励まし、家族がなにより大切なものと今かみしめている。私を助けてくれる人々に囲まれて、人生でなにが大切なのか、倒れもせず忙しく医者をしていたら気づかなかった多くの幸せを私はしみじみ感じている。

 この手記は先生方のすすめに依る。私はこの手記作成にあたり私の第二の人生を振り返りそしてまたこれからの第二の人生も楽しく努力もしてがんばっていこうと考えている。手記作成を奨めてくださった先生方には感謝をしてやまない。ありがとうございました。

  20031122日  自宅にて 山本 義久 
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